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弁天町の交通科学博物館訪問―少年の日のあこがれを想起しつつ

私は、この交通科学博物館の存在は昔から知ってはいたが、訪れたことはなかった。この4月に閉館すると知って、残念な思いと同時に行っておくべきだったとの後悔を残さないようにとの気持に駆られて出かけた。
私が子供時代に、ここに来ることがなかったのは、開館が1962年(昭和37年)1月21日だったからだ。しかし、それは本来は1961年(昭和36年)10月14日(鉄道記念日)の開館予定だったのが、その年の9月に第2室戸台風が来て工事が遅れて開館が延期されたためだったことを初めて知ったのだった。そう言えば、あの台風は物凄いもので、亡くなった人は身近には居なかったが、近所の家で屋根が飛んで無くなった家もあり、停電も数日続いた。もしも、その台風が来なければ当時 私は小学生として最終学齢であったので、学校から遠足や社会見学の一環で訪れた可能性はあったはずだ。ちょっとしたタイミングの差だったと、ふと一瞬 子供時代を思い出したのだった。
その直後私は中高生となり、成人後は興味が広がってしまい今さら鉄道オタクでもあるまい、となって今日に至った次第である。



当日午前中には、為さねばならないことがあり、ここに来たのは正午過ぎとなった。ホームページ等の説明には、JR弁天町駅すぐ、とあるが実際に行ってみると駅には案内表示も無く、意外に地味な存在で分かり難い。当初は弁天町のどこかで旨いものを食べようかと思ったが、ホームページで駅弁が食べられるとあったのでそれにしようと思い、モデル見学ルートを無視して、入場後いきなり展示食堂車に急行。駅弁ならば、昔のものを再現しているのではないかと勝手に思い込んでいたが、実際には現在のものだったので少々ガッカリ。まぁ考えてみれば当然で、昔のものを再現するには食材の問題や食品安全衛生を考えると相当な困難が予想され、コスト・パフォーマンスが悪くなるのは想像に難くない。だがウィーク・ディだったせいか、食堂車内で座って食べられたのは幸いで、小旅行気分を味わえた。



この食堂車をD51が牽引するかのように並べて展示されている。本来は、D51が牽引したのは貨物列車が主であったはずだが、あまり些末なことに目くじらを立てない方が良いのだろう。隣には、内部公開されていない客車を牽引する形で“貴婦人”と呼ばれたC62が展示されている。改めてそばで見ると、その動輪の大きさには感動する。車輪は鍛造するはずだが、そのためには巨大な鍛造機がなければならない。C62の本体はほとんどD51と変わりないが、動輪だけはD51より大きくし、馬力はD51に比べ小さくとも速度は出るようにして、特急旅客列車用の蒸気機関車としたものだ。
この食堂車の背後には、最古の蒸気機230型が展示。説明パネルによれば、明治36年製で大阪汽車製造によるもので、部品のほとんどは輸入品でこれを組み立てて作ったとある。この蒸気機の横には客車があり、奥には湘南電車があった。チョコレート色の国電の中で、緑とオレンジ色の初めてのツートン・カラー電車だ。C62の左隣には、初のジーゼル特急“はつかり型”がある。関西では特急“くろしお”だったというが、私はこれが実際に走っている姿を見たことはない。



このD51やC62の展示ヤードに対面するように、蒸気機の“義経号”がガラス・ケースの中に展示されている。戸外のガラス・ケースの中なので、戸外の風景が反射して写真の写りは悪い。北海道で最初に走った蒸気機関車で、1880(明治13)年にアメリカから輸入され、姉妹汽車“弁慶号”があるのは有名。これは1952(昭和27)年に鷹取工場で動態保存機として復元され、1991(平成3)年より当館で保存展示され、動態保存機のため、専用車庫で展示とある。
幼稚園児が多数見学しに来ていたが、これを見てどこまで理解できるのであろうか。否、引率する若い女の保母さんが どのような感慨を持って説明しているのだろうか、という疑念が浮かぶ。

ここで、13:30模型鉄道パノラマ展示の運転時間だ。展示室に行ってみると、既に見学の園児たちがほとんどの見学席を埋め尽くしていた。大人と言えば、鉄道オタクとお見受けするお兄さん方がカメラを構えて待っていた。私もそれに混じってカメラを構えた。やがて、運転が始まり、昼間の風景が夕景、夜景へと変化して行くと、その度に期せずして園児たちは歓声を挙げた。
これが、昔ならほとんどが蒸気機関車のデモンストレーションであったろうが、ここは電車ばかりが走り回っている。電車ならば、本来は架線を張っておくべきだったろうが、レイアウトにはそこまでの精確さはない。夜行列車の車内照明にも模型としての限界があるのは少々残念だが、仕方ない。それでも 花形電車、列車を模型として一気に見ることができるのに、子供達は感動したのであろう。昔は、鉄道オタクは そのまま模型オタクでもあったが、今はどうなのであろうか。



次に、鉄道模型の世界から隣接する第二展示場に赴いた。ここへは公道があるため階段を上り下りする必要があり、バリア・フリーにはなっていない。
ここにはジーゼル機関車が展示されていた。DD54は、私にはあまり馴染みは無い。DF50は幹線の非電化区間を牽引した主力機関車だ。北陸線の特急を牽引していたのを見たことがあるが、色は展示されていたのとは違いチョコレート色だった。DD13は貨物車などの入替機関車として多用され、いずれも蒸気機が退いた後に活躍した機関車だ。
元の展示場に戻ると、例のチョコレート色のEF52が展示されているのに気付く。初期の電気機関車で前後のデッキが何故か異様に広いのが特徴で、銘板を見ると日立製であった。阪和線で まれに見かけたことがあったように思う。



そう、言い忘れたが第二展示場には、信号機や踏切警報器などの安全のための施設も展示されていた。特に、連動装置と言うものが置かれていた。これは、“転轍器(ポイント:分岐器)と信号機の動作を制御し、列車が進行している間、転轍器が転換しないように鎖錠し、列車が進行中の進路に支障を来す他の進路が構成されないように、転轍器と信号機の動作に一定の連鎖関係を持たせる保安装置”ということだ。この連動機の背後にスクリーンがあり、駅の構内の列車運行をダイヤ通りに円滑に運営するために、一箇所に転轍手を集めダイヤを読んだ指揮者が、一人一人の転轍手に転換指示を出している場面が映し出されていた。一つの転轍機に転轍手が一人付き、指示ごとに大きな梃子を動かしていたのだ。私も詳しくは知らなかったが、昔はこうして大勢の人が鉄道会社に従事していたのであり、人手としての雇用は多数必要とされていたのだ。後は、昔の駅舎やプラットホーム、典型的な客車内の展示があった。
未来の鉄道としてリニア・モーターの展示場があるが、現実は開発未だしの感があり、あの新幹線の開発速度に比べて その遅々たる状態に残念感ばかりが漂う。



鉄道以外の展示もあった。驚いたのは、乗用車のヒルマンの展示だった。昔、父親が乗っていた車だったので、後姿だけですぐにそれと分かって、非常に懐かしい思いがした。当時“いすゞ”が部材を英国から輸入し、ノックダウン生産していたものだ。子供だったので、結構大きく感じたものだったが、今見るとそれほどではなく、手頃な大きさでデザインも良い。私が結婚後買った車を見て、亡母が“大きい”と一言だけ言っていた理由がようやく分かった。
その当時 発売されたスバルも展示されていたが、色は一般的だったカカオ・クリーム色ではなく真っ赤なものだった。こんな派手なスバルを私は見たことがなかった。
実際の飛行機の機体も2機展示されていた。朝日新聞社機“東風(こちかぜ)”として活躍した双発機と、戦後間もない時期に川崎航空機が、1953 (昭和28) 年につくった単発軽飛行機だと言う。ジェットエンジンの展示もあった。
船の展示は、模型ばかりだ。せめて、鉄道連絡船の接岸部分の実物大のモノの展示があれば良かったと思うのだが、どうだろうか。



“交通”科学博物館とあったが、ほとんど“鉄道”博物館である。これを“博物”館と呼ぶにもいささか抵抗を感じ、“鉄道資料館”と呼ぶべきであったのではないかと思うのだが、今更 ささいなことに難癖を付けるのは大人気ない。この博物館は、かつて国鉄が開設したものをJR西日本が引き継いだのであるが、そう思うと隔世の感がある。なぜならば昔の国鉄には今のJR各社より遥かに力があり、将来鉄道以外の交通体系への進出の含みを持たせての命名であったのかも知れない。ロケット・エンジンを搭載した列車を夢想して、その模型を展示していたのはそうした気分があったのを反映しているのだろう。
そう言えば、私の子供の頃 まだまだ科学技術に夢や希望があり、オリンピックではないが“より早く(Citius)、より高く(Altius)、より強く(Fortius)”を科学技術で実現させて行くものだと言う“技術革新信仰”があった。だからこそ、交通“科学”博物館と呼称したのだろう。その頃の子供は、“鉄道で一番早い列車は何か”という知識を競い合ったりして、昔の蒸気機関車等よりも、未来の鉄道の想像図やロケット列車により強く魅かれたものだった。ところが、今のこの“交通科学博物館”には、未来の鉄道を語る資料は展示されていない。リニア・モーターの展示はあったが、それには既に未来と呼ぶにはいささか手垢にまみれていて、新鮮な驚きはない。そうした夢を失ったからこそ、ここは閉館となったのかも知れないという解釈もありか。まぁここにある展示物は京都の梅小路に移動し、そこで展示されるようではあるのだが・・・。
ところで、大勢の幼稚園児が見学に来ていたが、彼らがクラッシックな義経号を見て何を感じたのであろうか。ここへ来て、ただ単に大人のノスタルジーに付き合わされているだけならば、何だか申し訳ない気がする。模型の世界に感嘆の声を挙げた幼稚園児達は何に感動したのであろうか。今の大人は子供達に 未来を提示できない現実に責任がある。
自然破壊を繰り返し、暴走する原発を制御しきれなかったにもかかわらず、一方では 神の領域に迫ろうとする科学技術を、私達は これからどうハンドリングするべきなのであろうか。
しかし、これでまた大阪は夢を失い、観光対象も一つ少なくなるのだ。そんな残念感を抱きつつ、かなり疲労した足を引きずりつつ帰途に就くことにした。

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