ボランティアである講演会のお手伝いをすることになった。演台のそばに花を置きたいが予算が厳しいということなので華道をしている妻に相談したらちょうど発表会がその前にあるのでそれを少しアレンジして生けてくれると言われた。そこで写真を見せて皆に提案したが、立っている桐が大きすぎて邪魔、下の花だけだったらいいのに、といったようなことを口々に言われた。自分は華道とか美術的なことはよくわからないが、高く立っている桐が枯れた?ように見えてもそれがこの作品の中心であるぐらいはわかるし、冬を迎える季節に桐が天を向いていることに大きな意味があることと、桐だから縁起がいいことだろうということもわかる。
桐に意味があるし、それが主なので下の花だけだったら間抜けすぎる、それだったら飾るのをやめようと話したところ結局、予算も代案もないので飾ることになった。しかし、場の雰囲気で誰も納得していないらしいのは何となくわかった。
家に帰って妻にこのことを話したら驚きと嘆きそして少しの怒りがいりまじったような反応をした。桐が上方にのびていく、その構図の美しさ、のびやかさが重要であって下の花だけであると押し込まれて抑圧されてしまう感じになって良くないらしい。生け花の美しさとは自然がなす非対称の美しさなのでそれをわからずに下の花の色彩にのみ目を奪われるのは自然の美しさを感じなくなってしまった結果で、桐の上にのびていく自由さを理解できないのは心が狭く前に向かって生きていけない事の表れだろう、とさんざんな言いようだった。理解できない人たちの前で生けてもしょうがない、とも言われた。なんとかなだめて生けてもらうようにしたが、このことから色々なことを考えさせられた。
大人になると精神の自由さは失われ、自分の殻に閉じこもる方が心地よいため、前例を踏襲するようについついなってしまう。そして自然の非対称、奔放な美しさを感じる心は失われていき、型にはまった人工的なものを求めるようになるのかもしれない。講演会の準備で「前例がない」という言葉が度々聞かれたが、まさにこれだ。閉じた心で前例を求めるだけならば講演会で人の話を聴いても結局は自分の意見と同じような意見を求めるだけで講演会など開く意味があるのだろうか。
発展して成長するために、そして美を感じるためには心を素にして子供の頃に感じていた好奇心、冒険心を失わないようにしないといけないのではないだろうか。そういった心を失った社会には発展や進歩は期待できない。発展や進歩が人類に与えられた宿命ならこの世はそういった子供の心を失っていない人たちの物に違いない。
いつも通りのライ麦パンを焼成した。
二次発酵がやや不十分で膨らみは少し悪かった。
桐に意味があるし、それが主なので下の花だけだったら間抜けすぎる、それだったら飾るのをやめようと話したところ結局、予算も代案もないので飾ることになった。しかし、場の雰囲気で誰も納得していないらしいのは何となくわかった。
家に帰って妻にこのことを話したら驚きと嘆きそして少しの怒りがいりまじったような反応をした。桐が上方にのびていく、その構図の美しさ、のびやかさが重要であって下の花だけであると押し込まれて抑圧されてしまう感じになって良くないらしい。生け花の美しさとは自然がなす非対称の美しさなのでそれをわからずに下の花の色彩にのみ目を奪われるのは自然の美しさを感じなくなってしまった結果で、桐の上にのびていく自由さを理解できないのは心が狭く前に向かって生きていけない事の表れだろう、とさんざんな言いようだった。理解できない人たちの前で生けてもしょうがない、とも言われた。なんとかなだめて生けてもらうようにしたが、このことから色々なことを考えさせられた。
大人になると精神の自由さは失われ、自分の殻に閉じこもる方が心地よいため、前例を踏襲するようについついなってしまう。そして自然の非対称、奔放な美しさを感じる心は失われていき、型にはまった人工的なものを求めるようになるのかもしれない。講演会の準備で「前例がない」という言葉が度々聞かれたが、まさにこれだ。閉じた心で前例を求めるだけならば講演会で人の話を聴いても結局は自分の意見と同じような意見を求めるだけで講演会など開く意味があるのだろうか。
発展して成長するために、そして美を感じるためには心を素にして子供の頃に感じていた好奇心、冒険心を失わないようにしないといけないのではないだろうか。そういった心を失った社会には発展や進歩は期待できない。発展や進歩が人類に与えられた宿命ならこの世はそういった子供の心を失っていない人たちの物に違いない。
いつも通りのライ麦パンを焼成した。
二次発酵がやや不十分で膨らみは少し悪かった。
私は小原流の生け花を7歳からやってます。真面目な生徒でもなく、研究会では「どうしてこのような構図を家元がお考えになったか考えたことがありますか?あなたの生け花は、ご自身が前に出過ぎです。」と度々批判されへこみました。
NYでも支部があり、最近は全く行けませんが、数回お稽古に参加し、先生に「君、大丈夫?」なんて、言われてしまい、「いや、全然大丈夫じゃないです。」って、答えたり、、、、、。ああ、、、。
しかし、落ち込んだり、迷ったりすると、したくなるのは花を生けることです。今となっては、「俺流」みたいな花で情けないですが、、、、。
そんな「俺流」の花を生けるわたしにも奥様の怒りはわかるしorthoさんのいわんとするところも良くわかります。
なんだか、花の意味とか、伝統とか、美のことをわからない人がいるのが怖い。「前例」ということを言うなら、それは、ちょっと前のことだけに着目してないで、もっと深く歴史勉強して下さい。って、言いたくなる。自由や冒険心の手助けはいつだって、今、目の前に居る人だけじゃなく、過去の偉人が応援してくれるのだ。
ところで、
>下の花だけだったらいいのに、
って、意見は西洋風フラワーアレンジメント的なものを求めていたのでしょうかね?
>西洋風フラワーアレンジメント的なものを求めていたのでしょうかね?
多分、そうだと思います。
妻はフラワーアレンジメントもカリグラフィーも少しかじったようですが、どちらも自由さが生け花や書道と比べて少なくてある程度形が決まっていてつまらないと言っていました。
形と言えば小学校3年の娘が華道と書道と空手(道)を習っているのですが、去年、空手を習い始めた時に日本の「道」と名のつくものは全て共通するものがある、中心に線があって広がっていくみたいなことだったような面白いことを言っていました。今は華道は女性の趣味みたいに思われていますが、それを聞いた瞬間、なぜ、昔、武士が華道を嗜みとしたか理解できました。子供は素直な心で見ていて偏見が少ないのでしばしば大人を超える洞察力を持つことがあるんですね。物事を素直に感じたりとらえたりするには子供のような心をもつことは時として重要だと思います。