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ササァーと京都へ初詣とミニ歴史散歩をめぐって

アホアホ政策で新型ウィルス蔓延により、いよいよ医療崩壊から医療壊滅のプロセスに突入し始めている。担当大臣の発言からは、“~を実施する”という積極的な発言がこれまで一切なかったように思う。“~を認識している”、“~を調べている”、追い詰められると“検討する”という発言ばかりだ。これでは“座して死を待つ”ばかり。アホ政治も極まれり。

一方、首相は“会食自粛”でストレス蓄積となり、“かみ合わない質疑・言い間違い続出”となり、アホアホ馬脚の暴露促進となっているようだ。保守政治を擁護する新聞がこんな記事を掲載した。
ならば勝手に会食おやりになれば?どんどん会食して感染なさるがいい。早く感染して、重症化なさるがいい。そうすれば国難を救う良い政策も思いつくのかもしれない。

こんなアホ政治がようやく少し動くようで、法改正で様々な罰則が用意されているという。中には、入院拒否で罰則を科す、という規定もあるようだ。今や入院を懇願しても入院させてくれない現実があると言うのにホントウか?日本の政治家の発想の貧困さに驚く。処罰して、監獄に入れてようやく治療となるのか。これぞ本末転倒のアホアホ。

日本医療は世界水準で見てベッド数が多いが、新型ウィルス患者が相対的に少ないにもかかわらず医療崩壊となっているという。何故そうなるのかの説明がよく分からない。私の理解した範囲からいうと、日本には大規模な公立病院が少なく、中小の民間病院が多いため、その中小民間病院では新型ウィルス患者を受け入れると、採算が悪化して持たないから、或いは、規模そのものが小さいので受け入れる空間的余地そのものがないため、でないか。要するに中小零細医療機関が多く、大組織が少ないのだ。ならば、いっそのこと、どこかの広い空き地に臨時の巨大施設を作ればよいのではないか。人的不足は医師会から割り当ててある種強制的に提供してもらう仕組を作るべきではないのか。大阪の臨時の専門病院は、人的糾合に問題があった、というが、それを可能にするのが政治家の仕事ではないのか。町の医院でいつも通り構えているお医者さんを散見するのが現実ではないのか。こんな“緊急事態”で総動員体制も築けない政治家は社会に役立つのか?

頑迷なアホアホ政治家には、もうこれ以上、新型ウィルス政策について何をコメントしても無駄なことのように思える。言葉を失ってしまうのだ。既に、日本社会に地獄の釜が蓋を開けて待っている!

同じように閉塞感がまとわり付くが、ここからもう少しましなテーマをコメントしたい。
先週、NHK BS1の“欲望の資本主義2021 「格差拡大 社会の深部に亀裂が走る時」”をチラッと見た。私が見たのは再放送のようだった。
資本主義を問題にするならば、金利についてもっと言及するべきだった。“金利の不思議”に言及したのでもっと突っ込むのかと見ていたが、サラリとかわされてしまった印象だ。そこで、その時間、他のしなければならないことをしてしまった。
“金利”を解明しなければ“資本主義”の本質は見えてこないのではないか。何故か最近言わなくなったが、“金利は経済の体温計”なのだ。ところが、このところ金利の世界的トレンドは低下の一途である。甚だしきは、日本の金利。ゼロ近傍に張り付いて動かない。時にはマイナスにすらなっている。これは投資しても損失をこうむるので、意味がないことを示している。投資しても意味のない社会に資本主義は成立しない。つまり、日本の経済に明日はないことを示しているのだ。これは大雑把に言って、世界のどの国の経済も異口同音の傾向だ。日本が一番激しくその傾向にあるだけなのだ。

資本主義はマルクスが“資本論”を書いた、産業革命を終えた19世紀から飛躍的に発達した。そして経済がグローバル化して経済のフロンティアがなくなってきたのだ。その傾向が、最近とみに強くなってきた。しかし、資本主義にはこの経済のフロンティアがなくなれば、発展のエネルギーを獲得することができない特質を持っているかのようだ。
だから、現代資本主義は社会の内部にフロンティアを求めるようになった。そこで生まれるのが“分断”なのであろう。“格差・分断”を形成することで、フロンティアを形成する、そういう傾向にあるのが現代ではないのか。トランプ主義がその究極の姿なのかもしれない。
場合によっては、コヴィット19もヒョッとしてその道具にしているのかも知れない。あるいは、日本の一見アホアホに見える政治も、実は狡猾な分断政策の一環なのかもしれない。分断を煽る社会、そんな社会に生きる人々が仕合せなハズがないではないか。

“金利”をテーマにすれば、こんな妄想も湧いてくる。従って、NHK BS1の番組も切り口が間違っていて、下らない言説ばかり引用しようとしているように見えたのだ。中には、ある証券会社の社内会議を放映しているかのように見える場面もあった。その証券会社がダメなのではなく、こういう番組を作るプロデューサーが及ばないのだ。切り口を間違えると、全く面白くなくなる典型であるように思えたのだ。

それともう一つ言っておきたいことがある。私は理想社会のあり方の一つをキリスト教聖書にあるという“ぶどう園の労働者”の話にあると思っている。ここに労働の社会における理想状態を見るのだが、本当の理想はこれよりもう一歩先にある。理想は“いつでも誰でも、働きたいときに働けること”であり、しかも“能力に応じて働き、必要に応じて受け取られるべきこと”(生存権を労働の対価によって保障してはならない原則)さらに、“労働は楽しくあるべきで、決して苦役であってはならない”。これは実質空文化している憲法18条の実現であり、敷衍である。要するに西研先生の言うような“好きなことをして、楽しく生きていける社会”の実現が理想ではないのか。
この理想を実現するべく、社会を変革しなければならないと思っている。そこがしっかりしないと人類社会は安定しない。人の気持ちは歪んでしまい、いびつな欲望だけが渦巻く。それが全ての社会問題を引き起こしている。だから、この理想を実現させるのが政治家の使命であろうと思っている。資本主義社会はこうした視点からも批判されるべきではないだろうか。この視点に最も近かったのがイエス・キリストとカール・マルクスではなかったかと、思っている。
竹中平蔵氏の考え方はこうした理想とは真っ向から対立するもので、社会の分断を促進させるだけのものではないか。こうした思想のない経済学は経国済民には程遠いのだ。だから彼はエセモノであり、断じて“経済学者ではない”のである。


さて、今回は新型ウィルス蔓延のとば口に立って、先週“ササァーと京都へ初詣とミニ歴史散歩”をやってしまった。その結果を報告したい。
かねてより先週末、審査員研修会が京都で予定されていた。ところが、その直前に“緊急事態宣言”が発出される想定外事態となったのだ。神社仏閣の多い京都へ行く機会に、初詣しようと年末から狙っていたのだ。人生の半分以上を過ごした者にとって、その分今後は、初詣の機会も少なくなる。だから思いついた“計画は直ちに実行するべきダ”という“悪魔の囁き”が聞こえ、実行した訳だ。

NHK大河“麒麟がくる”の相手役の織田信長が京都に滞在したのは、多くは妙覚寺であって本能寺ではない、ことをネットで知って、妙覚寺とはどんな寺なのか見たくなったのだ。“信長は二十数回に及ぶ京への滞在において妙覚寺を宿所としたケースは18回に及び、本能寺に滞在したのは3回に過ぎない。
或いは、話題になった将軍・足利義昭の居城・二条城が出てくるが、それが今の御所公園の西南端にあったのだという。また、その当時の石垣が展示されているらしい、というので、これも見たくなったのだ。
“不要不急ではない仕事のついでが悪いこととは一概に言えない!京都に金が落ちるではないか!”と又、悪魔が囁いたのだ。

だが、よく調べてみると、妙覚寺は今はその当時の場所にはなく、秀吉によって現在の場所に移転させられたとのこと。信長が逗留した妙覚寺は二条衣棚(現・京都市中京区)に在ったようだ。信長は義父の斎藤道三の縁によって、この寺に逗留したようだが、それがどんな規模でどんな伽藍配置で、それが警備にどれほど有効だったのか、見てみたい、という思いが強く、現在の寺の伽藍にその痕跡を見たかったのだ。

信長は、実父・信秀追善のため大徳寺に黄梅庵を寄進したと知っていたので、大徳寺と縁が深かったのだろうと勝手に思っていたのだが、そうでもなかったのが面白い。では何故、大徳寺に寄進したのだろうか。さぐれば興味深いのかも知れない。
黄梅庵自体は、その後、秀吉がこれを徐々に増築し、天正17年(1589)に“黄梅院”と改め、さらに小早川隆景が庫裡、鐘楼、客殿などを寄進し、千利休が作庭しという。その背景には“信長”への人々の思いが感じられる。
ところで信長の本能寺への逗留は、住職の日承上人に帰依したためとされる。信長は皇族でもあった日承上人から勤王の影響を受けたとの話もある。天皇に近付く布石でもあったのだろう。一方、本能寺は種子島等離島への布教活動を早くから展開していたため、鉄砲・火薬の流通に深くかかわっていたこともあったとも言われている。寺院が当時の最新兵器の流通の拠点であったというのに、少々の違和感があるが史実のようだ。また、当時の本能寺の建造物による防備は結構なものでもあったようだ。

ところで寺院名称で妙覚寺に対し、この寺の近くに妙顕寺がある。こちらは、日蓮宗の京都での総本山。妙覚寺はその妙顕寺で修行した僧が建立して分派した寺とのこと。
これらに対し、有名な寺で妙心寺という寺があるが、実態は関係はない。妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山である。
だが、逆の意味での関係がある。明智光秀は、信長を討った直後、妙心寺を訪問、心を落ち着かせたというので有名である。また光秀の母方の叔父にあたる妙心寺の塔頭・大嶺院(1978年に大龍院と合併)の密宗(みっしゅう)和尚が、1587(天正15)に光秀の菩提を弔うために、逆賊という汚名を洗い流すために明智風呂を建て、その遺構が現在も残っている。“洗い流す”とは言うが実際は珍しいスチーム風呂。さらに、“信長の妹のお市の方が信長の百箇日法要を妙心寺で執り行った”というエピソードすらある。
戦国武将と京都諸寺院の関係は、何と複雑怪奇なことではないか。少し歴史を知れば面白い。

事前の予習はこんなところで、実際の当日は例によって阪急電車を利用。朝9時頃の阪急京都線、新型ウィルス流行前は、中国人で溢れ返っていたが、今はいない。お蔭で三密は回避できている。電車の窓も少しづつ開け放たれていて、換気はまずまず。



初詣先に選んだのは、ここ数年参拝している松尾大社。桂駅から嵐山線へ乗り換え。松尾大社前駅から直ぐである。
松尾さんは古代土着信仰されていた山の神様を、渡来人・秦氏がその振興を後押ししたと伝わる。京都でも最も古い神様の一つである。その昔は、この奥の山中で神事を執り行っていたようで、山腹にはそうした痕跡があるようだ。秦氏には農業・土木と酒の醸造技術があったとされるので、松尾大社はお酒の神様としての信仰もある。著名な日本酒メーカーはもとより、ビールメーカの名を記した提灯が本殿にはズラリと並んでいる。
秦氏は古代日本で京都盆地一帯を開発し、伏見で酒を醸造したのではないか、とされる。桂川流域の湿地全域を米作に適するよう土木改良したのではないかとも言われている。後世、映画スタジオのできた太秦という地名はそうした名残とされる。その近くに秦氏の氏寺・広隆寺があり、京都最古の寺院とされる。ここには有名で美術の教科書に出てくる国宝・木造弥勒菩薩半跏像(通称「泣き弥勒」)がある。こう書いている内に、広隆寺に行ってみたくなった。



本殿での参拝後、必ず本殿の裏手にある小さな滝に向かっても参拝する。この霊亀の滝では山からの冷気が大抵降りてくるので、何か神聖な気分に浸れる。本殿に参拝後は、この滝にもお参りし、冷気を浴びで元気になるようにしている。
参拝だけだと、30分もかからない。直ぐに、駅にとって返したが間が悪く、10分以上電車が来ない。

阪急電車から烏丸で地下鉄に乗り換え、鞍馬口へ。鞍馬口通りを西進。車は一方通行、これを逆進する。右手に駐車場が見えたところで、南北の辻に入り南下(新町通)。次の東西の通りを右折してさらに西進。途中の左手の駐車場で、妙顕寺の看板を見た。駐車場の向こうに在るようだ。
やがて、右手に結構大きな寺院が見えてくる。これが妙覚寺。門前に日蓮宗独特の文字を刻み込んだ石柱があるので、それだとよく分かる。山門をくぐったが、結構広い境内に結構大きな本堂があるだけ。このたたずまいからだけでは、信長の定宿だったとは分からない。又そうした説明書きも見当たらない。何かの遺構も見当たらない。そんなことではないか、と予想されたがあまりにもその通りにゲンナリ。特別の拝観時期でもなさそうで、本堂に向かって単に拝んで外へ出た。



このままではつまらないだけ。直ぐにさっきの駐車場の看板を頼りに、妙顕寺を目指す。坪庭が拝観できるようだ。本堂に迷い込んだが、寺務所が見当たらない。境内に入ったところに戻って寺務所を発見し、靴を脱いで受付しようにも新型ウィルス禍で拝観客もいないせいか、人が居ない。数分、周囲をウロウロ。やっと先方も気付いて何とか拝観料を支払い、写真撮影で庭は可で仏像は不可と伺い中に入る。
良い庭であるが、京都では珍しくはなく、古くもない。庭は4つ(四海唱導の庭・光琳曲水の庭・五色椿と松の庭・孟宗竹の坪庭)あり、そのうちの一つは尾形光琳の作庭のようだが、復元したものだ。五色椿と松の庭の水琴窟も新しいもののようだ。水琴窟は実際に水を流すと、小さいが意外に高い独特の音だった。兎に角折角の京都で、何とか京都らしがを感じられた。



時計を見ると11時半。妙顕寺で一寸ノンビリがいけなかった。予定からの30分の遅れ。この時刻ならばランチ・タイムだった。予定では、丸太町の10年以上前に行ったことのある蕎麦屋さんを考えていたが、遅れている。丸太町が、旧二条城があった場所なのだ。多分12時を過ぎると、急に客足が増え、密になる。
そこで慌てて、先ほどの南北の辻・新町通にあった蕎麦屋さん定七に向ってランチ。幸い客は私一人で、密は避けられた。とろろ山芋蕎麦を注文し食べる。とろろと出汁を別々に漬けて食べるもよし、一緒にして食べるもよしの2waysを楽しめた。蕎麦も本来の風味でよかった。この店は出汁を研究しているようで、それならば定七蕎麦が目玉のようだ。少し残念!若い店主は無口だったが、お品書きにそのように書いてあった。



店を出た途端、自分でも何を思ったか歩きたくなってしまい、そのまま丸太町を目指してしまった。京都で感じる街の独特の雰囲気、もうこれには慣れて飽きも少々あるのだが・・・。どうせ、鞍馬口から丸太町まで地下鉄で1駅と勘違い。間に今出川駅があったのだ。まだまだ京都通ではない。
焦って急いだこともあって、汗だく。気付けばガードマンが数人で交通整理していた。同志社・新町キャンパスと知る。今出川通を突っ切り、今から思えば偶然、室町通を歩いていたようだ。
さらに学校らしき建物。目指す平安女学院。交差点の角に、旧二条城跡の看板。さらに少し南に下って左手に足利義輝邸跡の看板があり、写真撮影。義輝は信長が将軍として担いだ足利義昭の兄で、三好氏により不当に殺害されている。兄が構えていた屋敷跡へ義昭を警護するため、信長が城を建設し献上したものと思われる。
一見普通の街角に、こんな重大な旧跡の看板がさりげなくある。こうした旧跡が随所にあるのが京都。



ひっそりとあった営業中との看板を見て10年以上前に行ったことのある蕎麦屋さんの無事を確認し、表通りにでると丸太町交差点。ここから御所公園内の旧二条城石垣を見に行く。
烏丸通りから御所公園南端の入口から中に入るが、何もない。椹木口(さわらぎくち)と間違えた。行き場がないので自ずと北へ、数十メートル言ったところがその場所。あった、旧二条城石垣復元の看板。どうやら地下鉄工事の時に出て来た遺構のようだ。復元石垣は南北に設置されていたが、発見時は東西にあり南面していた由。急ごしらえの旧二条城、矢張り、意外に小さな石を雑に組んでいる。

これで、私の興味だけの小観光は終わり。ふと見ると東側に屋敷の入口がある。近づいてみると“閑院宮邸跡”とあり、入場無料とある。少々、お庭拝見。皇族貴族の邸宅、お庭を見て、こんな所で、召使を従えて住んでみたいものだと思うのが叶わぬ夢。



地下鉄に乗って烏丸へ。現実に戻った感じ。錦市場の通りへ入ると、様子が一変していた。入口数件が閉店。シャッター商店街になっていた。降ろされたシャッターにテナント募集の貼り紙。奥に入ってもそれが続いている。こんな賑わいの場所が、と思うと、これからどうなるのか、不安がよぎる。
目当ての酢昆布、おやつ昆布を買って、午後からの研修会場へ向かう。
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