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半夏生庭園鑑賞―建仁寺両足院にて
先々週、京都で午後からセミナー受講に出かけることがあり、折角の京都で何か催しが無いか、ネットで探してみた。この時期、あまりイベントもなく、観光にはふさわしくなさそうだったが、“半夏生(ハンゲショウ)の庭園特別公開”というのが見つかった。建仁寺境内での催しのようなので、午後の予定には十分間に合う。建仁寺は2~3年前に拝観に訪れたことがあり、阪急・河原町からは結構近い。ネットには次のようにあった。“ハンゲショウ”とは何か良く知らないので、興味もあった。
“両足院は建仁寺第35世龍山徳見禅師が開創の建仁寺の塔頭(注1)寺院。
通常は拝観できない庭園を特別公開する。(2016/6/6(月)~7/6(水) 10:00~16:30)庭園は白砂と苔に青松が美しい唐門前庭、枯山水庭園の方丈前庭、そして京都府指定名勝庭園の池泉廻遊式庭園からなり、初夏の頃には半夏生(注2)が池辺を彩る。”
注1塔頭:禅宗の本寺の境内にある小寺。祖師の死後、師徳を慕って弟子が塔の頭(ほとり)に坊(僧の住居)を構えたことに因る。
注2半夏生(ハンゲショウ):ドクダミ科の多年草。水辺に生え,臭気がある。茎は高さ約80センチメートル。葉は長卵形。夏,茎頂に花穂をつけ,白色の小花を密生する。花穂のすぐ下の葉は下半部が白色となり目立つ。片白草。 [季] 夏。ドクダミ科の多年草。水辺に生え,臭気がある。茎は高さ約80センチメートル。葉は長卵形。夏,茎頂に花穂をつけ,白色の小花を密生する。花穂のすぐ下の葉は下半部が白色となり目立つ。片白草。 [季] 夏。。/七十二候の1つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。(2016年は7月1日)/この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多い。地域によっては「半夏水」(はんげみず)とも言う。
例によって、午前9時頃、阪急電車で神戸を離れて京都に向かう。少々雨模様だったが、本降りではなかった。
終点・河原町で下車し、四条通を東進。鴨川を渡り、南座の前を通って、次の辻を右折、南下する。しばらくすると左手に建仁寺の門に出る。
以前、来たときは本堂拝観したが、その玄関に俵屋宗達の風神雷神図屏風が置いてあり、撮影不可とはなっておらず、拝観客皆がカメラ撮影していて、驚いたことがある。しかし、この絵は実は細密複製品のようで、本物は京都国立博物館に寄贈したとある。
建仁寺のHPには次のように紹介されている。
“建仁寺は建仁2年(1202年)将軍・源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称する。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなる。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となる。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備される。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となる。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたる。”
Wikipediaの紹介によれば、上記の重複を覗くと、次のようである。
“本尊は釈迦如来。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。”
説明を読めば、さすが、屈指の古刹という印象。関西にはこういった古刹が多数あり、日帰りで拝観できる幸いを感じる。今回は、時間の関係もあり、前回訪れた本坊、方丈、法堂へは赴かず、ひたすら半夏生の鑑賞を主眼とする。一目散に両足院を目指すとは言うものの、伽藍の配置が直ぐには分からず、展示の看板が無いかキョロキョロしつつ境内を突き進む。
大勢ではないが三々五々人々が、吸い込まれて行く建物を東側に発見。近付くと、“半夏生の庭園特別公開”の看板があり、間違いないと分かる。
一段と高くなった敷地の門を入る。左手のお堂は、毘沙門天を祀っているという。毘沙門天は修行者を守護する武神だが、戦国最強の上杉謙信が尊崇し、戦いの時“毘の一字旗”を掲げたので有名。同じく仏教の武神・摩利支天との関係までは良く知らない。後でもらったパンフレットによれば、鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏だとされる、という。また、黒田官兵衛の長男、長政の寄贈した毘沙門天像も安置されている。それは長政が関ヶ原の戦いに内兜に収めて奮戦したもので、黒田家で尊崇したが、明治初期に寄進されたという。

入口で拝観料を払って、館内・庭園の写真撮影について可否を訊ねると、“庭は撮り放題。今が満開です。”との快答。本堂祭壇前には開祖栄西の尊像が掲げられ、内部には見えないが阿弥陀如来が祀られているという。そこで両足院の由緒の案内・解説があった。
建仁寺の開祖・栄西は日本に茶をもたらし、喫茶の習慣を根付かせ、それがわびさびとつながり茶道へと展開して行くことになるのだが、その茶道には欠かせない和菓子・饅頭がある。その饅頭の始まりが両足院と関係があるとのことだった。パンフレットを確認すると、“龍山徳見(両足院の開祖で下総出身。俗姓は千葉氏)の弟子のひとりである中国の僧林浄因が、龍山和尚の帰国とともに来日し、両足院にて「饅頭」の文化を日本に伝えたことを由来としている。”と、あった。
小倉餡は別の発祥があった(平安京が出来て間もなくの820年頃)とかつて落柿舎の付近の立札にあったので、餡子の発展形の饅頭が登場するのは結構遅い印象だ。この饅頭伝来後、約250年して秀吉の茶会で、羊羹が登場することになる。繰り返し、京都を訪れていると、このような雑学整理が自ずと出来るようになるのは面白い。
閑話休題。本堂の廻縁を南に出て、東にいたると茶室を遠望しつつ手前に池があり、その周囲を白い花が鮮やかに咲いている。これがどうやら半夏生のようだ。北側へ回り込むと、さらに展望は開け、左手に別の建物が見える。これが書院か。観光客は皆、この内部に入って庭を鑑賞するために、ゆっくりと休憩している。私もそのようにして、一旦中央に座り込んだ。また半夏生は良く見ると、花の下の葉が白くなっているのが分かる。この白い葉は、開花時期が終わると間もなく元に戻るものらしい。庭には下りないようにと注意書きがあったが、庭を歩いている人は結構いる。どうやら本堂で庭に下りる箇所があったが、そこかららしい、と気付く。
そこでさらに順路を進むと、最初に入ったところに戻ることになる。そこからもう一度本堂に戻って、庭に下りようとすると、別途料金が請求されることになると注意された。茶室での喫茶と菓子代だとのこと。間もなく昼食の時間で、菓子は余計で、ここで無駄はしたくない、との思いもあり、断念。後で思えば、それくらい構うことではなかったかと後悔。

本堂や書院には、別途、“伊藤若冲へのオマージュ”と称して、長谷川喜久氏の日本画が数点展示されていた。今年生誕300年の伊藤若冲は、今人気になっているが、本寺では若冲の“雪梅雄鶏図”を所蔵。その関連だろう。
しかし、残念だが本堂にあった長谷川氏の“雲竜図”は竜の輪郭が良く分からなかった。私の眼が変なのか。作品としては気合が入ったものなのだろうが、その気合の割には不出来なように感じてしまった。一旦、そういう先入観を持ってしまうと、後はあら捜しになってしまうもので、鑑賞にはならない。巨匠になるには、一作と言えども気を抜いてはならないモノだと強く思った。否、天才に駄作はないものかも知れない。
その日の午後のセミナーは、実はBrexit前のマーケット予想だったが、いずれにせよマーケットは既に織り込み済み、という見方だった。それは、どうも全体の雰囲気では“英のEU離脱無し”での織り込み済みが現実であって、“離脱”でのものではない要素が強かったのではないかと思われる。しかし、マーケットも冷静になって来ると、英国自身では既に“離脱”前の水準を上回っている。したがって、日経平均が元に戻らないのは、それが日本の現実と考えるべきであろう。何せ、円ドルは現状が購買力平価からみても妥当と思える水準だからだ。

“両足院は建仁寺第35世龍山徳見禅師が開創の建仁寺の塔頭(注1)寺院。
通常は拝観できない庭園を特別公開する。(2016/6/6(月)~7/6(水) 10:00~16:30)庭園は白砂と苔に青松が美しい唐門前庭、枯山水庭園の方丈前庭、そして京都府指定名勝庭園の池泉廻遊式庭園からなり、初夏の頃には半夏生(注2)が池辺を彩る。”
注1塔頭:禅宗の本寺の境内にある小寺。祖師の死後、師徳を慕って弟子が塔の頭(ほとり)に坊(僧の住居)を構えたことに因る。
注2半夏生(ハンゲショウ):ドクダミ科の多年草。水辺に生え,臭気がある。茎は高さ約80センチメートル。葉は長卵形。夏,茎頂に花穂をつけ,白色の小花を密生する。花穂のすぐ下の葉は下半部が白色となり目立つ。片白草。 [季] 夏。ドクダミ科の多年草。水辺に生え,臭気がある。茎は高さ約80センチメートル。葉は長卵形。夏,茎頂に花穂をつけ,白色の小花を密生する。花穂のすぐ下の葉は下半部が白色となり目立つ。片白草。 [季] 夏。。/七十二候の1つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。(2016年は7月1日)/この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多い。地域によっては「半夏水」(はんげみず)とも言う。
例によって、午前9時頃、阪急電車で神戸を離れて京都に向かう。少々雨模様だったが、本降りではなかった。
終点・河原町で下車し、四条通を東進。鴨川を渡り、南座の前を通って、次の辻を右折、南下する。しばらくすると左手に建仁寺の門に出る。
以前、来たときは本堂拝観したが、その玄関に俵屋宗達の風神雷神図屏風が置いてあり、撮影不可とはなっておらず、拝観客皆がカメラ撮影していて、驚いたことがある。しかし、この絵は実は細密複製品のようで、本物は京都国立博物館に寄贈したとある。
建仁寺のHPには次のように紹介されている。
“建仁寺は建仁2年(1202年)将軍・源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称する。創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなる。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となる。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備される。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となる。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたる。”
Wikipediaの紹介によれば、上記の重複を覗くと、次のようである。
“本尊は釈迦如来。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。”
説明を読めば、さすが、屈指の古刹という印象。関西にはこういった古刹が多数あり、日帰りで拝観できる幸いを感じる。今回は、時間の関係もあり、前回訪れた本坊、方丈、法堂へは赴かず、ひたすら半夏生の鑑賞を主眼とする。一目散に両足院を目指すとは言うものの、伽藍の配置が直ぐには分からず、展示の看板が無いかキョロキョロしつつ境内を突き進む。
大勢ではないが三々五々人々が、吸い込まれて行く建物を東側に発見。近付くと、“半夏生の庭園特別公開”の看板があり、間違いないと分かる。
一段と高くなった敷地の門を入る。左手のお堂は、毘沙門天を祀っているという。毘沙門天は修行者を守護する武神だが、戦国最強の上杉謙信が尊崇し、戦いの時“毘の一字旗”を掲げたので有名。同じく仏教の武神・摩利支天との関係までは良く知らない。後でもらったパンフレットによれば、鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏だとされる、という。また、黒田官兵衛の長男、長政の寄贈した毘沙門天像も安置されている。それは長政が関ヶ原の戦いに内兜に収めて奮戦したもので、黒田家で尊崇したが、明治初期に寄進されたという。

入口で拝観料を払って、館内・庭園の写真撮影について可否を訊ねると、“庭は撮り放題。今が満開です。”との快答。本堂祭壇前には開祖栄西の尊像が掲げられ、内部には見えないが阿弥陀如来が祀られているという。そこで両足院の由緒の案内・解説があった。
建仁寺の開祖・栄西は日本に茶をもたらし、喫茶の習慣を根付かせ、それがわびさびとつながり茶道へと展開して行くことになるのだが、その茶道には欠かせない和菓子・饅頭がある。その饅頭の始まりが両足院と関係があるとのことだった。パンフレットを確認すると、“龍山徳見(両足院の開祖で下総出身。俗姓は千葉氏)の弟子のひとりである中国の僧林浄因が、龍山和尚の帰国とともに来日し、両足院にて「饅頭」の文化を日本に伝えたことを由来としている。”と、あった。
小倉餡は別の発祥があった(平安京が出来て間もなくの820年頃)とかつて落柿舎の付近の立札にあったので、餡子の発展形の饅頭が登場するのは結構遅い印象だ。この饅頭伝来後、約250年して秀吉の茶会で、羊羹が登場することになる。繰り返し、京都を訪れていると、このような雑学整理が自ずと出来るようになるのは面白い。
閑話休題。本堂の廻縁を南に出て、東にいたると茶室を遠望しつつ手前に池があり、その周囲を白い花が鮮やかに咲いている。これがどうやら半夏生のようだ。北側へ回り込むと、さらに展望は開け、左手に別の建物が見える。これが書院か。観光客は皆、この内部に入って庭を鑑賞するために、ゆっくりと休憩している。私もそのようにして、一旦中央に座り込んだ。また半夏生は良く見ると、花の下の葉が白くなっているのが分かる。この白い葉は、開花時期が終わると間もなく元に戻るものらしい。庭には下りないようにと注意書きがあったが、庭を歩いている人は結構いる。どうやら本堂で庭に下りる箇所があったが、そこかららしい、と気付く。
そこでさらに順路を進むと、最初に入ったところに戻ることになる。そこからもう一度本堂に戻って、庭に下りようとすると、別途料金が請求されることになると注意された。茶室での喫茶と菓子代だとのこと。間もなく昼食の時間で、菓子は余計で、ここで無駄はしたくない、との思いもあり、断念。後で思えば、それくらい構うことではなかったかと後悔。

本堂や書院には、別途、“伊藤若冲へのオマージュ”と称して、長谷川喜久氏の日本画が数点展示されていた。今年生誕300年の伊藤若冲は、今人気になっているが、本寺では若冲の“雪梅雄鶏図”を所蔵。その関連だろう。
しかし、残念だが本堂にあった長谷川氏の“雲竜図”は竜の輪郭が良く分からなかった。私の眼が変なのか。作品としては気合が入ったものなのだろうが、その気合の割には不出来なように感じてしまった。一旦、そういう先入観を持ってしまうと、後はあら捜しになってしまうもので、鑑賞にはならない。巨匠になるには、一作と言えども気を抜いてはならないモノだと強く思った。否、天才に駄作はないものかも知れない。
その日の午後のセミナーは、実はBrexit前のマーケット予想だったが、いずれにせよマーケットは既に織り込み済み、という見方だった。それは、どうも全体の雰囲気では“英のEU離脱無し”での織り込み済みが現実であって、“離脱”でのものではない要素が強かったのではないかと思われる。しかし、マーケットも冷静になって来ると、英国自身では既に“離脱”前の水準を上回っている。したがって、日経平均が元に戻らないのは、それが日本の現実と考えるべきであろう。何せ、円ドルは現状が購買力平価からみても妥当と思える水準だからだ。

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