Fuu

ある日には山 ある日には畑 自然体で気分良く暮らしています。

野麦峠を越えて

2009-03-02 11:19:02 | 日記・エッセイ・コラム

気付いたら 野麦峠に向かっていた。 息子がボードに一人で行くのがどうも気に入らなくて(骨を折ったりしたらどうするんだ? どうやって帰ってくるんだ?)たまたま日曜日がお休みになって 運転手を買ってでた。

近いところで モンデウスへ 「二時に集合ね」と彼が滑っている間に 高山でも行ってこようと思っていた。 しかし41号線に出てすぐに野麦峠の字を見つけた。五十何キロとある。

「あら? これなら1時間ほどで行ってこれるかも」 そう思ったら 迷わず。 朝日村からひたすら山の奥に入っていく。 行く手には 御岳とおぼしき美しい雪山が見えてきた。 道は想像以上に良い。トンネルの入口が90度に曲がっていることを除けば 何とかいけそう。

Damuko

なぜ野麦峠に行きたくなったか?

亡くなった父が野麦峠にこだわっていたから。 女工哀史として有名になった野麦峠。 飛騨の少女が 小学校を出るとこの峠を越えて岡谷の紡績に働きに行く。そのときの様子を書いたものだったけれど 父の育ての親(生後まもなく母親に死に別れ 里子に出された) その友達などみんな経験者 明治時代はともかく 父の関係者はj時代も新しいので 哀史にあるほどは厳しい生活をしていないのではないか?と少し思うけれど それでも厳しい山道を越えないといけない事には変わりない。 

野麦峠を題材に書いていた父の絵に鎌倉街道っていうのがあった。鎌倉街道は近所にも残っているけれど 御岳を越える道があることは驚きだった。「鎌倉街道 こんな所にもあるの? 山越えは大変なんじゃないの?」

Nomugi

「鎌倉幕府が出来たら 飛騨から鎌倉へ行くには 山越えしかなかったんだよ。」それを聞いたら この道をいつか歩いてみたいと思った。 乗鞍を越えるのは難しい。 あの山に立派な道が付いたのは 乗鞍頂上に陸軍の基地を作ろうとしたからだと聞いたことがある。 生活道路として 歩くには やはり野麦峠しか無かったらしい。 すごいなぁ

一体何日かかったのやら?

ダムを越えて道が狭くなりかかった頃 「冬季閉鎖」の案内が。。。え~~っ? ここまで来ていけないのかぁ 

しかし道は雪が無い。 「いけるところまで行ってみよう。」高根村 野麦っていうところまできた。 私は岐阜県にいながら高根村についての知識が全くなかった。郡上の方の高鷲と混同していたからかもしれない。 極寒の僻地で 人里さえないと思っていた野麦は思ったよりたくさんの集落があった。寒さで凍った道をバリバリと進むと 里には一人おばあさんが外に出ていて 畑を眺めていた。 何処にもある里の風景だった。 ここから峠まで10キロ弱らしかった。 糸引き娘達はこの辺りでもずいぶん助けてもらったに違いない。乗鞍が雪を被って 輝いている。

Numugisyuuraku

峠にはお助け小屋があるようだったけれど ここからの雪道は谷に落ちないようにみんなで身体をくくりつけて歩いたこともあったとか。。。。

そんな話しを聞くと大好きだった育ての親の娘時代の苦労に 心が痛んだと思う。 それでも優しかった飛騨の人々の気質を年を取るにつれて強く感じていたようだった。

Itohikimusume2 Itohikimusume

母とよく洗濯ばさみを使って人形を作っていた。 それをジオラマふうに野麦峠を再現して 懐かしんでいた。 ちょっとしたままごと遊び? 一つ一つの人形に声をかけて遊んでいた。

年を取るに従ってふるさとに戻ることは無いけれど ふるさとを思う気持ちだけはとても強くなるものらしい。

二人で 季節ごとに床の間に飾るふるさとの風景はとても 愛情あふれるものだった。

そんな事を考えながら この先何処まで車で行けるだろうか? 車置いて山道を歩いてみようか? と考えていたら 息子からメールが

「雪 良くないし 飽きたから早めに帰る。」 あれれ 仕方ないというか無茶はいけないよって言う父からのメッセージだったのかも

春にもう一度来ることを決めて 久々野まで小一時間のドライブ。野麦峠を越えられなかった現代人は 命をはってでも越えなければならなかった女工さん達の苦労を そして飛騨への思いを忍びながら帰る。

コメント (8)
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