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中野信子・著“ペルソナ―脳に潜む闇”を読んで

“日本政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会メンバーである専門家からの東京五輪・パラリンピックの開催に伴う新型コロナの感染拡大リスクに関する提言に対し、政権・政府は何らかの見解を示さねばならなくなったはずだ。”と筆者は前回ここで述べたが、未だに政権・政府から “理詰めの合理的説明”はない。
こういう状況で、いよいよ日本の奥の院から“国民の間に不安の声がある中で、オリンピック、パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか”との御懸念が伝わって来た。オリパラ開催時に述べられる祝辞・宣言をどのように表現するべきかの御懸念も御考えのことと思われる。首相はこれに恐懼して“真摯に”御応えしなければならないはずである。それも早急に、即座に為すべきことであろう。だが、未だに合理的な御説明が国民にすらできていない。その能力に欠けるのではあるまいか。
否、合理的な説明責任を果たせないのならば、ますます利権実現が目的であった、という疑惑が濃厚になってくる。利権のため“国民の安全・安心”はどうなっても良い、そんな政権に支持率が30%もあるというのは信じがたい事実だ。

先週は、株主総会の1週間だった。私も4つの株主総会に参加した。中には、わざわざ早朝から広島へ“日帰り出張”もした。総会への実際の参加者数はいずれもコロナ禍の中、通常時の三分の一程度ではなかったろうか。
もっとも4つの内の一つはネットでの総会だった。それは、ソフトバンクGの総会だった。画面には孫氏だけが大写しで登場して、全てを説明するといういつものスタイルで、上記の政権・政府とは対照的に納得性の高いものだという感想を抱く。
株主質問に対しては、“自社株買い以外で株価を上げることができないとの株主からの指摘を受け、「大概にしてほしい。株価は後からついてくる」と反論し、「少し長い目で見ていただきたい」と述べた。”と、ニコニコしつつも半ば怒り気味の表情が読み取れた。
“また、マネジメント・バイアウト(MBO)の可能性について問われると、「いろいろなことがあり得るが、これはコメントすべきではない」と見解の表明を控えた。”これには、非常に緊張した表情で答えていたので、図星の可能性も否定できないのであろうか。
“ソフトバンクGは昨年3月以降、総額2兆5000億円に及ぶ自社株買いを実施し、今年5月に終了。株価はこの間、一時3000円を割り込む安値圏から大きく反発し、1万円の大台を回復する場面があった。一方、(自社株買いを終了した)5月以降は下落傾向となっており、今週21日には一時7461円と年初来安値を更新した。”
私はこの5月以降の下落傾向はまだ継続すると見ている。それは株主質問にあったように、大規模な自社株買いが一旦終了しているからだ。いわば、“大規模な自社株買いで株価を吊り上げた”側面が否めないからだ。このところ先週、7461円を底に上昇基調にあるかのように見えるが、この戻りは出来高から見ると力強さはなく、昨年末の1カ月強の8千円前後でのもみ合いの影響の解消が認められると読んでいる。今後、じわじわと6千円程度までは落ちるというのが私の予想だ。実は、この総会で孫氏が株価を上げるための奇手奇策を公表するのではないかと警戒したが、そのような発表はなかったので、そうした点での失望が市場には浸透する可能性は大きい。いわば“大規模な自社株買い”で自然な株価形成を妨げた影響が解消されるのを待つべきだろうと考えている。

東芝の株主総会では、“永山取締役会議長ら2人の再任 反対多数で否決”された由。先週でも指摘した東芝問題、正しく“病膏肓に入る”の観あり。株主総会で、これは実は、経産省の高級官僚の劣化に問題があるのだろうか。現にそういう主張がネット上にはある。“自身が関与したお粗末な政策設計のせいで滑稽極まる「悪のヒーロー」役を演じることになってしまった経済産業省の問題である。”
そうかと思えば、“その経産省若手キャリア官僚がコロナ支援金詐取”事件が報じられた。
挙句の果てに、国会内の女性トイレ盗撮を経産省職員がやった疑いがあるという。経産省、一体何をやっているのか。
政策運営上の問題はもとより、道義的社会常識の劣化、こんな連中に日本の産業政策を任せられるのだろうか。これに加えて、そのトップの御大臣様もアホではいかんともしがたいのではないだろうか。

“田中角栄研究”で脚光を浴びたジャーナリストで評論家の立花隆氏が亡くなっていたという。昔の日本は、この記事一本で内閣が吹っ飛んだ。今や、怪しい事件が3つや4つあっても権力の周辺の“忖度”で政権は簡単には崩れなくなった。日本の民意は無視され続け、賢所の御懸念も無視し通そうとしている。これが日本の政治実態なのだ。香港どころの話ではない。日本には“シラケ鳥”が繁殖し、日本の民主主義は既に死んだのであろうか。

ところで、話は変わるが週末NHKテレビ“ブラタモリ”を見ていて、関西人としては聞き捨て?見捨てならないテロップがわざわざ流されたので、反発したい。それは“日本の物資の集積地が江戸であった”という意味のテロップと文言の放送だった。これは完璧に誤っている。江戸期に日本経済の動脈は北前船に象徴される北海道から日本海側を回って瀬戸内海を経由して大坂に至る航路であったという事実に反する表現であった。江戸はこの当時の経済大動脈から外れた場所にあったのだ。江戸期の日本の中心は上方だった。このため大坂には各藩の蔵屋敷があり、米相場は堂島にあった。ここの米相場で発明されたのが、今も株式で用いられている罫線チャートだ。そしてこの堂島で世界で最初の先物市場が開催された。最近、聞いた話だが日本の経済調査団が米シカゴの先物市場関係者に会って、先物について質問したところ、“大坂が発祥ではないか?”と言って逆に笑われたとのこと!
紀伊國屋文左衛門は日本の経済の中心だった大坂と江戸の間を取り持って儲けた商人である。最近はNHKのプロヂューサーも教養が無くなってきたのであろうか。マニアックなタモリを起用しても間違った内容ではマニアックにはならない!


さて、今回は中野信子・著“ペルソナ―脳に潜む闇”を読んだので、紹介したい。
実をいうと、まぁここらで中野信子氏の本でも読んで脳科学の一端にも触れようかとの思いで、たまたま書店でみかけたこの本を表題をそのまま鵜呑みにして、同氏の本はよく売れてはいるが、この本が特に良く売れたかのような評価があったような気もしていたので、思わず買ってしまったのだ。
この本の表題の“ペルソナ”は英語のパーソナリティ(personality)の語源であることは知っていたので、“人格や個性に潜む闇”の脳科学的解説だろうと誤解したのだ。“ペルソナ”という名詞は時々、商品名にも使われることがあり、マツダの車にも採用されるような言葉だ。“もともとはギリシア悲劇などで使用された仮面を意味していたのが,しだいに変化して俳優の演じる役割を意味するようになり,ついにははっきりした個人的特質,およびそれをもった人の意になった。”と言うようなことは知っていた。
ところが、実際に読んでみ始めると、“なんじゃ、こりゃぁ”との思いが大きくなり、勘違いを思い知ることとなった。

“はじめに”では次のような文章が出てくる。
“脳は一貫していることの方がおかしいのだ。自然ではないから、わざわざ一貫させようとして、外野が口を出したり、内省的に自分を批判したりもするのである。一貫させるのは、端的に言えば、コミュニティから受けとることのできる恩恵を最大化するためという目的からにすぎない。
私たちは、複数の側面を内包しながら、これらを使い分けて生きている。私たちの世代はこれを自覚的にできる人が旧世代よりも増えただろうが、人間というのは世代を問わず、そういうふうにできている。仕様だといってもよいだろう。
わたしのペルソナ(他者に対峙するときに現れる自己の外的側面)は、わたしがそう演じている役である、といったら言い過ぎだと感じられるだろうか? あなたが、わたしだと思っているものは、わたしではない。一時的に、そういう側面を見て取ってもらっているだけのことである。」
わたしは存在しない。これは悲しいことではない。透明な存在であることを嘆く必要はない。だからこそ、来るべき変化に対応することができるからだ。もう変化のときは来ている。失われた世代として、透明に生きてきたからこそ、どんな姿にもなることができる。”

何だか様子が変だ、第三者的解説的な表現ではないなぁ?とは思ったが、私はまだ勘違いに気付かない。
その間、私も良く見ているテレビ番組“ホンマでっか!?TV”のエピソードが語られて、私はまた目くらましされる。そこでの司会者やレギュラー出演者の話術に“テレビは(会話の)トレーニングステーションだ”と言って、そうなんだ、脳科学者を驚嘆させる話術がそこにあったのだと、驚かされた次第だ。

読み進むにしたがって次第にようやく分かったのは、“団塊ジュニア”と自らを規定し、“普通の家庭の、お勉強のできるお嬢さんが、親との葛藤、少女時代の孤独、男社会の壁・・・に悩みながら、「普通に東大に入って、そして就職して結婚する」”、そんな人生の精神的成長を思春期から青年期にかけてを綴ったものだったのだ。いわば著者自身の“仮面の告白”であり、その仮面がペルソナだったのだ。

さらに東大に行って一流の教育を“普通に”受けて、フランスの一流の研究所に留学して脳科学者になる。それが“普通の女性”と言えるだろうか。だが彼女にとってみれば、自身が“普通の女性”との認識から、それが普通の生き方だと思っているところが、面白い。というか、不思議な印象を受ける。

Wikipediaによれば、“ペルソナ(persona)とは、カール・グスタフ・ユングの概念。ペルソナという言葉は、元来、(ギリシアの)古典劇において役者が用いた仮面のことであるが、ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだ。”
“ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。逆に内界に対する側面は男性の女性的側面をアニマ、女性の男性的側面をアニムスと名付けた。
男性の場合にはペルソナは男らしさで表現される。しかし内的心象はこれとは対照的に女性的である場合があり、これがアニマである。逆に女性の場合ペルソナは女性的な側面で表現される。しかし、その場合逆に内的心象は男性である場合があり、これがアニムスである。ペルソナは夢の中では人格化されず、一般に衣装などの自分の外的側面で表されることが多い。”
まぁ、じじいのオッサンには関係ねぇエピソード!としたいのは事実なのだが、娘を持つ身には、一概にそうとも言いきれねぇ。だが我が娘、“お勉強嫌い”で、あまりにも違い過ぎる。自分と重ねるのか、娘と重ねるのか、迷っている内にどんどん進展する、終始そんな本だった。それに彼女の文章、途切れることなく論理がつながって進んでいく。頭の悪い私には、最初の議論は何だったのか忘れてしまっている。ということで、全体を十分に理解するのは、非常にシンドイ。

それでも、この本の中ほどに次のような記述があった。私には、妙に説得的で心を打つものであった。
“さなぎの中身がどうなっているのか、知っている人は少ないかもしれない。あの不思議な軽さを持った、硬質な殻の中で、幼虫だったころの身体はドロドロに溶け、細胞から組み替えられていくような劇的な変化が起きている。一部の神経、呼吸器系以外の組織は、かつての面影をひとかけらも残さず、跡形もなくクリーム状になっている。さなぎが、振動などの外的なショックであっけなく死んでしまうのは、このためだ。
このころの私は、すこしでも振動を与えたら死んでしまう。さなぎのようであったかもしれないと思う。どんな形になるのかもわからず、自分を組み替え、多くのことを感じすぎ、上手に吐き出すこともできず、苦しかった。
だが、これほどの世界の手ざわりを敏感に多様にとらえることができた時代は、貴重だった、とも思うのだ。きっとこの先、あんな時代はもう二度とやってこないのだろう。ただ、もう一度やってきても、それに耐えられるだけの体力は残っていないだろうとも思うけれど。”

今から思えば、私の“さなぎ”時代は、中学1年の時であった。それは“孤独感”を伴ってやって来るように思う。
この時期、私の身辺は環境が激変。小学校最終学年の年始1月に、田舎の小学校から本来の校区外・大阪市内の優秀校へ転入し、年度替わりには中学へ進級することとなった。そんな時、体育の水泳授業で耳管から中耳に水が入り中耳炎となり、それがきっかけで何度も中耳炎に罹るようになり、慢性中耳カタルとなってしまった。
それがために、病院通いの毎日。午後の診療がない大病院だったので、午前中の前半の授業は全く受けられない状態が2学期中続いた。ある日、いつも通り学校へやっとの思いで到着し教室へ行って見ると、仲間達が全くおらず、静かな状態。1年生全体がお休み?慌てて職員室へ行って見ると、ある先生が“今日は1年生は急遽校外学習に出かけた。今から一人で追いかけても出会うことは難しいだろう。だから君は家に帰って良い。”と言われて、すごすご悲しい思いで一人帰宅したことがあった。どこかの植物園に見学に行ったようだった。後で、それが理科の試験問題に出されたが、私は何も知らないので白紙の答案用紙を出さざるを得ず、情けない思いをしたことがあった。このままでは、身体的理由で“お勉強”できないまま終わってしまう、という恐怖感や、自分だけが皆とは違う身体的欠陥があるという劣等感、孤独感にさいなまれ、ずいぶんと落ち込んで、どうしてこんなに辛いのか、と思ったものだった。
やがて、その中学からさらに遠くに耳鼻科の有名な医者が居るとの紹介があり、そこは午後の診療もあった(今から思えば当然だが)ので、学校の授業を終えてからの毎日の通院が可能となった。その医者が言うには、蓄膿症なのでその膿が耳管を通じて中耳に入り中耳炎となる、と言い出して、中1の終わりの春休みに蓄膿症の手術を受けた。これがまた辛かったが、確かに手術後は中耳炎を起こすことはほぼ無くなっていった。しかし通院から帰宅に長時間を要し、家に帰るとほぼ夕方であり、疲労も大きかった。しかし、授業は満足に受けられるようになり、学業成績も好転し始めて、ようやく自信を取り戻した次第だった。
こうして、絶望の淵から立ち直り、それにともなって精神的にも結構強くなった気がする。その後、高校受験には失敗せず無事志望校へ進学でき、思春期の危機はその後起きることはなかった。だがその後の大学受験には見事に失敗し、一浪することにしたが、精神的には安定していた。自らの“お勉強不足”が原因であり、このまま進学しては問題との自覚はあった。但し、二浪は意味がないとは思っていて決定的に緩むことなく、一浪で思う大学には何とか入れた。
こうして文章にすると、いかにも大したことのない話のようだが、13~14歳当時の危機は当人にとっては大変なことだったのだ。頭の悪い私は、活字が苦手で、救いを文学に求めることはなかった。だからか、“悩み”そのものに深みがなかったのだろう。

思春期、青年期には孤独感に襲われることもある。しかし、私は青年期以降で、孤独感にさいなまれることはなかった。むしろ、人は決定的には孤独なものだ、一人で生まれ、一人で死んで行くとの諦めをズーっと持っている。だが、それで孤独を恐怖に思うことはない。
著者・中野氏も同じように孤独感に襲われたようだ。それで頭のいい人の集まりメンサに入ったという。“メンサとは高い知能指数(IQ)を持つ人々が交流する非営利団体で、全世界に13万人、日本でも4700人ほどの会員がいると言われている。”具体的には日本では大阪の漫才・ロザンの宇治原史規氏や脳科学者の茂木健一郎氏が会員のようだ。
“どんな人がいるのか最初は楽しみで何度か会合にも参加した。が、そのうち面倒になって行かなくなってしまった。知的な話をするというなら東大時代の知己を掘り起こしていくほうが良いことに、次第に気付いてしまったからだ。彼らに比べると、パズルを解くのが得意なだけ、というメンサ会員たちも少なからずいて、いささか見劣りがしたし、打てば響く答えが返ってくるという人はいないというわけではなかったけれど、想像していたよりもずっと少なかったように思う。”
と言っている。そんなものなんだ。まぁ、かつて付き合って気の合った人と付き合うのが一番なのだろう。

“おわりに”では、次のような文章が結論であるかのように登場する。人は、“モザイク状の多面体のようなもの”であるとの指摘だ。“光の当て方によって人格はさまざまな色に変化し、見え方も形も変わっていく。部分の組み合わせ方の妙で、意外な側面が見え隠れするとき、それとの出会いが新しい楽しみにもなる。”
確かに、その通りであろう。だが、全く光が当てられなかった部分は、他人に知られることもなく、その人の人生が終われば、そのまま闇の世界に帰って行くのであろう。大勢の普通の人にはこうした光が当てられることもなく終わってしまうのだ。ただ、それが光を当てるべきものでも何でもないものもある。

先の文章に続けて、著者は名前や外見等から“(だからこそステレオタイプの)~らしく”生きることに囚われない生き方について、“一般によく受ける物語の中には、こうしたステレオタイプからの解放感を演出して成功しているものが結構ある。”だからといって、受け狙いも所詮売れるとは限らない。それが多くの人々に“何らかの形で役に立つ”かどうかなのだと指摘している。“(自分語りなど、)気を惹くために公衆の面前を裸で歩くようなものだ。”
ならば、何のためにこの本を書いたのかの種明かし。“中野信子”を知りたいと、興味本位で迫ってくる人に、いちいち相手をしてはいられない。本を書いておけば“私に会いたい、という人には「これを買って読め」で済む”からだという。そんなことのための本だったのだ。まぁ、ヒマ潰しというよりは有効な時間であったか。

と、諦めた途端に、一転して“過去の自分を語ることは、・・・現在の自分を語ることと同じことなのだ。”と言っている。それは“過去に存在した無数の事実の集積で、人間はできている”からなのだ。そして、“己の闇を見つめることは、人間にとって、認知のワクチン、心のワクチンのようなものだ”と断言する。続けて、“これは私の物語のようであって、そうではない。本来存在しないわたしが反射する読み手の皆さんの物語でもある。”
そう、だから筆者も思春期について思い出したのであろう。

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