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徳島城観光
先日、徳島出張の機会があり、会う予定の人のスケジュールが変わり、残念ながら?遊び時間が できてしまったので、JR徳島駅の北側にある徳島城を 観光することにしました。
駅裏ということで、線路沿いに 南東方向へ歩いて暫く行くと その線路を跨いで東側に出る 歩道橋があり、それを渡って、趣きのあるローカル線の駅風景を 眺め、歩いて 東側に出ると、そこは既に公園。憩いの市民が ちらほら。
当初、駅の近くとは聞いていたように思ったのですが、その気になって行って見ると 非常に間近であると思いました。
まず、東側に南北に走る道路へ出て鷲之門。恐らく、昔はここから登城したのではないかと思います。

さて この鷲之門をくぐって 石垣の間を抜けて城内に入って行きました。その入口にある看板に以下のようなことが 書かれていました。
徳島城は、天正13年(1585年)に阿波国(17万六千石)の領主となった蜂須賀家政(1558~1638)によって建設されました。・・・・・・
徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(現在、一部は徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。
藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(211.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができませんでした。
藩主の居城としれ徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治8年(1875年)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。

そこで 先ず ビックリしたのはJRの鉄道線が (寺島)川であったということです。ならば あの駅ビル、地震には意外に弱いかも知れない。それはともかく、徳島城は、川と 小山を巧く利用した築城であるという概観です。
そして 暫く歩くと 徳島城博物館に出ます。ここだけが有料で、表御殿庭園(千秋閣庭園)と一体。
まず 入口正面に立派な“童具足”がありました。それから、御殿周囲の建物を復元した精密な模型。あとは古文書。最後に 藩主が 釣をするために使用したという 立派な小船。これには“撮影禁止”の表示。

そこから お庭拝見。“昭和16年12月13日国指定名勝”とありました。藩主の“表書院の庭先にあったもので、上田主水正(宗箇)の作庭といわれ枯山水庭と築山泉水庭の二庭からなり池泉廻遊式と鑑賞式を兼ね備えた庭園です。” とあります。立派な岩石が多数使用されていて、城入口にある石垣と言い 大きな岩の扱いに よく慣れている印象です。植栽の一部に 蘇鉄があるのは さすがに南国。ただ、城山の東側にある池を どうして庭に利用しなかったのか 不思議です。

城域の東北部に移動。ここには バラ園があります。北側の助任川の岸辺に出る。川を右手、城山の崖を左手に見ながら、西側のテニスコートなどのスポーツ施設に出る。そこで城山への上り口を見つけたので登ることに決めました。
城山を 登りきると意外に広い平坦な土地。この本丸は戦時に立てこもる場所で そのために平時は御城山定番が勤務し、櫓には武具が 保管されていた模様。
このはるか西側には 眉山公園があり、城山との谷間に 現在の徳島市街地が有るといった 都市構造であると納得しました。ですが、“本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ”た とあり、どうやら城下町は昔は城の東側であった様子です。

天守が山頂の本丸に無く、一段下がった東二の丸に有ったようで、どうしてこうしたのか不思議に思いました。
城山を 下りながら、意外に険しい急勾配であるという感じなので、恐らく 築城当初は藩主も城山に起居したのが、平和な江戸期に 山の麓に「御殿」を「住まい」として造営したのではないか、と考えました。
全体として 自然の要害を巧く利用した 構造は山城でありながら、機能は平城といった印象でした。
駅裏ということで、線路沿いに 南東方向へ歩いて暫く行くと その線路を跨いで東側に出る 歩道橋があり、それを渡って、趣きのあるローカル線の駅風景を 眺め、歩いて 東側に出ると、そこは既に公園。憩いの市民が ちらほら。
当初、駅の近くとは聞いていたように思ったのですが、その気になって行って見ると 非常に間近であると思いました。
まず、東側に南北に走る道路へ出て鷲之門。恐らく、昔はここから登城したのではないかと思います。

さて この鷲之門をくぐって 石垣の間を抜けて城内に入って行きました。その入口にある看板に以下のようなことが 書かれていました。
徳島城は、天正13年(1585年)に阿波国(17万六千石)の領主となった蜂須賀家政(1558~1638)によって建設されました。・・・・・・
徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(現在、一部は徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。
藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(211.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることができませんでした。
藩主の居城としれ徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治8年(1875年)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。

そこで 先ず ビックリしたのはJRの鉄道線が (寺島)川であったということです。ならば あの駅ビル、地震には意外に弱いかも知れない。それはともかく、徳島城は、川と 小山を巧く利用した築城であるという概観です。
そして 暫く歩くと 徳島城博物館に出ます。ここだけが有料で、表御殿庭園(千秋閣庭園)と一体。
まず 入口正面に立派な“童具足”がありました。それから、御殿周囲の建物を復元した精密な模型。あとは古文書。最後に 藩主が 釣をするために使用したという 立派な小船。これには“撮影禁止”の表示。

そこから お庭拝見。“昭和16年12月13日国指定名勝”とありました。藩主の“表書院の庭先にあったもので、上田主水正(宗箇)の作庭といわれ枯山水庭と築山泉水庭の二庭からなり池泉廻遊式と鑑賞式を兼ね備えた庭園です。” とあります。立派な岩石が多数使用されていて、城入口にある石垣と言い 大きな岩の扱いに よく慣れている印象です。植栽の一部に 蘇鉄があるのは さすがに南国。ただ、城山の東側にある池を どうして庭に利用しなかったのか 不思議です。

城域の東北部に移動。ここには バラ園があります。北側の助任川の岸辺に出る。川を右手、城山の崖を左手に見ながら、西側のテニスコートなどのスポーツ施設に出る。そこで城山への上り口を見つけたので登ることに決めました。
城山を 登りきると意外に広い平坦な土地。この本丸は戦時に立てこもる場所で そのために平時は御城山定番が勤務し、櫓には武具が 保管されていた模様。
このはるか西側には 眉山公園があり、城山との谷間に 現在の徳島市街地が有るといった 都市構造であると納得しました。ですが、“本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ”た とあり、どうやら城下町は昔は城の東側であった様子です。

天守が山頂の本丸に無く、一段下がった東二の丸に有ったようで、どうしてこうしたのか不思議に思いました。
城山を 下りながら、意外に険しい急勾配であるという感じなので、恐らく 築城当初は藩主も城山に起居したのが、平和な江戸期に 山の麓に「御殿」を「住まい」として造営したのではないか、と考えました。
全体として 自然の要害を巧く利用した 構造は山城でありながら、機能は平城といった印象でした。
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