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鈴木邦男・著“憲法が危ない!”を読んで

私が最も懸念する北朝鮮情勢は、一時非常に緊迫したが、その原因となった空母・カール・ヴィンソンの所在が、当初の予定通りインドネシア近海にあった、ということや、今にも北自身が核実験を行うのではないかと言われていたのが実施されなかったため、一時的小康状態になっている。しかし、25,6日にはカール・ヴィンソンも朝鮮近海に達するとされ、北の豊渓里の核実験場の準備も完了しているとされるため、依然として緊張状態にあるのは間違いない。先週話題にした潜水艦について言えば、米空母の露払い役である米原潜は多数既に朝鮮近海の配置に就いているのも間違いない。であれば、中露日の潜水艦も集結して密かな鍔迫り合いを演じているのであろう。
一方、“北朝鮮の朝鮮中央通信は21日に配信した論評で「われわれの周辺国」が経済制裁を行い「公開的に脅している」として名指しは避けつつ中国を批判し、「彼らが誰かに踊らされ経済制裁に執着するなら、われわれとの関係に及ぼす破局的結果も覚悟すべきだ」と警告した。”という北が中国を批判した注目すべき報道もある。北のミサイルの照準は北京にも当てられている可能性はある。余計なことだが、中国の防空体制は完ぺきなのだろうか。
さらには、北に核兵器の原料を提供しているのは、プーチンだとする見解を先週末テレビで見た。これにより、今の緊張の決定的な鍵を握るのはロシアである、というのだ。なるほど、北がいきなり実験できるほどの核物質を入手できた謎がこれで解けた気がする。ロシアはこうしたことで、極東での影響力を誇ることになるのだろうか。日本はそのはざまで米国の蔭にあって右往左往するだけだろうか。
街の様子は、こうした国際情勢を反映していないことに、若干違和感を感じるのは私だけだろうか。先日、東急ハンズの防災グッズ売り場に行ったが規模は縮小され、化学兵器対応のガス・マスク等は全くなかったのには、少々驚きと落胆を感じた。せめて、これからサリンやVXガスを加水分解するための水を持ち歩くようにはするつもりだ。

右翼の大物とされる鈴木邦夫氏が、“憲法が危ない!”という本を出したのを、書店店頭で平積みされている本の山の中に見つけた。何を御冗談!いい加減にして欲しい!いや、憲法といってもまさか今の日本の憲法ではあるまい、と思ってその本を手に取って、帯をよく読んでみた。すると、“改憲運動に半生を捧げた理論派右翼は、なぜ今、異議を申し立てるのか?”とあり、そこに“自由のない自主憲法より自由のある押しつけ憲法のほうがまだいい”ともあった。やっぱり、今の日本の憲法のことを指して“危ない!”と言っていることが分かった。“殿、御乱心”なのだ。わざわざ本を出すのだから、その御乱心の根拠が知りたい、と思った瞬間、裏の帯には追い打ちをかけるように、“熱心な改憲派の私が、なぜ、疑問を持つようになったのか。なぜ、今の「憲法改正」に危うさを感じるのか。これは実際に、「憲法改正」運動を命がけでやってきたから分かったことだ。”とも書いている。冗談ではなく、この本に何故、今の日本の“憲法が危ない!”と感じるようになったのかの根拠が書かれているのだということだ、と理解し、思わずその場で買うこととした。

元々、鈴木氏はテレビに出演していても決して激高する場面を見たこともなく、何があっても冷静に静かに語る印象がある。いわゆる右翼としては話せる人と見えたものだった。朴訥とした話し方に、東北人の誠実さが感じられた。そういう人の本なので内容は信頼できそう、と思えたのだった。
読んでみて、分かりやすい語り口だが、何だかものたりない印象はある。しかし、単に抽象的な論理で飛躍するより、考えの違う人にも会い、語り合いながら考えを深めていく姿勢に大いに好感を持てる。どうもそのことが、返って言葉という抽象性を持ったもので構成される本にした場合、少々分かりにくくなっているような気もする。テレビ等の映像にしてフォローした方が分かりやすいのかもしれない等と、余計なことを考えながら読み進んだ。

鈴木氏はまず“愛国心”を語ることの怪しさを指摘する。にもかかわらず、改正憲法にそれを盛り込もうとする動きがあることに警戒感を示して“憲法を改正する上で一番よくないのが、愛国心を盛り込むことだ。”と指摘している。
愛国心は信仰心に似ていて、熱心なあまり独善におちいり他者にそれを強要し、拒否する人の存在自体を否定してしまうことになる、というのだ。そうした性癖のためか、“愛国者を自称している人たちは、往々にして家庭で嫌われ、学校や地域でも嫌われ、「でも、自分には愛すべき国家がある」と国家にしがみついている人たちである。「愛国心はならず者の最後の避難場所である」と言った人がいるが、愛国心が閉鎖的な状況から非難する最後の砦、心の支えになってしまっているのだ。”という。こうした実態は長年愛国運動にたずさわってきたから、よく知っているとも言っている。
“愛国心というのは国民それぞれの心の中の問題なので、憲法に書くこと自体がおかしなことである。”と結論し、現政権がこうしたいかがわしいことを画策していると指摘している。
国旗国歌法について、その“法律を制定する際も、政府側は「絶対に国旗国歌を強制するものではない」と説明していたが、法律制定後は学校現場などで国旗国歌の強制が行われている。つまり、法律ができたら当然ながら、どんなものでもひとり歩きするわけだ。”とも指摘している。一歩譲って法制化しても、これくらいなら大したことあるまいという意識が将来に大きな禍根を残すことの危険を言っているのだ。私も時の政権の官房長官が苦笑しながら、“この法律で逮捕されるようなことは絶対にありません。”と言っていたことを、はっきり覚えている。にもかかわらず、こうした国旗国歌法によって正規の裁判を経て有罪となった人がいるのは事実だ。
憲法学者・小林節氏との会話でなぜ自民党案を批判するのか鈴木氏が聞いたら、“「国民が愛せるような国にするために努力するのが政治家の務めでしょう。それなのに、国民に『愛国心を持て』などと強要するのは本末転倒でおかしなことだ。今の政治家は思い上がっている。」/その説明を聞いて「なるほど」と、私も腑に落ちたのである。”
こんな主張する人が、“右翼”なのだろうか。私は、自分はリベラリストの端くれと認識しているつもりだったが、もしこれが正統派“右翼”というのなら、私も“右翼”なのだろうか、と思わざるを得ず、妙な気分に襲われてしまう。

“そもそも日本語の国家という言葉は、国に家を付けた熟語になっているが、こうした例はきわめて稀だと言われている。欧米の場合、国はステートとかネイションであって、家という字が入る余地がない。/・・・/それは、どこかで無意識のうちに「国家は家族の延長である」として国民を洗脳する国家特有のイデオロギーがあるのかもしれない。”
その家族を基本に国家を形成しようというのが右派の改憲勢力の主張だが、家族にもいろいろあり、子供をはぐくみ育成・指導・教育するはずの親にもいろいろ程度の悪い者もいる。それが一律の規制で様々な不幸を生む。それが封建社会だった。鈴木氏もそれには反対して“家族に対して期待を持ちすぎるのは止めたほうがいい。”と言っている。

むしろ鈴木氏は、憲法24条*2)を作ったGHQのスタッフだったペアテ・シロタ・ゴードン氏(女性)に何度も会って、考えを深めている。“ペアテさんは3人のチームのスタッフとして、人権条項を担当した。長い草案は削られて短くなったが、第14条*1)と第24条となっている。”という。このペアテ氏には1996年当時の日本社会党の招きに応じて来日した時に講演を聞きに行ったのが最初だという。
“日本国憲法は日本を弱体化するためにアメリカが作って日本に押し付けた憲法ではあったが、同時にアメリカでも実現していないような民主的な憲法や理想を持って原案作成に取り組んだスタッフも多数いたことがわかってきたのである。”と言いつつ、別のところで果たして今の日本の改憲派がこれほどの高い理想を持っているのか、というようなことも言っている。

*1)第十四条:すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 /  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。 /  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
*2)第二十四条:婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。/配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

改憲で焦点となる第9条については小林節氏の説をとっている。つまり、“国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する”に続けて“が、自国の独立と世界平和を維持するためにはこれを放棄しない。自衛軍として保持する。同じく国の交戦権はこれを放棄しない。”を追加する案を紹介している。また、ここに次の一文も追加するとしている。“すべて国民は、法律の定めるところにより、国防の義務を負う。但し、良心的兵役拒否の自由は、法律の定めるところにより、何人に対してもこれを保障する。”
その他様々な点において、小林氏の改憲案を紹介している。

また、天皇の憲法規定に対しては大前研一氏の考え、つまり“憲法第1条から第8条までのいわゆる天皇条項は要らない”を紹介している。その理屈は“天皇は今の憲法ができる以前から千年以上のながきにわたって皇位を継承してきたのであって、憲法を超えた存在である。日本人として当たり前の存在で誰も疑問に思わないのだから、憲法で規定しなくていい”ということだ。
また鈴木氏は次のようにも言っている。“私は、極端に言ったら、憲法だけでなく皇室典範もいらないと思っている。誰を次の天皇にするか、天皇は男系の男子に限るか、女性天皇を認めるかなど、皇室のルールについてはすべて皇室で決めてもらったらいいのだ。”
天皇に即位することへの忌避の自由についても、そういう人がいるのならば、それでいい、と言い、政府の側で皇室をコントロールしたいというのは、“思い上がりもいいところだ。それこそ、皇室に対して失礼極まりない態度だと思う。”と言い切っている。

国会での“改憲勢力”が多数を占める状況を好機ととらえた安倍氏は改憲を企図しているとし、これに対するかのように天皇が突如“譲位”の意向を示したことに対し、“田原総一朗氏は「安倍政権が憲法改正を断念するよう、この時期にメッセージを出したのではないか」と推測している。”と紹介している。“ところが、安倍首相はただちに特例法で対応することを打ち出しただけでなく、自民党総裁の任期延長もあっさり実現してしまった。これによって、生前退位*3)の議論が憲法改正の歯止めになるかもしれないという期待は、脆くも崩れ去ったのである。”とまで言及している。

*3)“退位”と言う言葉遣いは、私は間違っていると思っている。正確には“譲位”ではないか。

感想・解説が思わず長くなった。その他、この本は平易には書いてはいるが、読み返してみると結構奥深く幅広い。浅沼事件、風流夢譚事件とそれに関わる?三島事件にも言及している。逐一、私なりに感想を書いてはみたいが、そんな時間も余力も今はない。もっと時間をかけて考えてみたい部分も多数ある。著者・鈴木氏は 結構覚悟して書いたのだろう。それだけに本物だ。
最後にこの本で気懸りなのが、今の政府は広告宣伝会社をうまく使って、国民世論をコントロールしようとしている点を繰り返し述べて警戒している点だ。その広告宣伝会社も程度の悪いブラック企業ではないか。今の国民は“難しいことは・・・”と言って思考停止する傾向にあるように思われるが、自分の頭でもっと考えて欲しいのだ。野党が弱体でダメだというのも良いが、それならどうすれば良いのか、よく考えて欲しいと思うのだ。
教養は無いが政治的手練・手管はやたら上手い、その程度の悪い政治指導者に都合よく騙されて悲劇の歴史を繰り返して良いのか、よく考えて欲しい。この“右翼”の警世の書は私の思いと重なる貴重だと思った。果たして、こんなリベラルな鈴木氏を“右翼”との色分けで見て良いのだろうか。

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