かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 298

2016年04月19日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究36(16年3月)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)123頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明
     司会と記録:泉 真帆

298 死と政治のみがおそろし休日の日向に小椋佳など聴けど
      (レポート)
中世の権力は特定の権力者が死刑への恐怖によって人々を支配し秩序を維持する「死の権力」だった。近代になってからは人々は自由な主体になったと思いこんでいるが、生の権力による一定の訓練を受け入れ、規格に従うことによって初めて社会の中で生きることができ、裏を返せば従わないと社会的な死を意味するのである(ミシェル・フーコー)。だから、休日の日向に小椋佳(仕事と趣味を自在にこなしている自由人のように見える)を自由に聴いていても、生殺与奪の権力を持つ政治(生の権力)による死の不安が常につきまとっているのである。自ずからなる死も政治による外からの死もともにおそろしいのである。(鈴木)


     (当日発言)
★この「政治」というのが唐突で。不可抗力なものとして捉えてらっしゃるのか、ちょっとどのように捉えていいのかが
 分りませんでした。(石井)
★小椋佳さんは職業人だったんですね。銀行にお勤めだった。(曽我)
★第一勧銀(石井)
★それで銀行の仕事も全部こなしたうえで音楽もやっている。松男さんも小椋さんも東大出で、なんとなく親しみをもっ
 てるんだと思う。小椋さんの生き方をいいなあーと思ってらっしゃるんじゃないかなーと思いました。(曽我)
★生き方より歌でしょうね。生き方に拠る歌。(石井)
★今の時代、よりこの「政治」、<生の権力>の意味が分かってきた。例えば今すごく右寄りに。社会的な状況もすでに
 報道も規制されつつあって、社会的な死です。一般の働いている者にとっては、正規・非正規で分けられている。社会
 的な訓練をきちんと受けないと、落ちこぼれてアウトサイダーになってしまうということなんだと思うんです。(鈴木)
★政治というのは社会組織というものを変えてしまう、というような意味ですか。(石井)
★うん、権力はね。政治は権力なんですよ。(鈴木)
★政治は権力ですよね。(石井)
★それを生の権力と。生かすための権力と。今まで民主主義とか立憲主義とかうまく機能している時には怖さはなかった。
 それが独裁的なものになってくると、中世に逆戻りしたような。政治はどうしても流動的ですから。(鈴木)
★「小椋佳など聴けど」という下の句に結びつく必然性は。(真帆)
★どうしてかというと、松男さんは公務員として働いているけど、その組織からドロップアウトすると、まさに社会的な死
 になる。公務員って途中で退職を余儀なくされたらあと食ってけないですから。そういう危険性というのはある。だから
 今、就職試験でみんな必死になってる…(鈴木)
★だからちょっと前に「女子職員同士のながきいさかいもひとりの臨職泣かせて終わる」もありましたよね。(真帆)
★それのひとつの表現ですよ。(鈴木)
★組織の中にいる自分、ですかね。(石井)
★ピラミッド型ですから、いまの社会って。(鈴木)
★だから非正規職員はもうすぐに干されてしまうということ。派遣社員とか言ってますけれども、そういうこと。言葉は良い
 ですけれども。(石井)
★格差社会といってもいいのかも。(鈴木)
★そうすると、作者にとってこの「政治」は、お仕事、ということですか。(M・S)
★もっと広いと思う。松男さんは全体のことを考えてますから、仕事ってここだけのことじゃなくって。その仕事はどういう
 関わりでもってどういうものと繫がってるのか、というのを彼は見ていますから。だからやっぱり権力まで行きますよね。
     (鈴木)
★死も政治も非常に大きなテーマ。そういう深いところから…。(石井)
★そうそう、そういった大きなテーマの中で詠ってるんで、よりリアルな感じがする。原発作業員を詠った歌ありますよね。
 「したうけのそのしたうけのしたうけのさげふゐんぬるッぬるッと被曝す」(『雨(ふ)る』2016年刊)作業員が原発の
 後始末するのを「ぬるッぬるッ」と滑るというような詠み方をしてる。作業員の方の仕事を自分に移し替えて考えている。
 自分がまさにやっているような感じで。東日本大震災のときに被害が随分あった。津波の。その人たちに、とんでいって背
 中をなでてやりたい、「まぼろしのわがたなごごろとびてゆき生きのこり哭くひとの背をなづ」(『雨る』)って歌がある。
 そういうところまで思いを届かせてしまう。そういう大きなところから詠っているので、すごく実感があるんですよね。目
 先のことだけじゃなくて。目先のことを詠うにしてもやっぱり大きなこととの関わりの中で詠ってる。(鈴木)
 「わが掌ひやくにひやくさんびやくあらばとおもふ慟(な)く背をさするまぼろし」(『雨る』)
★ということは、日本がどうなっていくかっていうような考えを入れて…。(M・S)
★背後にあると思いますよ。(鈴木)
★「聴きながら」じゃなくて「聴けど」だから。精神的には非常に自由な世界を求めているが、私に壁として死を考える意識と、
 鈴木さんが言われたような政治の世界がある。(石井)
★その対比みたいなところがありますね。(鈴木)
★そうですね。「おそろし」と、非常にきちっと詠われている。聴きながら、ではなくて、「聴けど」が効いているなあと。
     (石井)
★いつも癒される小椋佳の歌だけれども、という気持が「聴けど」じゃないかしら(M・S)


     (後日意見)
 渡辺松男という人は常に社会全体を視野に入れてものを考えている人ではあろう。しかしこの歌で詠まれている死が政治によってもたらされる死、権力による死であるとは思わない。「政治と死」が唐突にうたいだされているが、それは小椋佳的な抒情世界と対置されたものだ。休日、優しい歌詞と優しいメロディで唱われる小椋佳の世界に聴き惚れているが、現実世界は正に政治によってがんじがらめにされていて生きにくい。その果てに待ち受けている死も怖い、そういう気分ではなかろうか。小椋佳が銀行員でありながらシンガーソングライターとして生きたことも、直接には関係ないように思う。(鹿取)


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