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大徳寺・黄梅院等拝観

先週末・書店で“アホな指導者の下でどう生き抜くか”という本を見かけた。へぇー、とうとうこんな表題の本が出るようになったのか、思わず手に取ってみた。日本の首相を具体的にどのようにこき下ろしているのか、と思いつつ巻頭序言を読んで、そしてガッカリ↓英国の直近3代の首相を批判するものだった。他国の首相の事を言う前に、自国の首相を批判するのが当たり前だろう、と思うがまぁ、この著者にしてそうなんだろう。それにここでは“指導者”ではなく“政治家(屋)”がふさわしいのではないか。
ところでその緒言内容はブレグジットがバカな政策で、それに英国首相が地道を上げているのは愚かなことだ、英国民もその愚かさに気付き始めていてやがてまともな決定を下すだろう、というような論調だった。しかし実際は、英国民は総選挙で“愚かな決定”を下した。どうやらこの著者の目論見は大きく外れてしまったようだ。他国の事で紙面を尽くさずに、どうして自国の事を言わないのか、そんなに政権に少しでもおもねりたいのか、忖度した結果、失敗した本となったのではないか。
そもそも英国人はヨーロッパ大陸の人とは違う発想をするものだ。法のありようも、英米法と大陸法2つの流れがあるではないか。だから大陸側から、あれこれ指図されるのがたまらなく嫌だったのかも知れない。ことほど左様に、余所者が直ちにブレグジットの正邪判断を下せるものでもあるまい、これはそんなレベルの問題のような気がする。
この著者、常に情報は沢山入手しているのだろうが、人類社会の歴史の本質を掴んでいない、文明観・社会観が浅い気がする。だから誤った結論を下すのだ。“道州制”などはその最たるものだ。それ以外の内容も大したこと無さそうなので、買うのは止めた。若い時は何だかんだと読んでは見たが、クソバカバカシイ。

補正予算で赤字国債2.2兆円発行という。消費税増税の挙句、一層の不景気感が色濃くそこはかとなく漂って来たら、赤字国債、これでプライマリー・バランスはどうなっているのか。元の木阿弥、これぞアホな政治家の判断ではないのか。

今週の日曜朝、他番組の録画を見ながら日曜討論を見てしまった。日本人のノーベル賞受賞についてどう考えるかを通じて、日本の科学技術開発政策をどうするのかを議論する場だったように見た。だが残念ながら、1世代古い過去を見ながら将来を語っているように思え、これが日本の現状なのだとまたガッカリした↓そもそもノーベル賞は過去の業績を現在から照らして評価するものなので、日本の華々しい過去を称賛するだけで終わってしまう議論になるのだ。これは全く時間の無駄。ここでの議論の俎上には日本の情報に関する科学技術の遅れについて上ることはなかった。せめてノーベル賞について限っても、なぜ経済学賞受賞者は全くいないのかの議論もなかったように思う。脳が腐っているというよりも既に干からびて化石化した人々が主導権を握って議論しても時間の無駄なのだ。一方で日本は有難くも化石賞を受賞している。何だか毎年受賞しているような気がするが、これが何故かについて議論する方が有意義ではないか。
要は、化石化した脳では“過去の技術の改良”しか考えられないのだ。だから石炭火力発電にすがろうとするのだ。CO2排出を減らすにはそれを漸減する技術では有効ではなく、排出しない技術が必要なのだと世界は言っている。のんびりしている時間的余裕はないのだ。日本の議論では飛躍した革新は出来ないのは明らかだ。既存の利権絡みの中では化石発想しかなく、既に死滅した19世紀の技術にすがっているのだ。


さて、12月初め京都に行く用があり、その日の午前中に、大徳寺 黄梅院の特別公開(2019年10月5日~12月8日)と紅葉を見に行った。この時期の京都観光のネットを見て最初に出てきたのが大徳寺で、これまで訪れたことはなかったが、一休和尚の寺であることだけは知っていた。地下鉄・北大路駅から西向きに歩いて約20分だった。境内には総門より進入した。大徳寺については、例によってWikipediaによれば次のようだ。
“大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺院で、臨済宗大徳寺派の大本山である。山号は龍宝山。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう:播磨国守護・赤松氏の家臣・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)の子)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
開基・大燈国師宗峰妙超は赤松円心の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源という。[その後花園上皇や後醍醐天皇の支持を受けたが、足利政権からは疎んぜられた。]
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。・・・・このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。
大徳寺は塔頭24を有する。2015年現在、大部分の塔頭で一般参詣を認めておらず、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院である。”
寺の所在は紫野という所だが、ここは平安時代は貴族の狩場だったらしい。

黄梅院についてはHPによれば次のようだ。現地でのガイドもほぼ同様の説明だった。織田信長が父君を思って寄進したのがきっかけで、その後豊臣秀吉、千利休、小早川隆景と有力者が支持した。
“臨済宗大徳寺派大本山、大徳寺の塔頭寺院。永禄5年(1562)、当時28歳の織田信長が初めて上洛した際に、父・信秀の追善菩提のために小庵「黄梅庵」を建立したことに始まります。本能寺の変によって信長が急逝すると、羽柴(後の豊臣)秀吉がこれを徐々に増築し、天正17年(1589)に「黄梅院」と改めました。
庫裡、鐘楼、客殿などは小早川隆景が寄進したもので、鐘楼に使用されている釣鐘は加藤清正が献上したもの、秀吉の軍旗「千成瓢箪」を象った空池を持つ「直中庭」を千利休が作庭するなど、桃山時代の戦国大名、文化人と非常に縁の深い寺院です。”

秋季公開で域内は入口付近以外写真撮影禁止。普通は庭は可のところが多いが何だか厳し過ぎる印象だ。
晩秋ではあったが紅葉には間に合った。また少々冷え込むが、それが少しの緊張感を伴い拝観にはちょうど良い。建物に入ってすぐに見えるのが、直中庭で千利休の66歳の作庭という。何気ないが、何故かしら気分がすっきりと落ち着く。瓢箪型の池、加藤清正の朝鮮から持ち帰った灯篭がある。
本堂前庭は破頭庭(はとうてい)とよばれ白砂の庭。この本堂の北側の作仏庭の東側の立石を滝にみたてて水源とし、庫裏との間から南の破頭庭の海に至るという構成になっている。この本堂と庫裏の間に白砂の狭い庭があるが、そこに先細りの矩形の石が置かれていて、庫裏から本堂への渡り廊下の火灯窓から覗くと、大海原を行く船の上にある感覚になる、と言われる。
ここの庫裏(厨房)も重文だが、厨房は火災で焼失する事例が多いが、ここは焼けずに残った珍しい事例で禅寺で現存する最古の庫裏だという。棟は高く本堂と変わらず、廊下は天井が無く吹き抜けだったのが印象的だった。

予定より早いので、北隣の龍源院も開いていたので拝観した。龍源院は大徳寺南派の本庵とされ、大徳寺中最も古い寺とのこと。文亀2年(1502年)に大燈国師より8代の法孫・東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登の畠山義元、豊後の大友義長らが創建したとある。
黄梅院の直中庭に相当する庭はなかったが、それ以外は黄梅院によく似た建物構成だ。庫裏と方丈の間にも東滴壷という白砂の小さな庭がある。何気ない庭だが、何だか面白い。だから、恐らく後に黄梅院の方がこれをまねたものだろう。

それでも未だ時間があるので、特別拝観をやっていた興臨院にも行った。興臨院は大永年間(1521年- 1528年)に、能登国の守護・畠山義総が大徳寺86世の小渓紹怤(仏智大通禅師)を開祖として建立、以来畠山家菩提寺となる。その後、畠山家が没落するが天正14年(1586年)に加賀百万石の基礎を築いた戦国大名・前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となり庇護される。現本堂は天文2年(1533年)頃のものとある。
ここも本堂周囲のお庭が楽しい。黄梅院より龍源院に近い建物構成だ。

興臨院から出て、左手に巨大な山門があるが、これが利休切腹の原因となった門とのこと。この山門に利休の木像を据えて、その下を秀吉にくくらせようとする陰謀と疑われて、激怒した秀吉が利休に切腹を命じたもの。これを見た時は、そんな門とは知らず不明を恥じる。11時半近くになり、大徳寺南門より辞去。

大徳寺内それぞれの寺院・塔頭での枯山水・石庭の競作が見られて面白い。大徳寺は室町時代を通じて興隆した寺院であることが分かった。また一つ京都を知った気持ちになって満足だった。だがこれでは未だ大徳寺の全容を見た訳でもないので、残りはまたいつかのお楽しみとしたい。残念だったのは帰り道に目当ての蕎麦屋さんが見つからず、烏丸の百貨店でカレーを食べたこと、くらいだった。


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