超級龍熱

香港功夫映画と共に

衝撃!ウィンストン煙草CMの撮影に「死亡遊戯」のセットが使用されていた!!

2016-10-30 19:11:03 | 闘神伝説~李小龍
以前に私が「燃えよドラゴン完全ガイド」で本邦初の形で紹介しました生前のリーさんこと李小龍が参加したとされるウィンストン煙草のコマーシャルに関して、今週衝撃の証拠写真が公開されました。
それがこれまで数々のリーさん関連書を上梓しているスティーブ・ケレッジ氏が公開した2枚のスチールで、1枚が今回当ブログに貼りましたリーさんがジャケット姿(後述します)でウィンストン煙草を手に「ニヤリ!」と笑顔を見せている様子を、隣で解元がこれまた笑顔で見つめている卒倒写真です。
もう1枚は今回は貼りませんでしたが、邵氏公司で王羽や羅烈と同期だった武打星の鄭雷がウィンストン煙草を手にテレビ向けの宣伝をしているスチールです。
私がとにかく衝撃を受けたのが、このウィンストン煙草のCMが同時期にリー監督が撮影中だった「死亡遊戯」のセットを使用(!)して撮影されていた、という事実です。
だからこそ「死亡遊戯」の出演者の解元がリーさんと一緒のフレームに納まっているんでしょうし、鄭雷のCMシーンの背後に写っている壁が明らかに池漢載が守る“龍殿”のセットの龍の壁画である事が確認出来ます。
ケレッジ氏によると、リーさんはこのウィンストン煙草のCM撮影自体には直接関わってはいないそうですが、CM撮影当日は撮影がスムーズに運ぶように「死亡遊戯」のセットに姿を見せていたそうです。恐らく、それはウィンストン煙草がリーさんの初監督作品「ドラゴンへの道」(72)の事実上のスポンサーだった事も関係していたと思われます。
そして当日のリーさんのファッションですが、これがどう見てもリーさんが同じジャケット姿でスタジオで数々の伝説のポーズ写真を撮影した有名なフォトセッションの時と同じなんです。
もしかしたら、この「死亡遊戯」のセットを使用したウィンストン煙草のCM撮影の前後にリーさんは他のスタジオでフォトセッションに挑んでいたのかも知れませんね。
いやはや、それにしても以前一部で「ブルース・リーがウィンストン煙草のCMに参加したなんてあるわけがない!」なんて書いていた人は、この衝撃写真をどう釈明するんでしょうか。
これからも「死亡遊戯」の隠された真実は、まだまだ出て来る可能性がありそうです!!

Thanks to Steve Kerridge for provided such a rare Game of Death pic.

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必見「スターウォーズ」異色外伝!「エルストリー1976-新たなる希望が生まれた街-」12月公開!!

2016-10-28 10:01:55 | 作品レビュー
さて、今週「天使にショパンの歌声を」と共に同じく都内某所でジョン・スピラ監督作品「エルストリー1976-新たなる希望が生まれた街-」(15)を試写で観て来ました。
題名からすると一体どんな映画かいな?とお思いになるかと思いますが、これが今ドニー兄貴も出演する事で話題沸騰中の最新作「スターウォーズ:ローグワン」の公開に合わせるが如く、シリーズ第1作「スターウォーズ」(78)の撮影に参加したイギリス人俳優たち、それも一部を除いては画面の端にチラッとだけ映っていた、いわゆるエキストラたちを追いかけた異色のドキュメンタリー映画なんです。
ハッキリ言って、私も本ドキュメンタリーに登場する俳優(と言って良いのか(^_^;))たちで顔を知っているのはダース・ベイダーの中に入っていたデヴィッド・プラウズだけでした。
それでも本ドキュメンタリーに登場する10人のエキストラたちが語る時に生々しく、時にコミカルな告白を通じて、私たちは彼ら彼女たちエキストラたちにもこれまで歩んできた“俳優人生”がシッカリと存在し、今も全員が「スターウォーズ」に“出演”した事をどれだけ誇りに思い、またサイン会などで大いなる恩恵を得て来た事を感謝しているかを知る事となります。
私が面白かったのが、ボバ・フェットを演じたジェレミー・ブロックがこんなにお爺さんになっていたのか!と驚いたり、例え小さなパイロット役の男優でも「俺たちはマスクで顔を隠してた連中とは違って、顔も映ってるし台詞もあるんだ!」的な妙な優越感を持っていたり、デヴィッド・プラウズ演じるダース・ベイダーが現場セットではちゃんとベイダーのマスク越しに自分で台詞を話していて、その台詞音声が今も映像と共に残っている事、などなどでした。
また私がこの「エルストリー1976-新たなる希望が生まれた街-」を観ていて思い出したのが、伝説の特撮番組「仮面ライダー」で変身後のライダーやショッカーの戦闘員を、それは見事な殺陣と共に長年演じた大野剣友会の人たちでした。
何故なら彼ら大野剣友会の人たちも当初は顔出しの俳優を夢見ていながら、様々な事情でマスクを被り仮面のヒーローを演じる道を選ばざるを得なかった人たちだったからです。
ただそれでも、今では多くの特撮ファンたちから「ライダーを演じた男たち」として藤岡弘や宮内洋ら顔出し俳優と同じ、いえ時にはそれ以上の賞賛と尊敬を受けている大野剣友会のOB諸氏の幸福そうな笑顔を見ていると、私はこの「エルストリー1976-新たなる希望が生まれた街-」に登場するエキストラ俳優、いや「スターウォーズ」出演者たちにも大野剣友会のOB諸氏と同じ“選ばれた人間”だけが持つ幸福な笑顔を見るのです。
映画俳優の評価や価値は、決して主演俳優やスクリーンの真ん中に映っている人間だけで決められるものじゃない。
そんなある意味、映画の真髄にして核の部分を考えさせられるドキュメンタリー映画の佳作でした。
この「エルストリー1976-新たなる希望が生まれた街-」は、12月17日から新宿武蔵野館ほかにて公開との事です。理力と共にあらんことを!!

同作品のオフィシャルサイトです→ http://elstree1976.jp/

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強く、気高く、美しく生きる女性たち。レア・プール監督作品「天使にショパンの歌声を」来年1月公開。

2016-10-27 09:43:52 | 作品レビュー
ほぼ一週間に渡ってお届けました「超級龍熱」開設10周年記念特別企画、如何でしたでしょうか。今は私も3大特別企画を無事にゴールさせる事が出来てホッとしております。
皆さんに楽しんで頂けたら、管理人の私も本当に嬉しいです(^_^)。

さて、そんな昨日は映画評論家に戻りまして、都内某所でレア・プール監督、セリーヌ・ボニアー主演のカナダ映画「天使にショパンの歌声を」(15)を試写で観て来ました。
美しい自然に囲まれたカナダのケベックに立つ修道院が運営する寄宿学校。そこでは校長のオーギュスティーヌ(セリーヌ・ボニアー)が音楽教育に力を入れていて、前回の音楽コンクールでは優勝者も出すほどの名門校でした。
ところが現実主義でオーギュスティーヌと不仲の総長によって、採算の合わない寄宿学校は閉鎖の危機に見舞われようとしていました。
そんなオーギュスティーヌの学校に姪のアリス(ライサンダー・メナード)が転校して来ます。
オーギュスティーヌはアリスの天才的なピアノの冴えに驚きますが、アリスは自分は両親に見放されたと思い込み、オーギュスティーヌや他のシスターたちに頑なに心を閉ざすのでした。
天敵である総長との闘いに一歩も退かない決意のオーギュスティーヌは、マスコミに自分たちが愛する音楽の素晴らしさを知らしめようと、学校に記者たちや保護者を招待し、音楽イベントを開催。
それは好感触で迎えられ、オーギュスティーヌは共に闘うシスターたちと未来に希望を見出し、全ては今度の音楽コンクールで決まる!と決意も新たにします。
ところが、そのような大事な時にアリスが親友を庇って頑固なシスターと衝突。そのまま学校を飛び出し、好きになった男の子と街のディスコで踊っているところを激怒したオーギュスティーヌに連れ戻される事件を起こしてしまいます。
その事件で深く傷ついたアリスを見たオーギュスティーヌは、自分も若い頃にロシア人の男性と恋に落ち、その事で深く傷つき、今もその傷に苦しんでいる事をアリスに告白するのでした。
アリスは普段は毅然としているオーギュスティーヌが自分の弱い部分、悲しい過去を初めて語ってくれた事で次第に心を開き、アリスはあれだけ拒否していた音楽コンクールへの出場を決意します。
しかしそんなアリスとオーギュスティーヌの許に、アリスの母が入院したとの知らせが届くのでした・・・!!

大自然に囲まれた寄宿学校に響く汚れを知らない美しい少女たちの歌声。そして心に沁み通るような素晴らしいピアノの旋律。まさに天使の歌声とはこの事でしょう。
また普段は私たちが垣間見る事がない修道院内の生活や厳しい規律を細やかに描いた部分も、私は大変興味深く、また感銘を受けました。
欲を言うなら、クライマックスの音楽コンクールのシーンでもう波乱あっても良かったかな、とも思いましたが、それもシスターや少女たちの笑顔に免じて良しとしましょう(^_^)。
ショパン、ベートーベン、バッハなど音楽を愛する者に限らず、誰もが1度は耳にした数々の伝説の旋律に乗って、音楽を通じて強く、気高く、美しく生きていく女性たちを描いた映画「天使にショパンの歌声を」は来年1月14日、角川シネマ有楽町他にてロードショー公開との事ですので、是非!

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熱風!韓国LEGENDS(97)伝説の韓国武打星、“韓国のブロンソン”巴比金に独占インタビュー!!

2016-10-26 09:04:53 | 熱風!韓国LEGENDS
さあ、我らが「超級龍熱」ブログ開設10周年記念特別企画の第3弾は、文字通り韓国テコンドー映画の武打星の中でもLEGEND中のLEGENDである“韓国のブロンソン”ことボビー・キム(巴比金)の独占インタビューです!!
私も以前からボビー先生にはFacebookを通じて知り合って以来、様々な形でお世話になっているんですが、今年の6月にボビー先生に思い切って独占インタビューを申し込んだところ、ボビー先生は快く応じて下さいました。
いや~さすが私が韓国テコンドー武打星の中で一番好きな武打星であるボビー先生です(^。^)。
ただ当ブログをご覧の方の中にはボビー・キム先生の主演作品をまだそれほど観ていらっしゃらない方もいるかと思います。
そこで、まずは以前に当ブログの韓国映画専門セクション「熱風!韓国LEGENDS」で紹介しましたボビー先生の簡単な経歴再録に続いて、我が「超級龍熱」がお届けするボビー・キム先生の独占インタビューをお楽しみ下さい。ではどうぞ!!

巴比金は1941年(42年説も)ソウル生まれ。本名を金雄経(キム・ウンギョン)。
因みに英語名のボビーはロバートの愛称です。ボビーはウソク(原文まま)大学英文科を卒業後、米軍のテコンドーの教官として活躍し、ワシントンでは自身のテコンドー道場を経営していました。
またボビーはこの時期同じく米国で道場を開いていた李俊九師父とも交流があり、この李俊九師父が開催した武術大会でボビーはリーさんことブルース・リーと邂逅を果たしています。
この69年前後に撮影されたボビーとリーさんのツーショット写真は、ボビーが主演した朴雨相(即:朴祐箱)導演作品『死の勝負』(75)の劇場公開用ポスター(の端っこ)にも使用されていましたね。
元々映画の世界にも興味があったボビーは、泰昌興行社(原文まま)から10本の出演契約をオファーされますが、最終的に5本の出演契約を結び、前述の『死の勝負』に主演します。
その後も高英男導演作品『地獄の招待状』(75)、香港武打星である羅烈共演作品『国際警察』(76)と『王龍』(76)などに主演。
泰昌興行との5本の契約を終えたボビーは、再び朴雨相導演作品『鬼門の左脚~電撃の突き』(77)や『大敵手』(77)に主演します。
私はこの70年代後半の朴雨相作品群に主演していた時期が、ボビーの韓国武打星としての事実上の全盛期だったと思います。
余談ですが、ボビーは東南アジアでも人気が高かったそうで、それもあってかボビーはインドネシアで『空飛ぶ虎』なる作品も撮っているようです。
さらに余談ですが、ボビーが米国で主演した『満州の復讐者』(83)や『キル・ライン/復讐の弾丸』(89)はボビーの実兄であるキム・ハクキョン(原文まま)が脚本を担当しているとの事です。


ーボビー先生、今回はお忙しい中、インタビューに応じて頂きありがとうございます!

ボビー先生(以下BK)こちらこそ。さあ、何でも訊いて下さい。

ーボビー先生は韓国のウソク大学を卒業されてから、アメリカ軍でテコンドーを教えたり、テコンドーの道場を経営されていたそうですね。

BK いや私は大学在学中から韓国に駐屯していたアメリカ軍の軍人たちに教えていたんだ。その後、大学を卒業した1969年の1月にアメリカに渡ったんだよ。ワシントンで道場を開いた後、数か月後に今度はコロラドのデンバーに移って、そこでもう1度道場を開いたんだ。

ー1969年といえば、ボビー先生は李俊九師範が開催したテコンドーのトーナメント会場でブルース・リーと対面していますね。その時のブルース・リーの印象と、その場でお互いに何を話したか教えて頂けますか?

BK あれは1970年か71年だったと思うが、李俊九師範がワシントンで開催したトーナメントで、私とブルース・リーがそれぞれデモンストレーションを行ったんだよ。
その当時のブルース・リーはまだそれほど有名ではなかったんだ。
ブルースは私に「ユーの“ジャンピング・バックキック”は素晴らしいね!」と言ってくれたよ。
私はブルースは優れた格闘家だと感じたな。その時はお互いに少し話して、一緒に写真を撮ったんだよ。

ー1970年にボビー師範は韓国に戻られて、韓国の映画会社泰昌興行と5本の映画出演契約を結びますね。その主演第1作が朴雨相監督作品「死の勝負」(75)でしょうか?

BK 泰昌興行は私に最初10本の映画契約を申し出て来たんだ。ただ当時の私は俳優経験も無かったので5本の契約を結んだんだよ。
その時に泰昌興行の紹介で私は朴雨相監督と会ったんだ。朴監督は泰昌興行に起用されて、私の初主演作品「死の勝負」を監督する事になったんだ。

ーボビー先生は朴雨相監督作品をはじめとする韓国テコンドー映画では、口髭、両手に皮手袋、皮のベスト、そしてパンタロン姿、いわゆる“巴比金スタイル”がトレードマークでした。このファッションは当時はとても斬新でスタイリッシュだったと思うのですが、誰のアイディアだったんですか?

BK 口髭は映画に出演する前から生やしていたんだけど、監督たちがそのまま剃らないでいこう、と言ってくれたんだよ。ベストなどのファッションは誰のアイディアだったかは判らないんだが、恐らく朴雨相監督だろうね。

ー私たち韓国テコンドー映画ファンにとって、巴比金と黄正利は伝説の武打星です。その2人が「死の勝負」では主演(ボビー先生)と助演(黄正利)で顔を合わせていますね。
この映画での黄正利の思い出がありましたらお聞かせ下さい。

BK 黄正利は私が韓国映画界に参入するまでは、端役での映画出演が多かったんだ。この「死の勝負」が黄正利にとって初めての大きな役柄だったんだ。
「死の勝負」での私と黄正利は、お互いに様々な形で真っ向から闘うアクションに挑んだよ。
黄正利はこの「死の勝負」に出演した事で、香港の映画会社に引っ張られたんだ。黄正利は素晴らしいキックを持っていたし、何本もの香港映画に出演して有名になった。朴雨相監督はこの「死の勝負」での黄正利のパフォーマンスをとても誇りに思っていたよ。

ー1976年にはボビー先生は香港のトップ武打星の羅烈と「国際警察」(76)と「王龍」(76)の2本の高英男監督作品で共演を果たしています。この2本は当時の韓国と香港のトップスターの共演となったわけですが、羅烈とこれら2作品について思い出はありますか?

BK そうだったね。羅烈とはその2本で共演したのを覚えているよ。羅烈は格闘映画において良い俳優だったね。この2本は殆どは韓国で撮影したんだが、幾つかのシーンは香港で撮影したんだ。
その「国際警察」の撮影中に私たちはカーチェイスの場面のリハーサルをしていたんだ。私が車を運転するシーンだったんだが、何故か監督の高英男監督が「自分が運転する!」って言い出したんだ。要するに監督が自分で運転する事で、もっとワイルドなカーチェイス・シーンを撮ろうと思ったんだね。
その車にはカメラマンと一緒に羅烈も乗っていたんだけど、高英男監督が運転を誤って3人を乗せた車が大きな木に激突してしまったんだよ(苦笑)。
高英男監督、羅烈、カメラマンの3人は大怪我して、そのまま病院に直行さ。で、その後に実は高英男監督が運転免許を持っていない事が判ってね。
高英男監督も「大変な事になった!」と心配するんで、私は国際免許を持っていたので「事故の時は私が運転していた事にしましょう」と高英男監督に申し出たんだ。
まあ警察も「何で運転していた巴比金だけ怪我をしていないんだ?」と不思議がっていたけど、結局は私たちの説明を信じたよ。
でも羅烈はその事故で目に青タンは出来るし打撲傷も負ったりで、本当に可哀想だったよ(苦笑)。私たちが韓国のソウルに帰ると、マスコミが「巴比金が車で大事故に遭った!」と新聞やテレビで騒いでいたけど、韓国のファンも含めた皆が運転手は私だった、と信じていたんだろうね。

ー同じ朴雨相監督作品「大敵手」(77)は、私が一番好きなボビー先生の主演作品です。もし興味深いエピソードがありましたら、是非お聞かせ下さい。

BK ある日「大敵手」でオートバイで走るシーンを撮影中の事だ。その日の撮影予定分が撮り終わり、私はオートバイの後ろに権永文を乗せて田舎道を走っていたんだ。
そうしたら走っているオートバイの前輪が道の窪みにぶつかって、その衝撃と反動で後ろの権永文が私を飛び越えて前方に4、5メートル吹っ飛んでいったよ(笑)。
私たちが大怪我した権永文を病院に連れて行ったの事を覚えているよ。「大敵手」に関しては他に特別な事は覚えていないな。


ー80年代に入りますが、アメリカで撮影した「満洲の復讐者」(83)でビル“スーパーフット”ワラスと共演なさっていますね。
この映画でボビー先生はご自身の映画キャリアにおいて初めて西洋人の格闘家と闘う事になりました。実際に劇中で拳を交えたワラスはどのような印象でしたか?

BK ビル・ワラスはアメリカではかなり有名な空手のチャンピオンだった男だよ。特にワラスの左の蹴りは素早く、そして正確で本当に素晴らしかった。

ーそれでは最後の質問になります。近年の韓国映画は同じアジア圏の香港映画を凌駕すると言っても良いほどの高いクオリティーを誇っています。
ただそれでも私たちは70年代にボビー先生たちが主演した古き良き時代の韓国テコンドー映画を愛しています。近年の韓国映画人にもしアドバイスされる言葉がありましたら、お願いします。

BK 私が映画を撮っていた時代の韓国の映画会社は自分たちが作る映画に余りお金をかけなかった。彼らはあらゆる箇所で経費を削ろうとしたし、撮影するためのフィルムも十分に用意していなかったんだよ。もし当時の私たちに十分な量の撮影フィルムが与えられたなら、もっと良い映画を撮れたと思うんだ。
最近はデジタルなどのテクノロジーによって、高いレベルの映画制作とさらなる高水準の撮影&編集過程が許されていると思う。
それもあって、彼らは自分たちが撮っている物が何かをちゃんと理解しているわけなんだ。
私が思うに、近年の韓国映画の製作者たちは素晴らしい仕事をしていると思う。出来る事なら、私も今の時代に生まれたかった。そして若々しく、今の韓国映画に出演してみたかった。

ーグランドマスター・ボビー・キム、素晴らしいインタビュー、ありがとうございました。

Bk 二郎、私こそありがとう!

以上、2016年6月15日に収録。

さて、“韓国のブロンソン”ことボビー・キム先生の独占インタビュー如何でしたでしょうか。ボビー先生の口から朴雨相監督、黄正利、権永文、羅烈、高英男監督、ビル・ワラスといった名前が次々と出てくる辺りは、もうワクワクしちゃいましたよね(^_^)。
特にリーさんことブルース・リーとボビー先生が対面した際の2人の会話の詳細をボビー先生本人が語った事は、恐らく世界で初めての事だと思います。
ボビー・キムは韓龍哲と共にアメリカから韓国映画界に逆上陸する形で、その類い稀なるテコンドーの蹴りと共に韓国映画に一時代を築いた、言わば韓国アクション映画の功労者の1人です。
その功労者のボビー・キムに、そして私が韓国テコンドー映画の武打星の中で一番好きなボビー先生にこうして貴重なお話を訊けた事は、私自身本当に万感迫る思いです。
ちなみに今回掲載しましたボビー先生の近影は、ボビー先生ご本人が当ブログにご提供下さった1枚です。
改めて、今回我が「超級龍熱」の独占インタビューに快く応じて下さったボビー・キム先生に厚く感謝致します。ありがとうございました!
という言うわけで、韓国映画のレア映像&新事実を追い求める「熱風!韓国LEGENDS」、次回もどうぞお楽しみに!

We would like to huge thank to Grand Master Bobby Kim for answering our great interview and provided wonderful photo.
Master Kim,you are always kind to your fans!! Thank you so much sir.

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我が青春のBFC回想録 ⑩

2016-10-25 09:58:41 | 闘神伝説~李小龍
我が青春のBFC回想録⑩(大結局)
さて、これまで「超級龍熱Facebook」で不定期ながら9回に渡って連載して来ました「我が青春のBFC回想録」ですが、今回の第10回を持ちましてフィナーレとなります。
その大結局となる第10回ですが、最終回となる今回はBFCが年に1度、都内の大会場などで開催した大イベント「フォーエバー」について語りたいと思います。
私がスタッフとして最初に参加した「フォーエバー」は、確か81年に開催された「フォーエバー81」だったと記憶しています。
今でも鮮明に覚えているのが、イベント当日に会場内で対面したN会長が何時もとは違う爽やかな白のズボンを履いていた事でした。
私がそれを問うと、N会長は「俺はね、こういうイベントみたいに気合いが入ってる時は白のズボンなんだよ!」と胸を張って答えてくれました(^_^)。
もう一つ印象に残っている事が、当日イベント自体を昼と夕方と2回行った事で、何故1日に2回同じ内容のイベントを行うのか、その場でN会長が説明してくれた気もするのですが、理由はもう忘れてしまいました。
あとイベント当日は、会場の売店でBFCのグッズを販売したのですが、私も開場前の短い間ですが売店に立っていたところ、お子さんの会員の付き添いで来ていた母親らしき女性が私が着ている非売品のTシャツ(アメリカ公開版「死亡遊戯」のイラストのポスターがデザインされたTシャツ)を指差して「ねえ、貴方の着ているそのTシャツは売ってないの!?」と詰め寄られたりした事も覚えています(^_^;)。
さて、全国のBFC会員が会場に集結したイベント「フォーエバー」は、冒頭でリーさんの巨大な遺影に向かって会場の会員全員が黙祷する中、予定ではそこに「マイ・ウェイ」を流すはずが、誤って「ドラゴン・パワー」が流れてしまう(!)という大チョンボで幕を開ける事となりました。それでもその後は会員有志によるソックリさん大会(このコーナーではイエナ・ブルース・リークラブからリーさん信者なら知らない者がいないAさんたちが飛び入り参加しての「スーパーアクション」も披露されました)、芸能人の方の物真似トーク、風間健のスピーチ、松田隆智先生の表演など、いま思い出しても豪華なコンテンツだったと思います。
そんな中、イベントはこれまた会員有志によるジークンドー教室がステージで披露される事となりました。実はここで私が個人的に忘れられないハプニングがありました。
このジークンドー教室に関しては、板橋のBFC事務局でM.Sさんという実際に空手の有段者の男性がインストラクターとして、毎週末希望者の会員に事務局の近くの公園などでジークンドー教室を開催していました。勿論、教室への参加は自由で、Mさんも優しく丁寧に会員に指導していましたし、私も教室の後はN会長たちと一緒にMさんの下宿に遊びに行ったりと、Mさんにはお世話になっていました。
ただ当時の私はどちらかと言うとリーさんのファンとしては、実技よりも映像コレクターとしての比重が大きいファンだったんですね。
それもあってか、毎回ジークンドー教室に出ないでそのままシラッと帰ろうとする私を見たMさんが「おい、龍熱!今日もジークンドー出ないで帰るんかい?」と声をかけて来ました。
私は悪びれる事もなく「はい。ちょっと今日はテニスに行くんで」と答えると、Mさんは「テニスやと?・・・ふ~ん!」とジィ~ッと私の顔を見つめるのでした。
私が当時テニスをやっていたのは本当だったのですが、それでもやはりせめて2回に1回はMさんのジークンドー教室に顔を出しても良かったと思いますし、私自身少し協調性が足りなかったと今では反省しています。
そのようなプロセスがあった上での「フォーエバー81」当日。ステージ上でジークンドー教室が開始される前に、Mさんを取り囲むようにN会長や私たち常連会員たちが構える中、インストラクターであるMさんのデモンストレーション的なアクションが披露されようとしていました。Mさんが1人、また1人と軽く蹴りを会員たちに当てると、打ち合わせ通りに会員たちが倒れていきます。
そして私がMさんの蹴りを受ける順番が来ました。後方から迫る私を振り向き様に見たMさんと目が合った時、私は一瞬、嫌な予感がしました。が、次の瞬間、Mさんの廻し蹴りが私の胸板にタイミング良く入りました!「バシィーン!」
当時からプロレスが大好きだった私はMさんの蹴りが自分にモロ入った衝撃よりも、そのまま後方に思い切り吹っ飛び、バンプ(受け身)を取る事で頭がいっぱいだったのを覚えています。
無事にジークンドー教室のコーナーが終わり、ステージの袖に帰って来た私はMさんに「Mさん、結構いいのが入りましたよ」と声をかけると、長身のMさんは私を見下ろすように「あ、そうか。入ってたんか。すまん!すまん!」と苦笑いするのでした。
その後もMさんと私はN会長を交えて、よくMさんの下宿やN会長の下宿で3人で時間を忘れて色々な話をしました。
それは時には女の子の話だったり、私の進路の話だったり、Mさんが大好きだった松山千春の話だったり、本当に様々な話題を夜が更けるまで話をしました。
そんな私がMさんに最後に会ったのは、私がBFCの活動から身を退いて暫く経った頃、池袋の芳林堂書店でした。
その場ではお互いほんの数分立ち話をしただけで、別れてしまいましたが、今から思えば、その時に私はMさんにこう言葉をかけておけば良かったと思っています。
「Mさん、僕は今でも松山千春の曲の中では「長い夜」が一番好きです!」

日本中から集まったリーさん信者でギッシリと埋まった年に1度のイベント「フォーエバー81」。イベントはいよいよ後半の映画上映となり、「ブルース・リーの生と死」予告編、「ドラゴン拳法」に続いて「ブルース・リー死亡遊戯」、それも会場の利用時間の関係で映画の上映が中盤のビリー・ローvsカール・ミラーが激闘を見せる“ロッカールームの死闘”から突如始まる中、私は他のスタッフたちと一緒に会場の後方からドアを少しだけ開けて「死亡遊戯」の上映に熱狂するBFC会員の様子を心から幸せな気分で見つめていました。
やがて「死亡遊戯」はクライマックスとなり、イエロートラックスーツに身を包んだ本物のリーさんが階段を駆け上がって来ると、場内のBFC会員たち全員がスクリーンに向かって大拍手をしています。
そう、いまこの会場に集まった人間全員がリーさんこと李小龍を心から敬愛し、愛し、そして偲んでいる。
その熱く、深く、優しいエネルギーを全身で体感出来たこの瞬間こそが、私にとってのBFC、ブルース・リーファンクラブ在籍時代の“真実の瞬間”でした。

私は香港功夫映画評論家としてのデビュー書籍となった「ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!」の著者プロフィール欄に、自分がBFC出身である事を明記しました。
そこに自分がファンクラブ出身者である事をハッキリと書き記す事に何の迷いもなかった。
何故なら、私がリーさんこと李小龍に対する熱き思いを自分の文章で表現する事を初めて経験したのがBFCでした。
その自分の知識と時間を原稿という形で提供する事に対して報酬を頂く事を初めて経験したのもBFCでした。
そして何よりも、私が大好きなリーさんに関するあらゆる話題を、私と同じくリーさんが大好きな人たちと何時間でも話し続ける、という素晴らしい体験を共有出来たのもBFCだったのです。
そう、まさにBFCは私の青春そのものでした。その懐かしくも愛しい青春時代を過ごした証しを自分の記念すべきデビュー書籍で胸を張って書き記す。それはごく自然で当たり前の事だったんです。
N会長、Mさん、S2代目会長、S事務局長、中村頼永さん、関誠さん、そして沢山のBFC会員の皆さん。今もその全てが懐かしい。
そしてその全ての思い出に心からのありがとう!を伝えたい。
私はこれからもBFCことブルース・リー・ファンクラブで過ごした純粋で、情熱に溢れた数々の思い出を胸に、香港功夫映画評論家としての道を歩んでいきます。
そう、最後にいま1度、胸を張って、最高の笑顔でこう叫ぼう。合言葉は「フォーエバー!」、BFCよ、永遠に!!(BFC会員番号152)

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我が青春のBFC回想録⑨

2016-10-24 09:56:57 | 闘神伝説~李小龍
我が青春のBFC回想録⑨
さて、前回のお約束通りに、今回の「~回想録」はBFC二代目会長であるS.N君について書きたいと思います。
私がS君に初めて会ったのは確か板橋の新BFC事務局内だったと思います。そのBFC事務局ですが、最初は古いビルの中の狭いフロアを借りて活動していたのですが、その後に道路沿いの倉庫のような建物に引っ越して、そこは事務局とFCグッズ保管も兼ねた倉庫が併設された建物だったと記憶しています。
私はビル時代より事務局内に日の光が一杯差し込む新事務局内がとても開放的で明るくなったのが嬉しかったのを覚えています。
その日、私が事務局にブラッと遊びに行くと、事務局長のSさんが「あ、龍熱君、彼が今度新しく入ったS君だからね!」とS君を紹介してくれました。私のS君の第一印象は「切れ長の目とリーさんカット、あとスラッと長身の男だなぁ」でした。
S君はそれまでBFCの会報を読んでいたので私の事を当然知っていて、お互い年齢はほぼ同じながら、S君は私に終始とても礼儀正しく接してくれました。このS君の私に対する態度は最後まで変わる事はありませんでした。
ただ今から思えば、そんなS君に対してN会長と私は当初はかなり厳しく接していたと思います。
勿論、N会長からすれば自分が初代会長として二代目会長のS君にはこれから立派にBFCを背負っていって欲しい、との熱い思いがあったからの厳しい姿勢だったと思いますし、事実、N会長のBFC、特に会報のコンテンツ向上に関する功績は多大なものがありました。まさにN会長こそがBFC最大の功労者でした。
それと私が思うに、N会長も私も自分たちが愛し親しんだBFCが世代交代という名の時の流れによって私たちの手から徐々に離れていくのが寂しかったのかも知れません・・・・。
あともう一つ。実はS君はリーさんこと李小龍のファンであると同時に、ジャッキー・チェンこと成龍のファンでもあったんです。
これに関してN会長の思いはともかく、私は強い反発を感じました。BFCの会長が成龍のファン?おいおい、それは違うだろう?
そんな私とS君ですが、事務局で何度も会っている内に次第に仲良くなり、私はS君の下宿に遊びに行くようになりました。
当時からバリバリの映像コレクターだった私のS君が所有しているであろうレア映像に対する激しい追及(?)には苦笑いしっぱなしだったS君ですが、この時にS君にダビングして貰った成龍が初来日したTV番組の映像等々は今も大切に持っています。
あとBFC事務局にはリーさんの男性ファンだけでなく、女性ファンも遊びに来ていたんですが、S君はその女性ファンの1人からプレゼントやお菓子を貰ったりしていました。S君、モテたんですね。
そして私がS君というリーさん信者に対する最も強い印象。それは彼が“アクション派”のリーさん信者だった事です。
つまり会報に原稿を書く事でリーさんへのリスペクトを表す私が“文章派”なら、S君は自分でリーさん主演映画のクンフー・アクションを体現、いえ物真似する事に人一倍情熱を注いだ男でした。
S君がBFCの年一度のイベント「フォーエバー82」と「~83」のステージ上で披露した「死亡遊戯」のビリー・ロー(S君)vs池漢載(会員のH君)戦、「ドラゴン怒りの鉄拳」の陳眞(S君)vsペドロフ(H君)戦は、現在もその全ての映像が私の手許にありますが、いま観直して見ても髪型、コスチューム、クンフーアクション再現のどれを取っても素晴らしい完成度です。
こうしてS君の様々な思い出を振り返って見ると、偉大な功績を残したN初代会長からバトンを受けたS君、いえS会長はS会長なりのやり方で、S会長が思い描くBFCを懸命に作っていったんだと思います。
そしてそのS会長の一人立ちを見届けるかのようにBFCを静かに離れた私ですが、その後は今回貼った画像のBFCの後期会報はその内容を殆ど知りません。
何時の日か、S会長に再会できたなら、S会長が作ったこれらBFCの会報の様々な思い出話を聞かせて欲しいと思っています。(BFC会員番号152)

さて「我が青春のBFC回想録」、次回の第10回がいよいよ大結局(最終回)となります。どうぞお楽しみに。

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我が青春のBFC回想録⑧

2016-10-24 09:56:29 | 闘神伝説~李小龍
我が青春のBFC回想録⑧
久々の「~回想録」ですが、ちょっと前に会員絡みで思い切りモチベーションが下がる事があったりで、暫くご無沙汰でした。
さて、今回は私がBFCの会報「THE DRAGON」に執筆していた数々の原稿について書いてみたいと思います。
私が覚えている自分の原稿では「死亡遊戯」の北京語版、「死亡遊戯」ハリウッド版レビュー、説明不要の「小説死亡遊戯完全版」、そしてリーさん関連のVHSを詳細する連載コーナー「Bruce in Video」などになります。
特に「~Video」は当時会報誌上で行った「会員が選ぶ面白い記事」で堂々1位になったほどの人気コーナーで、私も大いに気を良くして原稿を書いていたのを覚えています(^_^)。
ハッキリ言ってこの当時のBFCの会報の内容レベルは、現在発行されているファン制作雑誌などと比べても数段上でしたし、逆に当時まだ20代だったN会長や10代の私たちスタッフだけで、よくぞこれだけの内容の会報を毎月(!)発行していたと驚きを禁じ得ません。
また私が執筆した原稿以外でも、N会長が行ったリーさんの主演映画の中からそれぞれ特出したファイトシーンを10個選ぶ「ファイトシーン・ベスト10」も素晴らしいアイディアの企画でした。
N会長は「な、これいいだろう?何でこんな面白い企画を誰もやらなかったんだろうなぁ!」と自画自賛していましたっけ(^_^)。
この「~ベスト10」を強く記憶していた私は、後に自分が主宰していた同人誌「龍熱」でも、N会長のこの企画をさらにパワーアップさせた「ファイトシーン・ベスト20」を掲載したほどでした。
さらに今回貼った増刊号「甦れ!ブルー・リー」などに掲載された未発表写真ですが、実はこれら「死亡遊戯」のレア写真群をN会長が何処でどうやって入手していたのかは、当時も今も私は一切知りませんでした。
確か1度だけ、N会長との雑談でチラッと入手先を聞いた記憶もあるような気がしますが・・・やっぱりよく覚えていません(^_^;)。
ただこれら「死亡遊戯」のレア写真は何十年経った今でさえ、十分にレア写真として通用するだけに、私たちBFCも未発表写真を売りにしたイエナ・ブルース・リークラブにも決して負けていなかったんだな、との懐かしくも誇らしい気持ちにさせてくれますね。
その後、BFCは数々の功績を遺したN会長から2代目の会長であるS君へとバトンタッチされる時がやって来ます。
次回の「我が青春のBFC回想録」第9回では、これまで殆ど語られて来なかったS会長時代のBFCについて、私自身出来る限り思い出して語ってみたいと思います。(BFC会員番号.152)

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我が青春のBFC回想録⑦

2016-10-24 09:55:57 | 闘神伝説~李小龍
「我が青春のBFC回想録」⑦
今回はBFCのOBにしてジークンドーの正統インストラクターとして活躍している中村頼永さんについて書きたいと思います。
中村さんはBFCの会報には、当時住んでいた三重県からよくイラストを投稿して来て、そのイラストもかなりの腕前だった事もあり、会報のイラストコーナーに頻繁に採用されていました。
その後、初代タイガーマスクこと佐山聡を初め、ダン・イノサント師父の許で修行した中村さんは立派な武道家として、そしてジークンドーの正統な継承者の1人となりました。
私が中村さんと初めて会ったのは07年の7月に六本木でシャノン・リーをゲストに招いて開催されたIUMAのイベントでした。
確かイベント開始前に私と一緒にイベントに来ていた戦友のE君が会場の片隅で準備に奔走している中村さんに「中村さん、こちらが龍熱さんです!」と声をかけてくれたんだと思います。
そのE君の声に私を振り返った中村さんは「!」とちょっとビックリした顔をしていましたが、その時初めて中村さんと「はじめまして!」と挨拶を交わして握手をしたのを覚えています(^_^)。
イベント自体はシャノン・リーに加えてスティーヴン・アウさんも来場して大変楽しいイベントでしたし、私はイベントの最後の中村さんとIUMAの会員との写真撮影会でも、ちゃんと他の会員の皆さんと一緒に長い列に並んで中村さんと一緒に撮ったツーショット写真が今回貼った写真です。今回これが初公開となります。
この写真を撮った時、中村さんは私が会員の皆さんと同じように列に並んでいるのを見て、またも「!」となっていましたが(^_^)、この時、中村さんと私で以下のような会話がありました。

中村さん「龍熱さんて、僕と同い年ですよね?」
龍熱「はい、そうです」
中村さん「あと同じBFC出身ですよね?」
龍熱「はい、そうですよ♪」
中村さん「やっぱりBFCで繋がってるんだなぁ!」
龍熱「いや~本当そうですね!」

そしてこの後、私と中村さんは暫し歓談したんですが、最後に中村さんは私の手を握り「今回は色々失礼しました!」と言ってくれたんです。
この言葉の意味は私と中村さんだけが理解できる事柄で、それはお互いが判っていれば良い事なのでここでは触れません。
でも私はこの時初めて「中村頼永、この男は大した男だ!」と思いました。初対面の私に対しても組織の長として、また1人の人間としてこのような真摯な言葉を伝えられる中村頼永さんこそ、文字通り“心の広い武道家”なのだと私は思います。
もう一つ中村さんとの思い出についてお話します。それは数年前に発行された書籍「語れ!ブルース・リー」についてです。
皆さんもご存知のように、この「語れ~」は中村さん、同じくIUMAの重鎮の関誠さん、私を初めとするBFCのOBたちが共に全力で作り上げた渾身のリーさん本でした。実はこの「語れ!~」の制作に入る前に、「語れ!~」の発行元であるKKベストセラーズのS編集長が私の自宅の近くまで足を運んでくれまして、それは熱心に私に対して原稿執筆の依頼を訴えてくれました。
そしてこの席でS編集長は今回中村さんと関さんが何故私に「語れ!~」に原稿を書いて欲しいか、その“理由”を話してくれたんです。
私はその“理由“をS編集長から聞いた時、とても感激しました。そしてその場でS編集長に「判りました。喜んでやらせて頂きます」と答えたのを今でもハッキリと覚えています。
そう、私にとってこの「語れ!ブルース・リー」は、BFC在籍時代に携わったあの増刊号「甦れ!ブルース・リー」と同じ、いやそれ以上に深い思い入れが詰まった1冊なのです。

最後に、皆さんにはこの私と中村さんのツーショット写真をただ単に香港功夫映画評論家の知野二郎と、ジークンドー正統継承者の中村頼永が並んで写っている写真としてだけでなく、遥か十数年前にBFCの会報に1人が拙い原稿を書く事で、1人が卓越したイラストを描く事で、お互いにリーさんこと李小龍への熱き憧れを燃やしていた2人のドラゴン少年が長い長い年月を経て、やっと邂逅を果たした記念すべき1枚として見て頂けたらとても嬉しいです。(BFC会員番号152)

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我が青春のBFC回想録⑥

2016-10-23 09:40:51 | 闘神伝説~李小龍
「我が青春のBFC回想録」⑥
さあ、前回“N会長に最も近い男”こと中村章一さんも降臨したりと、俄然OB会の様相を呈して来たこの特集ですが(^。^)、実はここ数日間で「あれも思い出した、これも書きたい」とBFCに関する沢山の思い出が次々と頭に浮かび過ぎて、ちょっとカオス状態となっています(^_^;)。
なので、今回はちょっとインターバル、と言うか、リーさんのFCで思い切り後発の洋書のアルバンが設立した「アルバン、ブルース・リークラブ」について簡単に触れましょう。
触れましょうって、私はこのFCには入会してなかったので、実は殆ど実情を知りません(^_^;)。会報も数冊持っているだけです。
でも今でも不思議なのは、私の自宅にある日突然この「アルバン~」から入会の案内が来たんですよ。
アルバンがどうやって私の個人情報を知ったのか、今でも不思議なんですが、いま改めて思うのがこの「アルバン~」が設立された時期の国内のリーさんこと李小龍熱ってかなりボルテージが低かった印象がありますねえ。
なので入会案内を受け取った私のリアクションも「ふ~ん?でも何で今頃FCやんの?」的なかなり突き放した感じの反応だったと思います。しつこいけど実際入会しなかったし。
あとこの時に一緒に送られて来た「アルバン~」の会報も、こうちょっと・・・何と言うか・・・コンビニとかでコピーしたペラペラのコピー製本って感じで、それは私が知っているBFC、イエナ、西本BJのしっかりと印刷製本された会報とは異なる印象を持ちました。
ただその表紙に書かれた会報の特集内容は「死亡遊戯、その北京語版」とか「幻のビデオ完成イベント」とか、当時でも相当マニアックなファンを対象とした特集で、その点はとても興味を惹かれましたね。
もしこの「アルバン~」の会報をコンプしてらっしゃる方がいたら、私も是非目を通してみたいと思いますが、最終的にこのFCが何年活動し、何時解散したのかも私は知りません。
ただその後、都内は渋谷に軍装品&洋書などと共にリーさんグッズの販売店として店舗(地下)を持っていた「アルバン」で、私は何とも運命的な再会をしているんです。
それは1997年前後のある日、私が何気に渋谷に足を運んだついでに「アルバン」に立ち寄った時、店内のリーさんグッズのコーナーで熱心にグッズを物色している男性2人が目に入りました。
私はすぐにその男性の1人がもうかれこれ10年近く会っていないN会長だと判りました。「会長・・・Nさんでしょう?」「あっ!龍熱さん!?」
BFCの頃は何時も「おい!龍熱!」と私を呼び捨てだったN会長ですが(^_^;)、この時はちゃんとさん付けで呼んでくれたばかりか、隣で私を見てやたら感激してくれているリーさん信者のTさんを紹介してくれました。
「ええっ?あの「ブルース・リーと101匹ドラゴン」や「ドラゴン伝説」の龍熱さんですか!?」
私はTさんの私に対するリアクションから、N会長がかつてBFCで様々な思い出を共有した私が現在は商業誌の世界で「ブルース・リーライター(と当時は呼ばれていました)」として活動している事をちゃんと知ってくれている事が判り、とても嬉しく思いました。
その後、私たち3人は「アルバン」を出ると近くのレストランに場所を移して時間が経つのを忘れるほど昔のBFC時代の思い出話に花を咲かせました。
そう、まさにその日は渋谷のレストランが私たちを板橋のBFC事務局へとタイムスリップさせてくれたのでした。
実は私はこの「アルバン」でのN会長との再会以前に、西新宿の某マニア向けショップで店内から足早に立ち去るN会長を目撃していたのですが、その時は声をかけるタイミングを逸してしまい、それもあっての今回の満を持しての再会でした。
残念ながら「アルバン」のリーさんFCには入会しなかった私ですが、その「アルバン」が私とN会長を再会させてくれた。
そう、かつてリーさんこと李小龍に青春を燃やした2人のBFC会員が、そのリーさんが取り持ってくれた不思議な縁で再び奇跡的に旧交を温める事が出来たのです。(BFC会員番号152)

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我が青春のBFC回想録⑤

2016-10-23 09:40:25 | 闘神伝説~李小龍
「我が青春のBFC回想録」⑤
BFCで“黒い巨人”カリーム・アブドゥル・ジャバールとの世紀のインタビュー実現か!?と意気盛んとなった私でしたが、N会長の「ジャバールのインタビューは俺がするから、お前は通訳やってくれ!」との無茶振りな提案にちょっとトーンダウンしながらも、そのインタビュー決行の日を今日か明日かと待っていました。
ところが肝心のジャバールが来日し、そのバスケットボールの試合がテレビで放送されているのに何時になってもBFCによるジャバールとのインタビュー決行の日は来ませんでした。
堪りかねた私がN会長に「ジャバールとのインタビュー、どうなったんですか?」と問い質すと、N会長は「ああ、あれか。俺がバスケの主催側に連絡入れたらさ、ジャバール選手は大変お忙しいので無理です、だってさ。だからもうこの話はオシマイ!」とアッサリとインタビュー中止の決定を下していたのでした(T_T)。
まあ考えて見たら、バスケット主催者側にして見れば、バスケットとは全く無関係の映画、それもジャバール本人がラスト数分しか出演していない「死亡遊戯」についてファンクラブの男2人が突然インタビューしたいと言って来ても、主催者側には何のメリットもないわけで、この時のインタビューが実現しなかったのも今では十分に納得だったりするわけです(^_^;)。
さて、これまでの文面だけを読みますと、私こと龍熱青年にかなり厳しい言動が多々あったN会長ですが(^。^)、それでもBFCの初代会長としての功績は大変大きな人でしたし、加えて会員でありスタッフでもある私に原稿執筆に関して何度もチャンスをくれた人でもありました。
その一つにBFCが増刊号の形で発売した「甦れ!ブルース・リー」がありました。これはBFC会員のみの配布だった会報「The Dragon」とは異なり、一般書店の店頭でも販売するという当時のFCとしては画期的な試みを行った書籍でした。
この「死亡の塔」劇場公開に合わせて発売された「甦れ!~」を今でもお持ちの方も多いと思いますが、文中でリーさんことブルース・リーの伝記を執筆しているのが当時の私こと龍熱青年です。確か本の奥付に私の名前(本名)も表記されていると思います。
私の商業誌デビューは「ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!」だと思っていらっしゃる方が多いようですが、実は「101匹ドラゴン」発売を遡ること10数年前に発売されていたこの「甦れ!ブルース・リー」こそが私の本当の意味でのデビュー本だったと言って良いと思います。
ただこの当時の私は商業誌に原稿を書くという行為に対する責任感も、感動も殆どなく、むしろ自分がBFCの会報に執筆していた人気コーナー「ブルース in Video」や小説「死亡遊戯:完全版」に対する会員の皆さんの反響の多さに1人喜んでいたのでした(^_^;)。
そう、後に香港功夫映画評論家としてのキャリアを踏み出す事になる私も、この時は店頭に並んでいる「甦れ!~」を見かけても「あ、もう発売になったのか。じゃあ今度事務局でSさんに「死亡遊戯」のピンナップ着いてるの貰おうっと♪」と完全に他人事のようなリアクションに終始している、文字通り呑気なBFC会員だったのでした。(BFC会員番号152)
コメント (2)
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