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孫文と神戸―“移情閣”見学
先週のある日、神戸の舞子で環境審査が午前で終わって、JR舞子駅と山陽電車・舞子公園駅の間にある商業施設ティオ舞子(Tio 舞子)にて昼食。その後、思わぬ寒さで海を見るとところどころに波頭に白いものが見えたが、午後はヒマではあったし、折角なので舞妓公園にあるという孫文に所縁の“移情閣”に行ってみたくなった。
須磨から舞子にかけては、須磨離宮をはじめ神戸財界人の別荘や企業保養所が多い風光の地である。
舞子と言えば、明石海峡大橋の本州側起点であり、何と言ってもその橋の威容はほぼ町の殆どの地点から見ることができ、2つの鉄道の駅は橋脚の足元にあることになる。従って、駅では巨大な橋を見上げるばかりで そのあまりの巨大さにある種無力感さえ覚える。しかも、車ではこの舞子駅界隈からは直接に、大橋にアクセスすることはできず、相当遠回りしなければならない―この橋はそれほど巨大なのだ。と言うのは、橋を渡るハイウェイは海に面する山から潜り抜けるトンネルを出てそのまま直ぐに橋に突入する構造になっているのも一因ではある。だが、高速バスの停留場はそのトンネルを出た所にあり、下降するエレベータに乗ればティオ舞子の近くにたどり着き、そこからJRや山陽電車の駅につながっているので、電車・バスの乗換は容易だ。四国方面行き高速バスは神戸からでは通常三宮を起点にしているので、舞子というより、三宮より西側からアクセスする場合は、この舞子でバスに乗れば便利である。
さて、話を戻そう。腹が満ちて、午後の自由な時間をどう使うか、ここはやはり、国指定重要文化財“移情閣”別称“孫文記念館”の見学は当然であろう。今年一番の寒さで、北西からの冷たい風に人出も少ないが、駅の南に出て、地上の一般道から隔離された遊歩スカイウォークを歩いて、巨大吊り橋の橋脚の足下から東側の舞子公園に向かう。やがて、明石海峡と淡路島を背景に青みがかった緑色の塔を備えた瀟洒な洋館が見えて来た。これが恐らく“移情閣”。それと分かれば、構わず一心にそこを目指す。ようやく入口に近付き、看板でそれと確認。

日本では近現代史の教育があまりなされていないと言われ、私自身も維新以降の日本史について お寒い状態であり、まして清朝末の中国人革命家の動静や、彼らの日本との関わりとなると皆目知識がない。そういう状態で孫文記念館を訪れてどうするかだが、そんなことを言っていてはいつまで立っても、知識の無いままで過ぎてゆく結果となり、ついに何ら知ることなく終ってしまう危険性がある。そういうことは避けたい、と思って入館したが やっぱり予備知識がないのは悲しい。展示物を見ても 深くその背景を知らないため感銘が呼び起こされないのだ。
数年前だったか、ジャッキー・チェンの映画“1911”をビデオで見たことを思い出した。この映画は孫文自身よりも、その下で活躍した黄興のエピソードで固められていたように思う。また、現代中国人には、孫文が日本に一時亡命し、当時の有力日本人が援助したことなど史実から抹殺したいという意識が強く働くせいか、そのような場面は全くなかった。逆に孫文がハワイや米国本土演説するシーンやヨーロッパで資金集めする場面はあったように記憶している。
確か この映画では袁世凱らの軍閥に悩まされて終っていたように思う。正に孫文の最後の言葉“革命未だ成らず”だ。否、中国の現政権でも客観的に見て三民主義を実現しているとは言えないので、孫文の理想は“未だ成らず”ではないか。
孫文は、国民党からはもとより、共産党からも国父と敬愛され 壮大な墳墓が建設されていてその写真も展示されていた。恐らく孫文本人は、そのようなことは決して望んでいなかったであろうが、何故古代皇帝のような墓を作ったのであろうか。こうした古代的な中国人の発想は理解し難い。
さて、孫文はどのようにして神戸と関わりを持ったのだろうか。どうやら中国革命のための武装蜂起の後、清朝の軍隊に敗れて、又その後 反革命の軍閥に敗れて、その度に日本に逃れて来ていたようだ。それは、神戸や横浜の華僑を頼ってのことだったが、その都度 開明的日本人の援助もあったということだ。
“孫文は生涯に16回のべ6年間日本に滞在したが、うち8回神戸を訪れた。初めて訪日したのは1895年、29歳のときで広州での蜂起に失敗したため日本に亡命した。最後は1924年11月、広州から北京へ向かう途中日本に立ち寄った。死の4か月前で、このときは元町にあった県立神戸女学校の会場で、覇道と王道を対比する「大アジア主義」の講演を行った。”と言う。
来日時、彼を支援した日本人は宮崎滔天、梅屋庄吉、萱野長知、頭山満、犬養毅、山田良政・純三郎、渋沢栄一、南方熊楠、さらには内田良平、北一輝 等とされるが、詳しくは“孫文記念館”の“孫文・日本関係人名録・増訂版”に網羅されている。
例えば神戸では、“1913年夏、中国の実権は袁世凱にあったため、孫文は日本に亡命をはかった。だが、袁に配慮した当時の日本政府は当初、亡命を認めなかった。そんな孫文をかくまったのが、川崎造船所(現川崎重工)の社長、松方幸次郎である。神戸港に停泊中の定期船から夜陰に乗じて孫文を小船で連れ出し、造船所の構内を通って諏訪山のふもとの山荘に入れた。孫文はそこに1週間こもったという。そんな縁から、孫文記念館を管理、運営する孫中山記念会の理事長には、川崎重工社長経験者が就くことが多い。” とのエピソードがあるとのこと。

さて“この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂(1855~1926)の別荘「松海別荘」を前身としている。1915(大正4)年春、その別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」が建てられ、外観が六角に見えるところから、地元では長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきた。” ということだ。
恐らく、孫文の来神の都度、呉錦堂が接待等に使用したのが縁となって“記念館”となったようだ。“孫文来訪から2年後の1915年、呉錦堂は自らの還暦と実業界からの引退を記念して、三層の楼閣を建て、故郷“中国”への思いを込めて「移情閣」と命名した”との由。
“この中国人実業家・呉錦堂は、上海で商業活動を経験した後、長崎へ渡来し、さらに神戸に移り貿易会社を設立。海運業にも注力し,自船展開で競争力を高めた。日本のマッチ王といわれた瀧川弁三と合弁でマッチの輸出会社「義生号」を設立し、マッチ貿易で財をなした。神戸に近代的綿糸紡績業が発展するのを見て,中国棉花取引の高シェアを誇り,大株主でもあった鐘淵紡績と関係が深い。一方、神戸西端で三木市に近い神出小束野の開拓にも関与。後に,東亜セメント,大阪莫大小を設立するなどの多角化は,流通から生産過程へ進出する企業家としても知られた有力実業家”であったという。我ながら、知らないことばかりに驚くばかりだ。
孫文記念館は世界中にあるが、日本ではこの移情閣が唯一の記念館だということだ。最後に、記念館としてのアンケート用紙があったので、“日中友好を心から願う。”と書いておいた。これは正直な私の気持である。決して日本が王道を行く状態であるとは言うつもりはないが、あからさまに覇道を求める現中国政府のやり方には反対したい。こういう姿勢が表面的には 現安倍政権を支持するような立場となっていることに情けなさがあるのも事実だ。
記念館を出ようとする所に、“天下為公”との石碑があった。良く見ると孫文の書とあり、脇に説明文があった。それによると概略次のようである。“「天下を公と為す」は礼記によるもので、孫文が好んだ言葉。1924年11月に兵庫県立高等女学校で“大アジア主義”の演説を行った時に、請われて揮毫したもので、現在は神戸高校の“高宝”となっている”、とあった。
外へ出るとコンクリート岸での向こうに旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)が見えた。さすがに午前の審査で疲れが出て来たのか、さらに見学する元気も乏しくなっていたが、ひっそりした様子からこの時は開館してはいないようだったので、そのままスルーして公園の松林を通って、駅に向かい帰途に就いた。

須磨から舞子にかけては、須磨離宮をはじめ神戸財界人の別荘や企業保養所が多い風光の地である。
舞子と言えば、明石海峡大橋の本州側起点であり、何と言ってもその橋の威容はほぼ町の殆どの地点から見ることができ、2つの鉄道の駅は橋脚の足元にあることになる。従って、駅では巨大な橋を見上げるばかりで そのあまりの巨大さにある種無力感さえ覚える。しかも、車ではこの舞子駅界隈からは直接に、大橋にアクセスすることはできず、相当遠回りしなければならない―この橋はそれほど巨大なのだ。と言うのは、橋を渡るハイウェイは海に面する山から潜り抜けるトンネルを出てそのまま直ぐに橋に突入する構造になっているのも一因ではある。だが、高速バスの停留場はそのトンネルを出た所にあり、下降するエレベータに乗ればティオ舞子の近くにたどり着き、そこからJRや山陽電車の駅につながっているので、電車・バスの乗換は容易だ。四国方面行き高速バスは神戸からでは通常三宮を起点にしているので、舞子というより、三宮より西側からアクセスする場合は、この舞子でバスに乗れば便利である。
さて、話を戻そう。腹が満ちて、午後の自由な時間をどう使うか、ここはやはり、国指定重要文化財“移情閣”別称“孫文記念館”の見学は当然であろう。今年一番の寒さで、北西からの冷たい風に人出も少ないが、駅の南に出て、地上の一般道から隔離された遊歩スカイウォークを歩いて、巨大吊り橋の橋脚の足下から東側の舞子公園に向かう。やがて、明石海峡と淡路島を背景に青みがかった緑色の塔を備えた瀟洒な洋館が見えて来た。これが恐らく“移情閣”。それと分かれば、構わず一心にそこを目指す。ようやく入口に近付き、看板でそれと確認。

日本では近現代史の教育があまりなされていないと言われ、私自身も維新以降の日本史について お寒い状態であり、まして清朝末の中国人革命家の動静や、彼らの日本との関わりとなると皆目知識がない。そういう状態で孫文記念館を訪れてどうするかだが、そんなことを言っていてはいつまで立っても、知識の無いままで過ぎてゆく結果となり、ついに何ら知ることなく終ってしまう危険性がある。そういうことは避けたい、と思って入館したが やっぱり予備知識がないのは悲しい。展示物を見ても 深くその背景を知らないため感銘が呼び起こされないのだ。
数年前だったか、ジャッキー・チェンの映画“1911”をビデオで見たことを思い出した。この映画は孫文自身よりも、その下で活躍した黄興のエピソードで固められていたように思う。また、現代中国人には、孫文が日本に一時亡命し、当時の有力日本人が援助したことなど史実から抹殺したいという意識が強く働くせいか、そのような場面は全くなかった。逆に孫文がハワイや米国本土演説するシーンやヨーロッパで資金集めする場面はあったように記憶している。
確か この映画では袁世凱らの軍閥に悩まされて終っていたように思う。正に孫文の最後の言葉“革命未だ成らず”だ。否、中国の現政権でも客観的に見て三民主義を実現しているとは言えないので、孫文の理想は“未だ成らず”ではないか。
孫文は、国民党からはもとより、共産党からも国父と敬愛され 壮大な墳墓が建設されていてその写真も展示されていた。恐らく孫文本人は、そのようなことは決して望んでいなかったであろうが、何故古代皇帝のような墓を作ったのであろうか。こうした古代的な中国人の発想は理解し難い。
さて、孫文はどのようにして神戸と関わりを持ったのだろうか。どうやら中国革命のための武装蜂起の後、清朝の軍隊に敗れて、又その後 反革命の軍閥に敗れて、その度に日本に逃れて来ていたようだ。それは、神戸や横浜の華僑を頼ってのことだったが、その都度 開明的日本人の援助もあったということだ。
“孫文は生涯に16回のべ6年間日本に滞在したが、うち8回神戸を訪れた。初めて訪日したのは1895年、29歳のときで広州での蜂起に失敗したため日本に亡命した。最後は1924年11月、広州から北京へ向かう途中日本に立ち寄った。死の4か月前で、このときは元町にあった県立神戸女学校の会場で、覇道と王道を対比する「大アジア主義」の講演を行った。”と言う。
来日時、彼を支援した日本人は宮崎滔天、梅屋庄吉、萱野長知、頭山満、犬養毅、山田良政・純三郎、渋沢栄一、南方熊楠、さらには内田良平、北一輝 等とされるが、詳しくは“孫文記念館”の“孫文・日本関係人名録・増訂版”に網羅されている。
例えば神戸では、“1913年夏、中国の実権は袁世凱にあったため、孫文は日本に亡命をはかった。だが、袁に配慮した当時の日本政府は当初、亡命を認めなかった。そんな孫文をかくまったのが、川崎造船所(現川崎重工)の社長、松方幸次郎である。神戸港に停泊中の定期船から夜陰に乗じて孫文を小船で連れ出し、造船所の構内を通って諏訪山のふもとの山荘に入れた。孫文はそこに1週間こもったという。そんな縁から、孫文記念館を管理、運営する孫中山記念会の理事長には、川崎重工社長経験者が就くことが多い。” とのエピソードがあるとのこと。

さて“この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂(1855~1926)の別荘「松海別荘」を前身としている。1915(大正4)年春、その別荘の東側に八角三層の楼閣「移情閣」が建てられ、外観が六角に見えるところから、地元では長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきた。” ということだ。
恐らく、孫文の来神の都度、呉錦堂が接待等に使用したのが縁となって“記念館”となったようだ。“孫文来訪から2年後の1915年、呉錦堂は自らの還暦と実業界からの引退を記念して、三層の楼閣を建て、故郷“中国”への思いを込めて「移情閣」と命名した”との由。
“この中国人実業家・呉錦堂は、上海で商業活動を経験した後、長崎へ渡来し、さらに神戸に移り貿易会社を設立。海運業にも注力し,自船展開で競争力を高めた。日本のマッチ王といわれた瀧川弁三と合弁でマッチの輸出会社「義生号」を設立し、マッチ貿易で財をなした。神戸に近代的綿糸紡績業が発展するのを見て,中国棉花取引の高シェアを誇り,大株主でもあった鐘淵紡績と関係が深い。一方、神戸西端で三木市に近い神出小束野の開拓にも関与。後に,東亜セメント,大阪莫大小を設立するなどの多角化は,流通から生産過程へ進出する企業家としても知られた有力実業家”であったという。我ながら、知らないことばかりに驚くばかりだ。
孫文記念館は世界中にあるが、日本ではこの移情閣が唯一の記念館だということだ。最後に、記念館としてのアンケート用紙があったので、“日中友好を心から願う。”と書いておいた。これは正直な私の気持である。決して日本が王道を行く状態であるとは言うつもりはないが、あからさまに覇道を求める現中国政府のやり方には反対したい。こういう姿勢が表面的には 現安倍政権を支持するような立場となっていることに情けなさがあるのも事実だ。
記念館を出ようとする所に、“天下為公”との石碑があった。良く見ると孫文の書とあり、脇に説明文があった。それによると概略次のようである。“「天下を公と為す」は礼記によるもので、孫文が好んだ言葉。1924年11月に兵庫県立高等女学校で“大アジア主義”の演説を行った時に、請われて揮毫したもので、現在は神戸高校の“高宝”となっている”、とあった。
外へ出るとコンクリート岸での向こうに旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)が見えた。さすがに午前の審査で疲れが出て来たのか、さらに見学する元気も乏しくなっていたが、ひっそりした様子からこの時は開館してはいないようだったので、そのままスルーして公園の松林を通って、駅に向かい帰途に就いた。

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