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香港功夫映画と共に

邵氏兄弟電影黄金時代⑧ “アジアの黒豹”倉田保昭、香港“邵氏影城”へ!!

2017-05-28 10:25:40 | 邵氏兄弟電影黄金時代

さあ三大特別企画「激突!3大猛龍黄金フェスタ」、その第1弾は「邵氏兄弟電影黄金時代」第8回を兼ねての倉田保昭スペシャルこと「“アジアの黒豹”倉田保昭、香港“邵氏影城”へ!!」をお届けします。話は前回の第7回のラストで、日本は帝国ホテルで行われた邵逸夫と倉田さんのオーディションに戻ります。
このオーディションには倉田さんの他にも日本人女優らも参加していましたが、実はもう1人、某日本人男優も参加していました。
残念ながらこの男優さんはオーディションに落ちてしまいましたし、現在も芸能活動を続けている方なので、ここでお名前を明かす事は控えたいと思いますが、そうは言いながらもヒントをチラッと・・・そう、ヒントは水戸のご老公に仕えた・・・これがヒントです(^_^)。
さて、オーディションに受かった倉田さんが日本から香港の邵氏公司に勇躍飛び立った1970年代序盤。この時期はちょうどアジア各国から香港映画界に真正の武道家たちが集結しようとしていた時期でもありました。
まずは日本から空手と合気道の名手である倉田保昭が邵氏公司へ、さらには韓国から韓国合気道高手の池漢載と黄仁植が嘉禾影業へ、そしてもう1人、アメリカから邵氏公司との契約破談を経て、一転嘉禾影業と契約を結んだ李小龍と、今まさに世界有数の武道家たちが香港映画界に集おうとしていたわけです。
この日本から来た類い稀なる空手高手が邵氏公司の大導演である張徹監督作品「続・拳撃/悪客」(72)に出演する事に過敏に反応した2人の香港武打星がいました。
それが「~悪客」の主演武打星の姜大衛と狄龍でした。2人は「おい、今度日本から来る空手使いは相当の腕前らしいぞ。最初にどっちがこの日本人と闘うか、ジャンケンで決めよう!」と思い切り子供チック(^_^)にジャンケンをした姜大衛と狄龍でしたが、哀れジャンケンに負けた狄龍が最初に倉田さんと立ち廻りをする事となったそうです。
余談ですが、邵氏で活動を始めた倉田さんは当時の香港で一大“猛龍旋風”を巻き起こしていた李小龍と嘉禾影業のスタジオ(って当時はまだ国泰公司所有のスタジオでしたが)で初対面を果たしています。この李小龍と倉田さんの対面に関しては、李小龍と香港クンフー映画に関する世界的権威であるジョージ・タンが「クラタはブルース・リーとは少なくとも3回は確実に会っているんだよ。1度はブルースが「ドラゴンへの道」(72)のローマロケに向かう際に空港で、2度目は「麒麟掌」(73)の撮影現場、3度目は香港の街中でバッタリ顔を合わせた時さ!」と証言しています。
このリーさんと倉田さんが香港の街中でバッタリ会ったという3度目の対面。これがもしかしたら倉田さんが以前に語っていた「僕が朝ジョギングしていると、リーも同じく通りの反対側をジョギングしていて、お互いに無言で手を上げて挨拶を交わしたんです」という・・・この時の事かも知れませんね。いや~何かこういう話は自分で書いていてもドキドキしますねー!!
改めて、日本人武打星として唯一リーさんこと李小龍と対面した時の写真が多数残っている倉田さん。本当に素晴らしい足跡だと思います。
さて、話はまたまた少し前後しますが、倉田さんは自身の香港デビュー作品となった「~悪客」の現場で1人の武師と運命的な出会いを果たします。その武師こそが劉家良でした。
倉田さんは最初「こんな小柄な殺陣師で大丈夫か?」と思ったそうですが、実際に倉田さんの目の前で劉家良が披露した電撃のアクションに「こりゃ役者の俺たちよりよっぽど凄い動きだ!」と心から感嘆し、以後倉田さんと劉家良はお互いを「劉さん!」「クラタサン!」と呼び合うほどの固い信頼関係で結ばれる事となります。
私が思うに、この「~悪客」と次回作で韓国ロケ作品「四騎士」(72)での倉田さんのアクションは迫力に満ちた動きながらもまだまだ荒削りで、後に香港&台湾映画界で「倉田の蹴りは風を切る!」とまで恐れられた電撃の連続蹴りはまだ完成されていない段階でした。
倉田さんがその剃刀のような切れ味を誇る連続蹴りに開眼するのは邵氏公司を離れて、独立プロで呉思遠作品に出演し“香港のブロンソン”こと陳星との激しいハイスパート・クンフーに挑んだ辺りからでした。つまりこの倉田さんの“電撃キック”開眼は、邵氏公司時代に倉田さんが真近で垣間見た“洪拳宗師”劉家良から香港独自のアクションやタイミングなど様々なエキスを吸収していたからこそだと、私は改めて確信するわけです。
そして倉田さんと劉家良は1度は邵氏公司を離れた倉田さんがその5年後に再び邵氏公司に復帰する事で再会を果たします。
この時の倉田さんと劉家良は、既に監督業に進出し成功を収めていた劉家良にとっての“勝負電影”となる作品で日本と中国の激しい闘いと美しい友情開花を謳い上げ、その“勝負電影”は今も香港クンフー映画史上に燦然と光り輝く大傑作クンフー映画として深く刻み込まれる事となるのですが、それはまた後のお話。
“和製ドラゴン”倉田保昭がまだ“アジアの黒豹”と呼ばれていた邵氏公司時代。それは東映出身の無名の日本人武打星が己の蹴り技だけを頼りに文字通り捨て身で挑んだジャパニーズアクションが世界トップクラスの香港映画と堂々と渡り合える事を立派に証明して見せた記念すべき瞬間だったのです。
そしてアジアにおける日本人武打星の偉大なるパイオニアへと駆け上がった倉田保昭は、その後も邵氏公司を皮切りに数々の独立プロで活躍し、やがては“盟友”梁小龍とのハイスパートクンフー映画の到達点「帰って来たドラゴン」(74)で自身が夢にまで見た栄光の日本凱旋帰国を果たすのである!
そう、香港映画の原点にして“最強無敵影城”は嘉禾影業にあらず、邵氏兄弟公司にあり!!「邵氏兄弟電影黄金時代」、次回もどうぞお楽しみに!!

コメント (2)
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