The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“忖度”がこの社会の進化を阻むのか―日大アメフト部の騒動に思う
先週は、危機感の薄い日大アメリカン・フットボール部の騒動で殆どのニュースは霞んでしまった。
しかし、週末には各々の状況の進展にともない大小様々なニュースとして噴出した印象だ。
その内の大きなニュースは米朝首脳会談の開催をめぐって変転があったことだ。一体やるのかやらないのか。やるのなら何をどう詰めるのか。
北朝鮮問題の六か国協議参加国の日本は蚊帳の外になりかけている。そこで同じように、六か国協議参加国で影の薄いロシアと首脳会談するというが、何か日本の立場を強くする効果的な政策が打ち出せるのだろうか。特に、プーチンと話し合って拉致被害者の解放に役立つことがあるのだろうか。安倍首相のライフ・ワークはどうなったのか、アホワンコの遠吠えや空念仏になっていないか。否、北方領土をエサに妙な経済協力を約束させられて終わるのがせいぜいではないか。
モリカケ問題はそのままグズグズとますます疑惑は晴れずに、未だに泥沼状態の恒常だ。
愛媛県側の文書・記録が出てきたが、それで愛媛県が、加計学園が、そして首相のいずれがウソをついているのか、不明のままだ。
一方、森友学園問題では財務省側の膨大な文書・記録が公表された。紙の無駄ではないかと思えるほどだ。そして週末には、当事者が保釈され、娑婆に再登場した。このインチキ夫婦があたかも正義漢と見間違うほど爽やかに見え、微笑んでしまうのは何故なのだろうと、不思議な心境になるのは私ばかりだろうか。日本の社会がそこまで邪悪に汚されてしまった結果ではないかとおぞましく思うのだ。検察の政権への忖度すら見えるから、そのように感じるのではないか。
こうしたごたごたの中で、“高度プロフェッショナル制度を含む働き方改革関連法案”では気付けばまた強行採決が行われた。厚労省のこれもインチキなデータを基にして作られて、どんな企業もブラックにならなきゃ損とばかりに、従業員を絞り上げるようになる法案なのだろう。賃金を上げずに、絞り上げることばかりを考える日本の経営者の狭い料簡を実現する法律ではないのか。
これもそれもいみじくも、麻生財務大臣の次の台詞が現政権の何をやっても平気だという意識を代表している。“だって、(内閣)支持率は下がっていない。デショーッ!”
だって、安倍政権も多数を占める自民党から民主的に選ばれたんダモノ。今更、反対と言っても国民の総意でしょっ!
衆愚のなれの果て!アホな国民が邪悪な政権を選んだ結果なのだ。
さて元に戻って、日大アメフト部問題には大いに違和感がある。悪質タックルを実行した日大の選手は騒動にたまりかねたか、単独で記者会見して謝罪した。そして、その行為は指導者の指示によることを明かした。選手であり学生でもある弱い立場にもかかわらず、その潔さは称賛に変わり、社会の厳しい目は指導層に集まった。
しかし指導者の前監督は、“タックルしろというような、信じてもらえないと思うんですが、私からの指示ではございません。ですが、フィールドで起こったことですので、それはスタートからゴールまでの試合は私の責任です。申し訳ございません。”と明言したことで騒動は拡大してしまった。明らかに限りなくウソに見える台詞だった。
それに、そこまで言うのなら前日の当事者・日大選手の発言は真っ赤なウソであり、御自身の尊厳を著しく傷つける発言であったので、その点に怒り心頭となるのが当然であり、それを記者会見で言うべきではなかったかと思われるがそういうそぶりも見せなかった。あたかも、怒りを抑えて配下の選手の行動には全て責任を負うと大見得を切ったつもりだろうか。だが、その試合後の御自身の指示を是認するようなコメントが音声データで報道記者から公開されるマヌケ。
そのうえに御本人は記者会見後、心労のあまり日大病院に入院した、という。ウソは自身の精神と肉体を損なうものだ。ウソ発見器は特に肉体の反応を捉えて機能している。大きなウソによる身体的ダメージはそれだけ大きいのだろう。
日大の弁明を関学は極めて合理的な根拠を挙げて拒否し、今後のアメフト対戦も拒否した。今後日大アメフト部にはゲームをする相手がいなくなり、それだけで部の存続は不可能、廃部は必至だろう。
それにしても、疑惑が生じてグレーな証拠が突き付けられて、言い逃れできなくなると決定的なところでウソをつき続ける姿勢が政界から、日本社会の各分野の小ボスに至るまで、十分に浸透してしまった印象だ。
理不尽な指示を受けて、不正とは思いつつ強い忖度が働いて、実行してしまう。しかし、指示を出した側は事実上責任を回避する。この同じ構図がモリカケ問題でも 透けて見えるのだ。国家の高級官僚が法規制遵守よりも忖度を重視して、国家的記録さえ毀損してしまうのだ。
下の人間が忖度し上をかばう、上の者は責任を回避し、面倒は見てやると言いつつ適当に処理する。どうしようもなくなると、下が上に害が及ばないように指を詰めて落とし前をつける。これはヤクザ映画でよく見られる光景だ。これが日本社会の随所で見られるというのだろうか。日本の警察は暴力団を目の敵のように叩きつくしているが、その精神構造は既に美徳として社会に広く普及し、それが社会の進化つまり近代的市民意識の醸成や真の民主化を著しく阻害していることはないのか。パワハラ、セクハラ、それに伴う暴力は至る所にあるのではないか。日本人の正義感は世界標準からみて、酷く前近代的で屈折してはいないだろうか。
そうしてこうした日本社会のリベラル指標は、女性の社会進出、性差別の縮小に見れるのではないかと思うが、現状では旧来のまま、なんら改革は進まないような気がする。何故ならば、そこに明確なヴィジョンを持った有力な指導者がいないことが一因ではないか。
さて、日大の首脳陣は日頃から周囲のあふれんばかりの忖度に、次第に考える力が退化し、危機管理どころではなかったのだろう。日大の学長という人物も記者会見をしたが、結局は何を言いたいのか論旨不明だった。
山口真由氏の言う飛び切りの“ガハハ系”典型的人物と見えた。昔は豪放磊落との評価になるのだろうが、こういうタイプは一見雑駁に見えるが実は頭の良い人が多く、きめ細かい計算をした上でのパフォーマンスである場合が多く、その落差に魅力を感じたものだったのだろう。しかし、最近は中身が空っぽになってしまった人物がそれを装っていることが多く、結局は忖度頼みのクズばかりではないか。忖度頼みだからこそ、記者会見に意味はないという日大広報の発言も飛び出すのだ。
こうした会見の行われる少し前にアメフト部の部長と言う教員らしき人物に、ある記者が個別にインタビューしていたが、“何も知らないし、現状どういう状態なのかも全く知らない。部に聞いて欲しい。”と言っていた。さらに最近、日大トップの理事長へのインタビュー映像も報道されたが、“(私は)相撲が専門で、アメフトはルールも知らない。だから何も分からない。部に任せている。”という意味のことを言っていた。当該部長とトップまでもが部の問題だと言う。その部を統括する責任者はいないのか。
この大学、巨大すぎて経営管理体制が全くできていないことが分かる。これでは組織としての体を為しておらず、部門部署で勝手な振る舞いを是認していると思われ、放漫経営となっている疑惑はないのだろうか。大学経営を監視・監督する行政はこの国に存在するのだろうか。そうなるとスポーツ庁を離れ、文科省本体の問題になるのではないか。
思うに危機管理とは、組織が営々として築き上げた組織の存在価値(レーゾン・デートールraison d'être)を大きく損なわれる可能性のある場合に発動するべき経営メソッドではないか。つまり、危機管理の前に組織の存在価値は何かを日大の首脳陣が常に意識して敏感であれば、今回のような大騒動には発展しなかったのではないかと思うのだ。
翻って、日大は教育機関としてどのようにそのレーゾン・デートールを考えていたのだろう。日大は元々、東大を頂点とする“官立”大学のように高級官僚や社会的エリート養成とは異なる分野で存在しなければならず、私立の早稲田、慶応と同じような社会の中核的リーダー育成を目指す方向性も選ばなかった。むしろ、社会の底辺を健全に支える大衆に依拠し、その大衆を育成し、健全に底上げするための教育機関を目指すのを建学の精神にしたのではなかったか。だから出身者に小規模事業の社長が日本一多い。かつてそのように聞いたような気がするが、それは誤解だったのだろうか。
50年前学生運動が盛り上がっていた頃、エリートの東大紛争に対して、その対極としての大衆の日大紛争があった。果たして、その後の改革はどうだったのか。日本の学生運動全般の“挫折”に伴い、改革も本格的とはならなかったのだろうか。今や、日大の首脳陣は自らのレーゾン・デートールにすら思いが及ばなくなり、当時同様 金儲けと利権の確保一辺倒に至っているのではないか。今回の騒動で大衆に依拠しようとする日大の姿勢が希薄化している実態を見たような気がするが、それは日大の根本的危機ではないのだろうか。それを日大の教授陣、特に経営学者はどのように分析・評価するのだろうか。一時的な危機管理より、もっと根本的な問題ではないだろうか。
そもそも、日大以外の日本の大学全てで、自らの大学経営に最先端の研究成果を真剣に応用しているのだろうか。そういう真剣さ本気度が薄いことも、日本の社会科学の弱さではないのだろうか。未だに、現実と学問は違うなどとうそぶいていては何の進歩もない。日本は全ての点において進歩のない社会になってしまったのだろうか。
翻って、モリカケ問題ではないが、今や教育すら詐欺師が政界と癒着して暗躍し、利権の対象となっている現実に唖然とせざるをえない。一昔前は、株式会社の教育界進出に警戒感があったが、今や教育、スポーツあらゆることが利権となり、政界と結びつく時代となってしまったのだ。オリンピックはその超巨大な世界の利権のトップ事業なのだ。安倍氏はその文教族の頂点にいるのだ。
一方で、利権に結びつかない基礎的な学問、哲学や基礎科学が放置されている日本の現実に危機感を覚えるが、いかがだろうか。そして昨今の日本の騒動は、全て根深い所でつながっていて、問題が起きるたびに毎回同じようなデジャブ映像を見るように思うが、これこそ停滞社会ではないかと思うが考え過ぎだろうか。
しかし、そういう“忖度”という保身の悪徳の枠外にいた日大の若者が、がんじがらめの統制社会を崩壊させる引き金を引いたのなら未だ希望が持てるような気がする。その勇気ある若者の行動をどう引き受けるかが、日本の“大人”の責任ではないだろうか。或いは今の“大人”がやっぱり忖度にズブズブなのならば、まだまだ他の分野の若者の勇気にも期待しなければならないのだろうか。犠牲者累々となる社会は、真から病んでいる。
せめて選挙での忖度は止めて欲しい。脳死したまま惰性に引きずられることなく、熟考し真摯に向き合ってもらいたいものだ。

しかし、週末には各々の状況の進展にともない大小様々なニュースとして噴出した印象だ。
その内の大きなニュースは米朝首脳会談の開催をめぐって変転があったことだ。一体やるのかやらないのか。やるのなら何をどう詰めるのか。
北朝鮮問題の六か国協議参加国の日本は蚊帳の外になりかけている。そこで同じように、六か国協議参加国で影の薄いロシアと首脳会談するというが、何か日本の立場を強くする効果的な政策が打ち出せるのだろうか。特に、プーチンと話し合って拉致被害者の解放に役立つことがあるのだろうか。安倍首相のライフ・ワークはどうなったのか、アホワンコの遠吠えや空念仏になっていないか。否、北方領土をエサに妙な経済協力を約束させられて終わるのがせいぜいではないか。
モリカケ問題はそのままグズグズとますます疑惑は晴れずに、未だに泥沼状態の恒常だ。
愛媛県側の文書・記録が出てきたが、それで愛媛県が、加計学園が、そして首相のいずれがウソをついているのか、不明のままだ。
一方、森友学園問題では財務省側の膨大な文書・記録が公表された。紙の無駄ではないかと思えるほどだ。そして週末には、当事者が保釈され、娑婆に再登場した。このインチキ夫婦があたかも正義漢と見間違うほど爽やかに見え、微笑んでしまうのは何故なのだろうと、不思議な心境になるのは私ばかりだろうか。日本の社会がそこまで邪悪に汚されてしまった結果ではないかとおぞましく思うのだ。検察の政権への忖度すら見えるから、そのように感じるのではないか。
こうしたごたごたの中で、“高度プロフェッショナル制度を含む働き方改革関連法案”では気付けばまた強行採決が行われた。厚労省のこれもインチキなデータを基にして作られて、どんな企業もブラックにならなきゃ損とばかりに、従業員を絞り上げるようになる法案なのだろう。賃金を上げずに、絞り上げることばかりを考える日本の経営者の狭い料簡を実現する法律ではないのか。
これもそれもいみじくも、麻生財務大臣の次の台詞が現政権の何をやっても平気だという意識を代表している。“だって、(内閣)支持率は下がっていない。デショーッ!”
だって、安倍政権も多数を占める自民党から民主的に選ばれたんダモノ。今更、反対と言っても国民の総意でしょっ!
衆愚のなれの果て!アホな国民が邪悪な政権を選んだ結果なのだ。
さて元に戻って、日大アメフト部問題には大いに違和感がある。悪質タックルを実行した日大の選手は騒動にたまりかねたか、単独で記者会見して謝罪した。そして、その行為は指導者の指示によることを明かした。選手であり学生でもある弱い立場にもかかわらず、その潔さは称賛に変わり、社会の厳しい目は指導層に集まった。
しかし指導者の前監督は、“タックルしろというような、信じてもらえないと思うんですが、私からの指示ではございません。ですが、フィールドで起こったことですので、それはスタートからゴールまでの試合は私の責任です。申し訳ございません。”と明言したことで騒動は拡大してしまった。明らかに限りなくウソに見える台詞だった。
それに、そこまで言うのなら前日の当事者・日大選手の発言は真っ赤なウソであり、御自身の尊厳を著しく傷つける発言であったので、その点に怒り心頭となるのが当然であり、それを記者会見で言うべきではなかったかと思われるがそういうそぶりも見せなかった。あたかも、怒りを抑えて配下の選手の行動には全て責任を負うと大見得を切ったつもりだろうか。だが、その試合後の御自身の指示を是認するようなコメントが音声データで報道記者から公開されるマヌケ。
そのうえに御本人は記者会見後、心労のあまり日大病院に入院した、という。ウソは自身の精神と肉体を損なうものだ。ウソ発見器は特に肉体の反応を捉えて機能している。大きなウソによる身体的ダメージはそれだけ大きいのだろう。
日大の弁明を関学は極めて合理的な根拠を挙げて拒否し、今後のアメフト対戦も拒否した。今後日大アメフト部にはゲームをする相手がいなくなり、それだけで部の存続は不可能、廃部は必至だろう。
それにしても、疑惑が生じてグレーな証拠が突き付けられて、言い逃れできなくなると決定的なところでウソをつき続ける姿勢が政界から、日本社会の各分野の小ボスに至るまで、十分に浸透してしまった印象だ。
理不尽な指示を受けて、不正とは思いつつ強い忖度が働いて、実行してしまう。しかし、指示を出した側は事実上責任を回避する。この同じ構図がモリカケ問題でも 透けて見えるのだ。国家の高級官僚が法規制遵守よりも忖度を重視して、国家的記録さえ毀損してしまうのだ。
下の人間が忖度し上をかばう、上の者は責任を回避し、面倒は見てやると言いつつ適当に処理する。どうしようもなくなると、下が上に害が及ばないように指を詰めて落とし前をつける。これはヤクザ映画でよく見られる光景だ。これが日本社会の随所で見られるというのだろうか。日本の警察は暴力団を目の敵のように叩きつくしているが、その精神構造は既に美徳として社会に広く普及し、それが社会の進化つまり近代的市民意識の醸成や真の民主化を著しく阻害していることはないのか。パワハラ、セクハラ、それに伴う暴力は至る所にあるのではないか。日本人の正義感は世界標準からみて、酷く前近代的で屈折してはいないだろうか。
そうしてこうした日本社会のリベラル指標は、女性の社会進出、性差別の縮小に見れるのではないかと思うが、現状では旧来のまま、なんら改革は進まないような気がする。何故ならば、そこに明確なヴィジョンを持った有力な指導者がいないことが一因ではないか。
さて、日大の首脳陣は日頃から周囲のあふれんばかりの忖度に、次第に考える力が退化し、危機管理どころではなかったのだろう。日大の学長という人物も記者会見をしたが、結局は何を言いたいのか論旨不明だった。
山口真由氏の言う飛び切りの“ガハハ系”典型的人物と見えた。昔は豪放磊落との評価になるのだろうが、こういうタイプは一見雑駁に見えるが実は頭の良い人が多く、きめ細かい計算をした上でのパフォーマンスである場合が多く、その落差に魅力を感じたものだったのだろう。しかし、最近は中身が空っぽになってしまった人物がそれを装っていることが多く、結局は忖度頼みのクズばかりではないか。忖度頼みだからこそ、記者会見に意味はないという日大広報の発言も飛び出すのだ。
こうした会見の行われる少し前にアメフト部の部長と言う教員らしき人物に、ある記者が個別にインタビューしていたが、“何も知らないし、現状どういう状態なのかも全く知らない。部に聞いて欲しい。”と言っていた。さらに最近、日大トップの理事長へのインタビュー映像も報道されたが、“(私は)相撲が専門で、アメフトはルールも知らない。だから何も分からない。部に任せている。”という意味のことを言っていた。当該部長とトップまでもが部の問題だと言う。その部を統括する責任者はいないのか。
この大学、巨大すぎて経営管理体制が全くできていないことが分かる。これでは組織としての体を為しておらず、部門部署で勝手な振る舞いを是認していると思われ、放漫経営となっている疑惑はないのだろうか。大学経営を監視・監督する行政はこの国に存在するのだろうか。そうなるとスポーツ庁を離れ、文科省本体の問題になるのではないか。
思うに危機管理とは、組織が営々として築き上げた組織の存在価値(レーゾン・デートールraison d'être)を大きく損なわれる可能性のある場合に発動するべき経営メソッドではないか。つまり、危機管理の前に組織の存在価値は何かを日大の首脳陣が常に意識して敏感であれば、今回のような大騒動には発展しなかったのではないかと思うのだ。
翻って、日大は教育機関としてどのようにそのレーゾン・デートールを考えていたのだろう。日大は元々、東大を頂点とする“官立”大学のように高級官僚や社会的エリート養成とは異なる分野で存在しなければならず、私立の早稲田、慶応と同じような社会の中核的リーダー育成を目指す方向性も選ばなかった。むしろ、社会の底辺を健全に支える大衆に依拠し、その大衆を育成し、健全に底上げするための教育機関を目指すのを建学の精神にしたのではなかったか。だから出身者に小規模事業の社長が日本一多い。かつてそのように聞いたような気がするが、それは誤解だったのだろうか。
50年前学生運動が盛り上がっていた頃、エリートの東大紛争に対して、その対極としての大衆の日大紛争があった。果たして、その後の改革はどうだったのか。日本の学生運動全般の“挫折”に伴い、改革も本格的とはならなかったのだろうか。今や、日大の首脳陣は自らのレーゾン・デートールにすら思いが及ばなくなり、当時同様 金儲けと利権の確保一辺倒に至っているのではないか。今回の騒動で大衆に依拠しようとする日大の姿勢が希薄化している実態を見たような気がするが、それは日大の根本的危機ではないのだろうか。それを日大の教授陣、特に経営学者はどのように分析・評価するのだろうか。一時的な危機管理より、もっと根本的な問題ではないだろうか。
そもそも、日大以外の日本の大学全てで、自らの大学経営に最先端の研究成果を真剣に応用しているのだろうか。そういう真剣さ本気度が薄いことも、日本の社会科学の弱さではないのだろうか。未だに、現実と学問は違うなどとうそぶいていては何の進歩もない。日本は全ての点において進歩のない社会になってしまったのだろうか。
翻って、モリカケ問題ではないが、今や教育すら詐欺師が政界と癒着して暗躍し、利権の対象となっている現実に唖然とせざるをえない。一昔前は、株式会社の教育界進出に警戒感があったが、今や教育、スポーツあらゆることが利権となり、政界と結びつく時代となってしまったのだ。オリンピックはその超巨大な世界の利権のトップ事業なのだ。安倍氏はその文教族の頂点にいるのだ。
一方で、利権に結びつかない基礎的な学問、哲学や基礎科学が放置されている日本の現実に危機感を覚えるが、いかがだろうか。そして昨今の日本の騒動は、全て根深い所でつながっていて、問題が起きるたびに毎回同じようなデジャブ映像を見るように思うが、これこそ停滞社会ではないかと思うが考え過ぎだろうか。
しかし、そういう“忖度”という保身の悪徳の枠外にいた日大の若者が、がんじがらめの統制社会を崩壊させる引き金を引いたのなら未だ希望が持てるような気がする。その勇気ある若者の行動をどう引き受けるかが、日本の“大人”の責任ではないだろうか。或いは今の“大人”がやっぱり忖度にズブズブなのならば、まだまだ他の分野の若者の勇気にも期待しなければならないのだろうか。犠牲者累々となる社会は、真から病んでいる。
せめて選挙での忖度は止めて欲しい。脳死したまま惰性に引きずられることなく、熟考し真摯に向き合ってもらいたいものだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( )

« 山田ズーニー... | 桓武帝の開い... » |
コメント |
コメントはありません。 |
![]() |
コメントを投稿する |