藤堂高虎は城作りの名手だったそうです。あちこちの城を見て歩くとなるほどなと思えるのですが 一体いくつの城を作ったのか?
驚きの数です。
遊子から戻って町の真ん中にそびえている宇和島城に行くことにしました。 あ 私そんなに歴女ではありません。 違っている点があったら教えて下さい。
登城口が二つあります。 駐車場を探して行ったら西の方の登城口にでたようです。駐車場は三之丸の跡地です。 御殿のあったところにはお店が出来ていました。
近すぎて変ですが藩老桑折氏武家長屋門だそうです。ちなみに桑折はこおりって読むのだそうですが私にはなじみの無い姓で変換できないだろうと思ったらちゃんとあった。 この辺では良くある姓なのですね?
でと取るても立派な門だったそうで間口35メートル 奥行き4.1メートルって凄くないですか?
35メートル・・・・・広すぎる
もともとここにあったわけでは無く ここに移すときに長屋の部分を切り取ってしまったんだとか・・・右には厩 左には門番や使用人達が済んでいたようですよ。 今はお城の入り口の狭い場所に無理矢理うつしてあるのでそのスケールはよくわかりませんけど
この門をくぐって石段を昔さながらに歩きたかったのですが 災害の痕がまだ復旧されていないとかで巻き道を行くことになりました。
宇和島城は初めから藤堂高虎が作ったものでは無いようです。
昔からあった板島丸串城の跡に作ったものだそうです。 板島 丸串って地名でしょうか? 今の地図を探しても分りませんでしたがきっとここにあったのでしょう。
なぜ気になるかというと 藤堂高虎が城を作るならもっと海沿いに作るのではないかと思ったからです。城を守るにこんな良い立地はないだろうと思うのです。
でも幕末の地図を見ていて分りました。
今ある市役所方面は昔は海だった。埋め立てもされてるようです。
石垣を左に見ながら登ってきたら 長門丸にでました。 今は児童公園になっています。
少し階段を上ったところにもう一つの郭があって藤兵衛丸と言われる場所が
何があった場所でしょうか?
今は郷土館があるようです。
現在保存整備事業が行われているようです。どんな宇和島城が浮かび上がるか楽しみですね。
整備中為でしょうか? 工事用の網網の階段を上って二の丸に出ます。
二の丸と本丸合わせて9個もの矢倉があります。 城を守るためとは言え凄いですね?
こうやってみるとやはり地形を利用した守りの城です。 リアス式の宇和海は小嶋がいっぱいあるように見えます。
私に取っては宇和島城は藤堂高虎の城というイメージですが 宇和島の人々にとっては伊達の城のようです。
宇和島城の城主になった伊達秀宗を初めとしてその後この城を伊達家が治めていくようになります。
伊達政宗の長男で有りながら秀吉の人質になっていた伊達秀宗はその後秀吉 秀頼に使えていたことなどから 仙台城の跡継ぎとは認められず親子関係がうまくいかなくなったそうで ちょっと切ない歴史もあるのです。
この鏡餅は伊達家流だそうです。
ものすごい豪華ですね?
こんな説明がありました。
宇和島の人々に仙台の文化が根を下ろす。 今宇和島の人がお正月のお飾りをどんな風にしているかは知りませんが きっと何かの影響を受けている。
ある意味で不遇な暮しを余儀なくされた伊達のお殿様はこの地で地元の人々とどんな風に心を交わしたのでしょうか?
まだ発掘中とのこと また機会があったらもう少し勉強して訪れたいお城でした。
なかなか興味深いものが一杯でしばし読みふけってしまいました。この方は 本当に宇和島を大事に思っていらっしゃるのですね?
仙台との関係は・・・・そうですね 今のところこれだって言うのが見つけられなくて不思議に思っています。ずっと伊達家が治めていたのに伊達の気配がないなんて。。。。
かまぼこはじゃこ天以外のものをおっしゃっていますか? じゃこ天は私にはもし影響を受けたとしたら薩摩揚げかなぁと思っていました。
長茄子 宇和島は長茄子の産地だったのですか? 柔らかくて美味しいので良く買いますが九州のものです。 でもよく調べてみたら確かに仙台にもあるのですね? ただ 仙台から種を運んだ。。。。と言ったような積極的な影響を記したものは今のところ見つかりませんでした。本当に不思議です。
思えば今でこそひょいと四国まで行けますが 江戸時代宇和島に配属されたことはふるさとを完全に遮断されるような厳しい事だったのかもしれませんね?
伸びすぎた木を切り詰めて、やっと綺麗に見えるようになりました。
伊達氏の残したもの、蒲鉾や長茄子はどうだろう?
長い年月を経て替わってしまってる物があるかもしれないですね。
宇和島のあれこれはこんなサイトがありました。
www9.plala.or.jp/uwajima-uwajima/
コメント有り難うございます。 今日は久しぶりに雪のお山に行ってきました。
あまりに綺麗だったのでちょっと興奮しています。
宇和島城が木に埋もれていた?
今残っているのが天守だけだからでしょうか?車で回っていてもすぐに分りましたよ。
全部残っていたら随分立派なものだったでしょうにね
40年も前って・・・・・ムニャムニャ才じゃないですか? あまり歴史などはお好きではないですか?
五鹿踊り・・・ちょっと調べてみたけれどよくわからない。 見た目は牛鬼のような姿にも見えるし・・・・仙台から遠く離れてもう二度と戻れないとなるとやはり子どもの頃から慣れ親しんだ祭りや風習が心を揺さぶるんですね?
宇和島に持ち込んだのが分るような気がします。
ただ 食生活などに一番影響を受けやすいのではないかと思ったのですが そうでは無いのですか? 採れるものが違うからでしょうか?
相変わらずお忙しいようで・・・・お会いした頃はまだ中学生と小学生のお父さんだったのに 今では大学生と中学生のお父さん。
すっかり親爺の仲間入りですね?
幸せそうなご家庭をいつもほほえましく思いながら見ています。
宇和島はお母様の出身地でしたか?宇和島と大分は隣組みたいなものですものね 案外つながりが深いのですね?
蜜柑とじゃこ天の町?
あはは 私もさほど知りませんでしたよ。ただ ここに住むカールおじさんからいろんな話を聞いていたので自分なりの宇和島が出来ていました。
ちょっと違ってましたけれど。
蜜柑のイメージは払拭出来ず 駅を降りたら蜜柑の匂いがするに違いないと思っていましたがそれはなかったです。
遊子の段畑は機会があったら是非ご覧になってください。
人々の知恵と努力厳しい自然を受け入れて立ち向かう姿に感動さえ覚えました。
木に埋もれて見え辛かった宇和島城が、近頃見えるようになってきてます。
はてさてお城に登ったのは何時だったか?
もう40年も昔の記憶しかありません。
伊達氏が残したもの、お祭りの五鹿踊りくらいしか思い浮かびません。
段々畑はほとんど急な階段のようです
手入れが大変そうですし
中には落ちる人もいるのでは・・・
実は一応母の里なんです 長男が1歳くらいの時 別府観光港から車ごとフェリーに乗って やはたはまで降りてあと車を運転して30分くらいだったかな
一応親戚の結婚式に出席させてもらいましたがあまりよく覚えてません
ママにきいてもやっぱりあまり覚えてないようです 今なら写真撮ったりするんですが 残念です
でもこうしてレポートして頂いて改めてこの町の魅力がよくわかりました
みかんが甘いのとじゃこ天の産地ってことしか知りませんでしたから 笑