パンと珈琲日記~整形外科じゃなくて成形~

パン焼きと珈琲を趣味とするある整形外科医の日記

信玄堤と信玄もち

2011-08-13 07:13:38 | 菓子
子供と一緒に見ている某塾の通信講座で信玄堤を解説していたので興味を持ちちょうど山梨へ弟に会いにいく予定だったのでついでに信玄堤を見に行った。



信玄堤というと釜無川の河川敷にある木と石で出来た聖牛という構造物が有名でこれが信玄堤かと思っていたが、公園の解説と弟の話ではどうもこれは信玄による治水事業の一部のようだ。釜無川に注ぐ御勅使川の合流点の延長線が甲府盆地の低い所であり、容易に水害がおこっていた。ここに堤防を築くとなるとかなりの高さが必要となり、また流れで削られてしまうのでなかなか難しい。また流速と流量のため釜無川の流路が度々変更され暴れることも堤防を築く上で問題となっていたらしい。そこで釜無川に注ぐ御勅使川を上流で流れを弱めた上で流路を変更し、高岩という自然の堤防にぶつけて流速を減じた上で信玄堤の聖牛である程度水を堤防外に出して釜無川の流路が変わらないようにするという巧妙な仕組みをとったようだ。竜は氾濫する川を表し、水害の象徴なので治水が終了したことを示すためこの地を竜王と名付けたらしい。ちょっと話はかわるが、竜といえば先の復興相は復興チームをチーム・ドラゴンと名づけていたが、その名称は水害でダメージを受けた地域復興に対して不吉で配慮がかけていたかもしれない。



ところで信玄堤の仕組みに感嘆した事を弟に話したところ、武田信玄の事を熱く語り出した。諏訪をはじめ信濃に平和をもたらしたのは信玄であると断言していた。おい、待て、日本史とかの教科書では諏訪侵攻とか信濃侵攻とか侵略って書いてあったように思うぞ、と弟に言ったところ、平定して平和をもたらしたんだと返された。うーん、それは甲州人の理屈ではないか、信州人が聞いたら怒り出すんじゃないか、と言ったら、俺は甲州人だからと。もしこれが甲州人一般の考えならば甲州人と信州人は仲良くないに違いない。それにしても彼は山梨に来て約20年。すっかり山梨に染まっているようだ。たぶんこれが郷土愛という物なんだろう。自分は東京出身で高校卒業後、5-10年単位ぐらいであちこち移動していて定住していないし、今のところ定住するつもりもない。震災、原発事故を見て定住なんか出来ないとさらに思ってしまっている。日本人としての愛国心はあってもこういう郷土愛のような感情は一生持てないに違いない。ちょっと羨ましくもある。

信玄とくれば信玄堤よりも信玄餅の方が実は有名であろう。今回、弟から聞いて初めて知ったのだが、一般的に有名な信玄餅は実は「ゾロ」で本家は別らしい。要は信玄餅という登録商標は最初に名乗ったところが持っていて一般的に有名な物は◯◯信玄餅と頭にある物がついているらしい。基本的に原理主義者の弟はこういうところにうるさい。まあ、信玄餅というお菓子は求肥餅にきな粉と黒蜜をまぶした安倍川餅の変種で単純なお菓子だから真似できると言えば真似しやすいのだろう。調べてみるとお盆の頃、山梨では安倍川餅を食べる習慣があり、これが信玄餅の元になったらしい。季節の物なので作ってみた。





武田信玄と上杉謙信を比べるとやはりイメージ的に信玄は土のにおいがする。土産物の信玄餅は洗練されていて信玄餅というより謙信餅と言った方がしっくりくる。そこできび砂糖を使って信玄の粘りのある土のイメージを出した。


材料:
手ごろに作るために切り餅を使う。

切り餅 250g
片栗粉 少々
水 100ml
きび砂糖 100g
きな粉、黒蜜 適量

1)水ときび砂糖を火にかけシロップを作る。
2)そこにちぎった餅を少しずつ加え、煮溶かしていく。
3)練って滑らかになったら片栗粉を敷いたバットに流し込み、冷やして固める。
4)片栗粉を打ち粉にして濡れた包丁で適当な大きさに切ってくっつかないようにきな粉あるいは片栗粉をまぶす。
5)並べてきな粉をふって黒蜜をかけて出来上がり。


なおこれは信玄もちであって信玄餅ではありません(笑)。


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4 コメント

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信玄堤 (MK)
2011-08-13 20:56:06
霞堤や聖牛を使った水防工事は、信玄が侵攻した信州でも行われ、釜無川ばかりでなく、天竜川にも同様の水防施設が使われていいるそうです。

http://greengreen77.blog70.fc2.com/blog-entry-495.html(aacoさんのブログより)
ご参考まで。

このように、信玄は侵攻によって勢力下となった土地でも水防工事等民政に力を注いたとの事です。
このような故事によって、弟様のおっしゃるように、信濃の民政を安定させたと云う説も全くデララメとも言えないそうです。
尤も、労役は地元の農民自らが行ったでしょうね。
唯、このような高度の水防技術は本来本邦では発達しておらず、遠く中国から当時の最新技術を取り入れて、施工させたというのが定説になっております。
尚、弟様もおっしゃられたと存じますが、当地では『信玄』と呼び捨てにせず、必ず『信玄公』と呼ぶのが習わしのようです(笑)。
織田信長公、上杉謙信公、徳川家康公等戦国期の有力者はいずれも民政の安定に力を注ぎ、
本来ならば、反旗を振りかざすはずの一般住民でさえ、神仏と崇めたとも云われています。
阪神淡路をはじめ先の3.11でさえ、皆秩序を持って行動し、暴動も起さず、静かに救援を待つといった事を他国が驚いたそうですが、本邦の為政者は皆いにしえより、民政に力を注ぎ、搾取するばかりでなく、新田の開発、揚水建設、飢饉の際は炊き出し等を行い、『辛抱すれば誰か必ず助けてくれる』と云った意識を被支配者達に植えつけたからだ。と云う説もあるそうです。
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龍と信玄 (ortho)
2011-08-15 23:15:31
竜王という地名、諏訪、天竜川領域を征服、治水、と言う事でふと思ったのですが、信玄が治水に力を注いだのも諏訪を征服したのも彼の不動明王への信仰ゆえだったのかもしれませんね。あるいは治水に力を注ぐため不動明王を信仰したか。(実は信玄が不動明王信仰をしていたのは謙信の毘沙門天信仰に対抗してなのかと思っていました)
古来、川の氾濫は龍に例えられ、諏訪の神は龍神で、海から天竜川を遡ってくると言う伝説があるそうで、不動明王は倶利伽羅という龍の形態をとるとか。龍の本拠地である諏訪を征服するということは不動明王の化身となるために必要だと考えていたようにも思えます。そして家臣の反対をよそに諏訪の姫を側室にとったのも龍が人間の姫を迎えるという故事に習ったようにも思えます。そう考えると諏訪の血の入った勝頼を後継に指名したのも彼なりの信仰ゆえなのかとおもってしまいます。
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Unknown (ryuji_s1)
2011-08-19 13:24:01
信玄もち
美味しそうです
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Unknown (ortho)
2011-08-20 23:49:27
ryujiさん、お久しぶりでそ。ありがとうございます。
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