テムテムな日常

頑張れみんな!頑張れ自分!

個性を理解する

2007-04-25 | 雑談
うちの息子には、保育園も一緒だし家も近所だから起きている時間はほどんど一緒に過ごしている・・・という友達が何人かいます。ご近所なので家族構成などもよく知り尽くした間柄です。仕事を持っているので親同士はそれほど密な付き合いをしているわけではないのですが、それでもお互いの子供が悪さをしたときにはきちんと叱れるよい「大人づきあい」をしています。

そんな友人のひとりRくん・・・以前からよく知っている子でしたが、どうやらこの子は自閉症のようです。といっても友達と遊べなかったり集団生活ができなかったり、というレベルではなく、ほんの少しこだわりが強く、いつもと違うことをするのがイヤ、という感じ。うすうすそうじゃないのかな?とは思っていましたけど、Rくんのおばあちゃんとの会話で分かりました。

子供達同志の間では、多少ケンカしたり手が出たりということはあっても、とくに他の子供達と区別することもなく、毎日楽しく過ごしているのですが、やはりRくんのおばあちゃん世代になってくると「うちの孫はヨソの子と違うから」といった目線で見ている場面が多いようで、迷惑をかけないように、怪我をさせないようにといった感じで常に先回り、先回りと接しているようです。子供達の前でも「Rくんはダメ」「Rはやめときな」みたいな言い方をされている場面が目に付きます。

「しょうがい」というものは今や「個性」として受け止めるのが当然であり、まだやわらか頭の息子たちにとっては、例えば保育園行事でRくんがいつもとちがうことをするのを嫌がったりしても「じゃあ、先にいくね!」と無理に勧めたりすることはなく、「苦手なんだ」と柔軟に受け止めています。いろいろな子供がいる保育園で「まわりとちょっと違う」ということは、特別でもなんでもなく、むしろ「いろんなひとがいるなかで、自分はこんな感じ」というふうな捉え方をしているようです。

大人になって知恵がつくにしたがって、そうした「しょうがい=個性」という捉え方から「しょうがい=かわいそう、なんとかしてあげなくちゃ」みたいになってしまうのでしょう。うえからものごとをみてなんとかして「あげる」のではなく、同じ目線で、ひとつの個性として接することができなくなるのはなぜか・・・やはりまわりの環境も大きいと思いますが世の中的によしとされている「弱者にはやさしく」という考え方の誤ったとらえ方が大きいと思います。

自分より弱い、すなわち自分のほうが上、と思ってしまった時点から間違いは始まっているのです。するほうが上、されるほうが下ではないのです。するほうも、されるほうも同じ目線、同じポジションです。してもらったからといって卑屈になることもないし、してあげたからといって尊大になる必要はない。子供達はちゃんと分かっています。と同時に、親の子供への接し方も重要。特別扱いはする必要ないのです。出来ないことに対しては手を貸し、悔しい思いをしたときには共感する・・・それは親でなくても出来ることですが、一番身近な存在からそのようなケアをうけた子供達は、卑屈になることも尊大になることもなく、将来大きな大輪の花を咲かせるのではないでしょうか。

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2 コメント

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全く同感です。 (mizzie)
2007-04-25 15:03:18
今回のhanaさんの意見には、多様性の国から全体主義の国に帰って来たオイラにとって、「ホント、そうだよね~。」って頷けちゃう記事でした。

これから夜勤のオイラ、今夜の夜勤はちょっと気が重かった(理由とかはまたブログで記事にするつもりです)んですけど、出勤前に、気が重かった自分の心をスカっとさせちゃうような、そんな自分リフレッシュなお話を聞かせてもらった気分です。

では、僕は行ってきます。
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仕事にも通じるものがありますね (hana(本人))
2007-04-26 21:27:19
>mizzieさん
介護の仕事なんかをしていると、よく利用者のことを上からみて「○○してあげますね」なんて声かけをしている職員をよく見かけますが・・・これは絶対に違います。
たまたま仕事としてその方と接する機会をもっただけで、して「あげる」のとは違うのです。
いつもそんなことを考えているのですが、子供の世界ではちょっとしたハンデに対し容赦したり手を貸したりするのはごくごく当たり前のことなのに、なぜ大人になったらそこに上下関係が発生するのか不思議でなりません。大人たちよ、もっとシッカリしようぜ!って思ってます。
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