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中央公論9月号の原発事故関連記事

中央公論9月号に放射線防護や技術論、環境倫理等の分野で著名な人が発言しているのを見て、大いに興味を持った。その注目記事は次の通り。
○徹底討論“放射線リスクの真実―ジャンクサイエンスに惑わされないために”
………………甲斐倫明、中谷内一也、畝山智香子、松永和紀
○村上陽一郎 “フクシマ以後、いかに「安全」を確立するか”
○加藤尚武 “環境倫理学から見たエネルギー問題―持続可能性への目標転換を”
○世界展望(インタビュー)アービン・ミンスキー“なぜ福島にロボットを送れなかったのか”

まずは、パネル・ディスカッションの紹介。参加者の一人、甲斐教授は放射線保健・リスク学の専門家としてその講演を聴いたことがあり、注目した。ここで、低線量放射線について次のように説明している。“低線量であっても被曝すればリスクがあり、被曝線量が増えると、比例してリスクが大きくなると考えます。・・・ただし、実際には低線量のリスクの評価は非常に難しい。(100ミリシーベルトより)低い線量では疫学的にも実験的にもリスクを検出できません。世界には、自然放射能が年間10ミリシーベルトを超える地域もありますが、発がんリスクの上昇は観察されていません。これは、放射線によるリスクがないからではなく、リスクが小さいため、ほかの要因による発がんと区別できなくなってしまうから、と考えられています。影響があるという前提に立って放射線のリスクを定量的にとらえ、他のリスクなども考慮しながら放射線のリスクを容認できるレベル以下に制限することを目指す、というのがICRP(国際放射線防護委員会)の考え方です。”
このリスクの考え方をベースに福島の現場への政策が実施されているが、ここでの討論参加者は、世間ではそのリスク概念が乏しく、報道もそれを理解せずに“総被曝量年間1ミリシーベルト以下”を絶対的基準であるかのように受け取れる報道をしてしまっていると憂慮している。だが、その基準で現実に“管理するのは無理”であり、国が適正に、このことを伝えていないとも指摘している。つまり、リスク概念とは、ある行為を為す場合、その行為には危険とメリットの両面が伴うものだが、メリットが大きければ 危険はある確率の下で受容することもあり得るという、考え方なのだが、それが普及せずに、絶対的安全を求めていると嘆いている。(絶対的安全などこの世にはあり得ないにもかかわらず。)
それに付随して、副題にあるようにジャンクサイエンスにも懸念を示している。私は知らなかったことだが、ここでは具体的には欧州放射線リスク委員会(ECRR)が、内部被曝のリスクを過大に評価して主張している事例を槍玉にあげており、このECRRを世間がICRPと同等の科学的レベルであると誤解していると指摘している。また“ニセ科学者を学会などが批判しないこと”や“「学者」と呼ばれる方たちがいろいろなメッセージを発していること”がジャンク情報の氾濫のもとだとも言っている。だが、これらの情報の真偽を具体的にどのように見分けるべきか“ジャンクサイエンスに惑わされないために”どうするかという肝心な点は明らかにしてくれてはいない。
最後には いわゆるリスク・コミュニケーションや科学的センスや知識・情報の普及が必要であるという議論に落ち着いている。この議論は重要で、例えばBSEや遺伝子組換え作物の正確な問題点やリスク対応について、一般人を啓発するホンモノの科学者が少ない現状には、私も大いに問題があると思っている。

次が“安全学”の権威、村上陽一郎学長の投稿記事である。
ここでは、リスクの確率論は危険に立ち向かう個人には意味が無く、安心のための“転ばぬ先の杖”論が必要になると説いている。つまり心配なら予め対処しておくという考え方を自らの腫瘍手術を例にあげて説明している。そして、“いま安全のために求められているのは、科学的合理性の中で何がいえるか、「ここまでは安全である」というメッセージをできうるかぎり明確な責任をとれる形で発しつづけること”としている。
そして、最後に やはり原子力に関する科学者や技術者を今後も育成し続けることの重要性を指摘して終わっている。“性急な結論、あるいは世論迎合的な政策を避けつつ、一歩一歩、「より安全」(safer)を目指し、また人々の「安心」をも得られる途を探しつつ前進するほかに、私たちの選択はない”と指摘している。
選挙目当ての世論迎合的な政治家の多い日本では、絶望的な気分になるが、こうした、冷静な見方こそ 今の日本に必要である。また、流布される情報の科学的真偽を見極めるためにも、繰り返しになるが、科学的センスや知識・情報の普及やそれに関連するリスク・コミュニケーションが必要ということになるのだろう。

次に環境倫理学の哲学者・加藤尚武学長の投稿記事。
さすがに博学で話題が多岐に及び、記述に従って思考をトレースに苦労する。しかし、CO2温暖化説を是として議論の前提としている点、現代世界の問題の根源が過剰人口にあるという点を見過ごしていることに少々失望している。
私は太陽光発電には少々懐疑的であるが、“最近の太陽光発電パネルは、製造に投入したエネルギーの10倍以上のエネルギーを産出している”と指摘している。また“CO2の全排出量は、石炭火力発電の25分の1程度であるから(太陽光発電)は合格である。”ところが経済性は弱く、エネルギー白書2010年を引用して“1キロワット時の発電コストが、太陽光49円、地熱8~22円、風力10~14円、水力8~13円、火力7~8円、原子力5~6円となっている。”とし、“太陽光パネルには、大規模化のための技術的課題が残されていて、大量生産化しさえすればコストの競争力がつくという技術的段階にはない。”と指摘している。しかし、この指摘の根拠が理解できない。つまり、どこに太陽光パネルが大量生産できない技術的課題があるというのだろうか。そもそも、“太陽光発電パネルは、製造に投入したエネルギーの10倍以上のエネルギーを産出している”ということなら、それだけで経済性は確保できているはずではないか。いや、ひょっとして、それが20年とか30年という長時間かけてようやく実現できる経済性であるのなら、確かに問題なのかも知れないが、それは大量生産とは関係がない要素である。この辺り、肝心な点なのでもう少し説明が欲しいものだ。
それから 生物多様性が経時的に損なわれて行っていることに相当な危惧を抱いておられるようだ。しかし、生物多様性が失われる最大の原因が 人口過剰にあるということにもう少し目を向けるべきではないかと思うのだ。
だが最後の結論的指摘は示唆に富んでいる。“経済的豊かさが他の豊かさを破壊しているという側面としては、資源の枯渇、自然生態系の劣化、財政赤字の増大、誇示的な消費・所得格差の拡大、伝統的文化の衰退、軍事力の強化、民主主義の空洞化、コミュニティの崩壊、廃棄物の累積等を挙げることができる。”とし、「現在世代と未来世代の利益相反」という構造問題を挙げ、“いわゆる先進国におけるエネルギー政策のもっとも重要な課題は、経済成長の達成から持続可能性の追求へと社会の基本的な目標を転換することである。”として終わっている。

最後に紹介するのが マービン・ミンスキーという認知科学者へのインタビュー記事で話題は多岐に及んでいる。私は全くこの人を知らなかったが、次のような紹介文があった。「人口知能の父」と呼ばれ、MIT人口知能研究所の設立者の一人。哲学に関する『心の社会』等の著書でも知られ、“『2001年宇宙の旅』映画版のアドバイザーとしてもよく知られている。・・・複雑な内容をやさしい言葉で説明できる頭脳明晰さは、多くの若い研究者達を惹きつけてきた”由。
まず、標題にあって私の興味を特に引いた“なぜ福島にロボットを送れなかったのか”へのミンスキーの回答である。ミンスキーはスリーマイル島事故のあった年に、リモコン操作できるロボットをどうやったらできるかという記事を雑誌に発表したが、30年後の今も同じことが起きてしまったと指摘し、“問題は、研究者がロボットに人間の真似をさせることに血道をあげている”ところにあると言っている。それらしい動作はできても、実際の作業、“ドアを開けることも、ましてや何かを修理することもできない。・・・すでに30年を浪費しているにもかかわらず、いまだに研究方針に変化の兆しも見えない”と何度も嘆いている。“人間にとって難しいことは、コンピュータにとっては朝飯前で、人間にとってやさしいことは、研究対象としては無視されてきた”としている。
そして現状のコンピュターの限界についての議論に入って行く。例えば自動翻訳の開発について“コンピュータの知能を上げるかわりに、コンピュータを巨大なデータベース化してきた。”記憶した膨大なデータベースから適切な翻訳文を選んで来る方がコンピュータにとってははるかに容易であり、そのように発展してきた。だから、コンピュータは複雑な内容の文章理解や、否定語の本当の意味を理解できていないのが実状だということだ。
ここから話題は粘菌のライフサイクルやアリの社会、魚や鳥の群れなどの“集合知”つまり“非知能的な個体が集まって非常にすぐれた集団行為を示す事例”についてである。しかし、ミンスキーは、“集合知”には否定的である。生物界の“集合知”は進化の過程で膨大な犠牲を払いながら獲得した特性であり、人間界では“アメリカ人がこぞってブッシュを大統領に選んだ時は、もちろん集団が大間違いをした”と言い、“私自身は、集団の中に一般的な叡智があるとは信じては”いないと断言。その上、フェイスブックやツイッターなどの交流ネットワークに対して、“つまらない考えを持った人達があまりにもたくさんいて、ネットはもうそれほど役に立つものではなくなってきている”と言う。さらに“わずか100人の個人が、知的革命によって西欧の科学を形作ってきたわけで、大衆の「集合知能」のほうは、逆に科学を何百年も停滞させてきた”とまで言っている。確かに、ナチスの出現や日本のかつての戦争への道も、“集合知”の結果であるのだ。
最後に人工知能開発分野での現在の問題を挙げ、30年というような長期的なテーマに立ち向かわずに、2年程度で完了するような開発ばかりしているとしている。具体的には、“一般的な知能を備えたマシーン、あるいは人間の子供たちができるような(次に起きることを予測する)ことができて、そこからさらに(自分で)育っていくことのできるマシーンを作るというような研究をしている人がとても少ない”ということである。

というような次第で、この中央公論2011年9月号は、原発事故に関連して文明論にかかわるような内容が多く、示唆に富んでいて面白い記事が多かったように思う。就中、現代社会の権力の根拠となる“集合知”の形成に、適切で正しい科学的センスや知識・情報の普及とそのためのリスク・コミュニケーションの重要性を再認識するべきと痛感した。

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