The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“苫野一徳 特別授業『社会契約論』”を読んで
第3次補正予算による新型コロナウィルス対策が出た。それは、①感染防止策が6兆円②コロナ後に向けた経済構造の転換と好循環の実現が51.7兆円③国土強靱(きょうじん)化のための公共事業が5.9兆円、だという。
ある解説報道によれば、安倍政権下での1・2次補正予算で現金給付19.2兆円だったのが今回ゼロ、新型ウィルス対策24.6兆円だったのが15%減、企業の資金繰り対策58.3兆円は65%減だという。1・2次補正予算から比べると何に重点なのか不明で、ショボイ。これで新型ウィルス対策や経済対策になるのか。医療関係者への支援金が必須なのではないのか。何が重点施策なのか不明で、“ハメツの刃”にならなければ良いのだが。
ある政治記者が首相御本人にインタビューしたが、訊きもしないのにGO TOについて熱く語った、という。つまり、GO TOが地域経済を支える十分のものと信じ込んでおり、来年春にはワクチン接種が可能となり問題は終息するとも信じ込んでいるかのようだった、というのだ。これ以上、他人が何を言っても聞かない姿勢のようだ。
一つのシナリオを信じ込むのは、愚人の冒す過ちだ。一国の宰相がこれでは困る。3案くらいは必要だろう。1案がダメと見極めたら次の策を打つのが普通である。さスガにアホアホの御本尊だ。医療崩壊のリスクが異様に高まっているにもかかわらずこれでは、何だか無策で“GO TOハメツ”にひた走っている印象だ。
とにかく首相は自己責任で解消する問題と思っているかのようだ。感染するのも感染した後、どう対処するかというのも自己責任なのであろう。こうした自己責任も負えない年寄りは、巨額の財政赤字のより大きな負担でしかないので、“死ぬのも自由”と言いたいのであろう。財政・経済の最優先。これが勇猛果敢な政治的判断なのだろうか。
こうした自己責任の果てが医療崩壊となるのならば、それは理不尽ではないのか。そこに国家の政治を担う政府の責任はないのか。一体、どういう段階に至れば公助が登場するのであろうか。否、自衛隊医官の派遣で終わりなのか。これでは政府の公的役割を果たしているとは言い難いのではないか。
その上、一国を預かる首相が外国製のワクチンにその政策の主要部分を頼る意識に、問題ないのだろうか。いかに、国際的枠組みCOVAXファシリティーに参加しているからと言って、国際的詐欺とまでは言わないまでも海外への不適切な利得供与とはならないリスクは全くないのだろうか。何故そこまで、海外のワクチン開発に期待し、国内の意欲ある開発者に資する意志はないのだろうか。補正予算にどれほどの開発費を計上したのか。欧米のワクチン開発予算と比較して10分の1にも満たないとの報道もあったようだ。
売国的意識はそこまで血肉化して何ら恥じるところはないのは何故なのだろうか。そんな意識は前政権の時より一層拍車がかかっている印象がある。そういう日本の指導層の意識に怒り心頭で、憤死した三島由紀夫の遺志を何と考えているのだろうか。
首相もようやくGO TOキャンペーンの一部停止を決断したようだとの報道がギリギリで飛び込んできた。週明けどのように推移するのか注目するべきだろう。だが恐らく無策であり、期待はできない。何故ならば、政府の対策シナリオは先に示した1案しかない様子だからだ。
それにしても、やはり専門家の間にもいろいろ誤った議論をするものがあり、いたずらに“新理論”に飛びつくのも問題が多いようだ。例えば、“目玉焼き理論”を唱える学者が居た。曰く、感染域には核となるゾーンがありそこで燃え盛ってもいずれ鎮火するものだという。核の鎮火が起きれば、感染拡大は治まると言っていた。しかし、より多い継続的データによれば、確かに感染の核はあるが感染第1~3波全ての感染での核となり続けており、種火のようになってい鎮火した様子はない。しかもこの第3波ではその目玉が最初の核域の周辺に散らばって、別の核を形成しつつあるのが事実だ、という。
ある感染症の専門家がずっと以前の感染拡大当初に指摘していたが、感染域の核が散らばると医療崩壊が始まると言っていたのを思い出したのだ。非常にヤバイ時期に至っていることが鮮明となりつつある。
このNHK特集で言っていたが、自分のコミュニティの外の人物との接触には十分な対策を企図する必要がある。
さて、先週は“苫野一徳 特別授業『社会契約論』”を読んだので報告したい。これはNHK出版の“別冊NHK100分de名著 読書の学校”シリーズの1冊で、自由学園の中高生に向けて苫野一徳准教授の行った4日間の講演を元にしたムックである。中高生向けであっても、それが基本であれば一旦読むべきであろう。こうした基本を知らずして大きな顔はできないはずだが、現実にはそうした“専門家”が多すぎるように思う。だから的外れなコメントがしばしば放たれているのだ。これが反知性のアホアホ社会なのだ。そして政策も世界標準から見るとピントが外れるのだ。
前回、既に次の3冊を読んで、その若干のコメントを行った。
①西研[著]“ルソー・エミール~自分のために生き、みんなにために生きる”NHK「100分de名著」ブックス
②福田歓一[著]“ルソー”(岩波現代文庫)
③ルソー[著], 青柳瑞穂[翻訳]“孤独な散歩者の夢想”(新潮文庫)
しかし、今一歩“社会契約論”について突っ込んだ議論が理解できていないので、“社会契約論”の基本をこの本で理解する手掛かりにしたかったのだ。
ルソーの言う重要キィ・ワード“一般意思”とは何か。
ホッブスのいう“万人の万人に対する戦争”に対し、“人民は支配者を選び、彼に統治してもらう必要がある”し、その“統治者の意志に従う必要がある”。しかし、それが苛烈な意志であっても従えるか。
それに対し、ルソーは“人民の意志を持ち寄ることで、人民の利益になる合意を見出し合い”、それを“一般意思”として“社会を統治しなければならない”として、人民主権の概念を確立した。これにより人民を害する統治者の登場を拒むことができるとした。
ホッブス直後のロックは統治者から人民の人権を守るものとして、“天賦人権論”つまり“神が人の自己保存権としての「自然権」である「抵抗権」を認めた”ということに対し、ルソーは“一般意思”概念を確立することで、統治の仕組としての人民主権を政治的な装置にしたと言える。
この人民の利益の中心にあるのが“みんなの自由”であり、“みんなの利益になる合意”であり、そのため一旦合意があってとしても、その後の社会条件の変化に伴い不都合が生じた場合、それには変更可能な柔軟性が必要である。“一般意思はつねに異議申し立てに開かれていることが重要”なのだ。
この一般意思の形成が人民主権の基礎・根幹であり、“これのみが、統治の、そして法の「正当性」の原理である”。この一般意思は“すべての人を一つの絶対的な意志のもとに服従させようという全体主義とはまったく違う”のであり、“誰かの自由を犠牲にすることを正当化する全体主義と同一視”できない。
こういう意識がルソー後、人類社会に次第に浸透して常識化したのは事実だ。“これは、人類数万年の歴史から見ればほんのちょっと前に、驚くべき「精神の大革命」が起こったということ”だ。ルソーの“『社会契約論』を大きな源流として、民主主義の考えが2~3世紀の時間をかけて少しずつ世界中に広がっていったことで、わたしたちは感受性のレベルでいわば生まれ変わった”ことになった、と著者は評している。
ルソーに“自然に帰れ”は付きものの概念であると思われているが、“太古の「自然状態」に戻ることを説いたものではない”と著者は指摘している。これは“人間の自然(ネイチャー)、つまり人間本性(ヒューマンネイチャー)のことと理解すべき”であるという。
例えば、子どもの“言葉が発達してくる時期になると、子どもは「自分で学ぶ」ことができるようになる。それが「自然」なこと”だが、多くの大人は子どもに禁止や義務の指示をし、子ども自身“本来であれば自然に成長するはずだった考える力を抑え込んで”いる。これが良いことではあるまい。
“『エミール』では、自然とは人間の「本来の傾向」のこと”であり、“人間存在の‘本質’を洞察しない限り、どんな社会論も、あるいは教育論も、決して‘原理的’たりえない”のだ。ルソーの人間理解の透徹した目は驚嘆するべきであろう。
ルソーが指摘するように“どんな社会も。成員の「合意」によってつくられるもの”であり、“「合意」だけが正当性の根拠”なのだ。そうでなければ戦争になる。“ヘーゲルの言葉を借りれば、自由のための「生死を賭する戦い」が勃発する”ことになる。
“国家(政治体)は、そのような「社会契約」によってつくられるべきものである。”したがってルソーは“政治体はそれを構成するいかなる個人も害することができない。”と言う。こうしてわたしたちは、国家をつくることによって自己保存が可能となり、“「みんながみんなの中で自由になる」ことを実現”できるのである。
したがって、こうした“自由”は社会契約によって一人でいる“自然状態”にある自由より、“ずっと強固な「社会的自由」を手に入れることができる”のである。逆に、こうした社会契約の下では“自然的自由”の主張はできなくなり、“自己保存のために何をしてもいいというわけには”いかないことになる。これがルソーの言う“「自由であるよう強制される」の意味”であり、“「自然的自由」ではなく、「社会的自由」を追求するよう強制されている”ことになる。
“ここにはじめて、相互の義務と権利という考えが生じる”。“おたがいの生命、身体、財産などの所有権(人権)の相互承認はその基底となるべき約束”となる。
こうして、“「みんなの意志を持ち寄って見出された、みんなの利益になる合意」つまり一般意志”に“基づかない国家は、正当性を持ちえない”のである。
だから、次のトートロジー(同語反復)が成立する。“政治的正しさとは、それがみんなの利益をめざすところにある。みんなの利益をめざすものを一般意志という。だから一般意志は政治的正しさそのものである。”と著者は指摘する。
ところで、この“一般意志”は“全体意志”ではないという。全体意志は「全員の個別意志の総和」であるが、“一般意志とは、全体意志から「衝突し合う私的な利益」を差し引いて、みんなの利益になるものとして見出された合意のことだとルソーはいう”のだと著者は指摘している。
このようにルソーを学んで来れば、“民主政治とは人民による、人民のための人民の「一般意志」を実現する技芸(art)”であることが解る。Art技芸という言葉も極めてナイーブで意味深長だが、この“一般意志”の形成には極めてデリケートな条件が要求される。“一つは、すべての人に(必要な)情報が行き届いていること。もう一つは、人びとが前もって根回しをしない仕組みを整えること”(括弧内筆者)であるという。“根回しをすると、一人ひとりの意志がちゃんとすくい上げられない”。だから“政治的な結社(政党)をつくってはならない”とルソーは言っているという。つまり、そこには多数決万能で党派主義の我々の常識が通用しないのは新鮮だ。“結社のそれぞれの意志は、結社の成員にとっては一般意志であろうが、国家にとっては個別意志となる。”ここではまして“説明責任の放棄”や“強行採決”は論外であることが肝に銘じられる。
次に、一般意志を背景にした統治者の究極の指示にどう応えるかの問題が提起されている。ルソーは“戦争を想定して”次のように述べているという。
“(一般意志を背景にして)統治者が市民に、「汝は国家のために死ななければならぬ」と言うときには、市民は死ななければならないのである。なぜならこのことを条件としてのみ、市民はそれまで安全に生きてこられたからである。”(括弧内筆者の追加)
ここでは“一般意志を背景にした統治者”が前提になっているので、全体主義政府が“お国のために!”と言っているのとは全く異なることは明白である。しかし、著者は論を繋ぐ。ルソーの時代は狭いヨーロッパ世界で“年中行事のように飽くことなく戦争を続けていた”のであり、このため後のルソーに大きな影響を受けた哲学者カントは『永遠平和のために』を書いた。この思想が150年後の第二次世界大戦後、国際連合として結実した事実がある。
そして、民主主義国家の間での戦争はほとんど起きていないと著者は指摘する。なるほど民主主義国家同士のは記憶の限りでは、フォークランド紛争くらいであろうか。他は大抵、公衆啓蒙化の弱い地域での紛争・戦争である。世界の覇権を狙う隣国や独裁者の持続可能性を主張する近隣国の公衆啓蒙は十分だとは思えない。
この一般意志の具現化が「法」である。政治体(国家)の法を作る権限は、その政治体(国家)の構成員にある。“法は一般意志の行為だからである。統治者は法律よりも上位に立つのかと、問うまでもない。統治者も国家の[構成員の]一員だからである。”
だから、政治体(国家)の構成員(市民)は“それ相応に教育(啓蒙)されているのでなければならない”。つまり、“公衆が啓蒙されると、社会の知性と意志が一致するようになり、さまざまな部分がきちんと調和するようになり、ついには全体が最大の力を発揮するようになる。”とルソーはいみじくも言った。
人民の啓蒙進化に応じて歴史は進化する、それは紆余曲折があり遅い速度だが、先の国際連合の結成を見ても分かる道理だ。
ルソーも学ばず、アホアホのままでは世界に取り残されるだけなのだ。世界はSDGsで“誰も取り残さない”とは言ってはいるが、やってるフリで“お勉強”もしなければ気付かぬうちに取り残されるだけなのだ。
後の歴史学者が言った“権力は絶対的に腐敗する”ことを、18世紀のルソーは既に知っていた。腐敗しては“一般意志に基づく国家は終わり”だ。これを防ぐために“「人民の集会」をつくれ!ルソーはそう訴え”ているという。そして集会開催の都度二つの議題を採決せよとしている。
“第一議案・主権者は政府の現在の形態を保持したいと思うか。第二議案・人民はいま行政を委託されている人々に、今後も委託したいと思うか。”
たしかに、面倒だがこの確認は都度必要のような気がする。しかし、これは近代では一旦憲法で保障されるものとなっているので、確認作業はしていない。その確認作業が無いからこそ、日本では憲法が形骸化してしまっているかのようだ。
この“人民の集会”の構成員をどうするのか、代議制にするのか、スイスのように直接民主制にするのかが問題となる。それは“「一般意志」をより十分に見出し合うためには、代議制と直接民主制(国民投票、国民発案制、住民集会など)をどのようにミックスし、相互に補完していけばよいかと考えるほかない”のだろう、と言っている。
しかし、日本では直接民主制に憧れがあるようだが、国民投票で失敗した例がブレグジットに見られるように、一概にベスト・ソリューションではないのかも知れない。もっとも、ブレグジットが一概に“失敗”だとは言えないのかも知れない。要は、今後の慎重な研究の結果によるのであろう。
『社会契約論』の最後にルソーは“公民宗教”の必要性を提唱しているという。恐らく、これを公衆啓蒙家の核にしようと考えたのであろう。ここへ来て、ようやく18世紀的発想に何だかホットする側面もある。
“ルソーの信奉者でもあった独裁者ロベスピエールは、1794年、シャン・ド・マルクス広場で「最高存在の祭典」なるものを執り行”った。“すでに革命はキリスト教をずいぶんと破壊していましたが、ここに至って、ついにキリスト教の神に代わる「最高存在」さえも表舞台に持ち出された”という。独裁者は時として滑稽でバカなことをするものだ。
しかし著者は単純に小ばかにしないで、“寛容の精神の涵養をはじめ、宗教は民主主義に資するもの足りうるはず”だと言っている。
この本の最後では著者が講演相手だった自由学園の生徒たちと質疑応答している。そこで生徒たちは、いじめ一因となっている“スクール・カースト”の問題を提起している。著者は、これが“万人の万人に対する戦争”という“空気”の結果であろうと推測し、まさしく“クラスや学校での「社会契約」”を提案している。これが実験的に成功すれば良いと思われる。
以上が、私のルソー『社会契約論』の“お勉強ノート”である。ホッブスの“万人の万人への戦争”を防止するのは人民による人民のための人民の“社会契約”であることが分かった。また一般意思形成には公衆の啓蒙化が重要なポイントであり、それが十分になれば戦争の危機は薄れる可能性は高くなる。或いは、学校での“社会契約”が“いじめ”防止のツールとなりうるかも知れないと分かった。

ある解説報道によれば、安倍政権下での1・2次補正予算で現金給付19.2兆円だったのが今回ゼロ、新型ウィルス対策24.6兆円だったのが15%減、企業の資金繰り対策58.3兆円は65%減だという。1・2次補正予算から比べると何に重点なのか不明で、ショボイ。これで新型ウィルス対策や経済対策になるのか。医療関係者への支援金が必須なのではないのか。何が重点施策なのか不明で、“ハメツの刃”にならなければ良いのだが。
ある政治記者が首相御本人にインタビューしたが、訊きもしないのにGO TOについて熱く語った、という。つまり、GO TOが地域経済を支える十分のものと信じ込んでおり、来年春にはワクチン接種が可能となり問題は終息するとも信じ込んでいるかのようだった、というのだ。これ以上、他人が何を言っても聞かない姿勢のようだ。
一つのシナリオを信じ込むのは、愚人の冒す過ちだ。一国の宰相がこれでは困る。3案くらいは必要だろう。1案がダメと見極めたら次の策を打つのが普通である。さスガにアホアホの御本尊だ。医療崩壊のリスクが異様に高まっているにもかかわらずこれでは、何だか無策で“GO TOハメツ”にひた走っている印象だ。
とにかく首相は自己責任で解消する問題と思っているかのようだ。感染するのも感染した後、どう対処するかというのも自己責任なのであろう。こうした自己責任も負えない年寄りは、巨額の財政赤字のより大きな負担でしかないので、“死ぬのも自由”と言いたいのであろう。財政・経済の最優先。これが勇猛果敢な政治的判断なのだろうか。
こうした自己責任の果てが医療崩壊となるのならば、それは理不尽ではないのか。そこに国家の政治を担う政府の責任はないのか。一体、どういう段階に至れば公助が登場するのであろうか。否、自衛隊医官の派遣で終わりなのか。これでは政府の公的役割を果たしているとは言い難いのではないか。
その上、一国を預かる首相が外国製のワクチンにその政策の主要部分を頼る意識に、問題ないのだろうか。いかに、国際的枠組みCOVAXファシリティーに参加しているからと言って、国際的詐欺とまでは言わないまでも海外への不適切な利得供与とはならないリスクは全くないのだろうか。何故そこまで、海外のワクチン開発に期待し、国内の意欲ある開発者に資する意志はないのだろうか。補正予算にどれほどの開発費を計上したのか。欧米のワクチン開発予算と比較して10分の1にも満たないとの報道もあったようだ。
売国的意識はそこまで血肉化して何ら恥じるところはないのは何故なのだろうか。そんな意識は前政権の時より一層拍車がかかっている印象がある。そういう日本の指導層の意識に怒り心頭で、憤死した三島由紀夫の遺志を何と考えているのだろうか。
首相もようやくGO TOキャンペーンの一部停止を決断したようだとの報道がギリギリで飛び込んできた。週明けどのように推移するのか注目するべきだろう。だが恐らく無策であり、期待はできない。何故ならば、政府の対策シナリオは先に示した1案しかない様子だからだ。
それにしても、やはり専門家の間にもいろいろ誤った議論をするものがあり、いたずらに“新理論”に飛びつくのも問題が多いようだ。例えば、“目玉焼き理論”を唱える学者が居た。曰く、感染域には核となるゾーンがありそこで燃え盛ってもいずれ鎮火するものだという。核の鎮火が起きれば、感染拡大は治まると言っていた。しかし、より多い継続的データによれば、確かに感染の核はあるが感染第1~3波全ての感染での核となり続けており、種火のようになってい鎮火した様子はない。しかもこの第3波ではその目玉が最初の核域の周辺に散らばって、別の核を形成しつつあるのが事実だ、という。
ある感染症の専門家がずっと以前の感染拡大当初に指摘していたが、感染域の核が散らばると医療崩壊が始まると言っていたのを思い出したのだ。非常にヤバイ時期に至っていることが鮮明となりつつある。
このNHK特集で言っていたが、自分のコミュニティの外の人物との接触には十分な対策を企図する必要がある。
さて、先週は“苫野一徳 特別授業『社会契約論』”を読んだので報告したい。これはNHK出版の“別冊NHK100分de名著 読書の学校”シリーズの1冊で、自由学園の中高生に向けて苫野一徳准教授の行った4日間の講演を元にしたムックである。中高生向けであっても、それが基本であれば一旦読むべきであろう。こうした基本を知らずして大きな顔はできないはずだが、現実にはそうした“専門家”が多すぎるように思う。だから的外れなコメントがしばしば放たれているのだ。これが反知性のアホアホ社会なのだ。そして政策も世界標準から見るとピントが外れるのだ。
前回、既に次の3冊を読んで、その若干のコメントを行った。
①西研[著]“ルソー・エミール~自分のために生き、みんなにために生きる”NHK「100分de名著」ブックス
②福田歓一[著]“ルソー”(岩波現代文庫)
③ルソー[著], 青柳瑞穂[翻訳]“孤独な散歩者の夢想”(新潮文庫)
しかし、今一歩“社会契約論”について突っ込んだ議論が理解できていないので、“社会契約論”の基本をこの本で理解する手掛かりにしたかったのだ。
ルソーの言う重要キィ・ワード“一般意思”とは何か。
ホッブスのいう“万人の万人に対する戦争”に対し、“人民は支配者を選び、彼に統治してもらう必要がある”し、その“統治者の意志に従う必要がある”。しかし、それが苛烈な意志であっても従えるか。
それに対し、ルソーは“人民の意志を持ち寄ることで、人民の利益になる合意を見出し合い”、それを“一般意思”として“社会を統治しなければならない”として、人民主権の概念を確立した。これにより人民を害する統治者の登場を拒むことができるとした。
ホッブス直後のロックは統治者から人民の人権を守るものとして、“天賦人権論”つまり“神が人の自己保存権としての「自然権」である「抵抗権」を認めた”ということに対し、ルソーは“一般意思”概念を確立することで、統治の仕組としての人民主権を政治的な装置にしたと言える。
この人民の利益の中心にあるのが“みんなの自由”であり、“みんなの利益になる合意”であり、そのため一旦合意があってとしても、その後の社会条件の変化に伴い不都合が生じた場合、それには変更可能な柔軟性が必要である。“一般意思はつねに異議申し立てに開かれていることが重要”なのだ。
この一般意思の形成が人民主権の基礎・根幹であり、“これのみが、統治の、そして法の「正当性」の原理である”。この一般意思は“すべての人を一つの絶対的な意志のもとに服従させようという全体主義とはまったく違う”のであり、“誰かの自由を犠牲にすることを正当化する全体主義と同一視”できない。
こういう意識がルソー後、人類社会に次第に浸透して常識化したのは事実だ。“これは、人類数万年の歴史から見ればほんのちょっと前に、驚くべき「精神の大革命」が起こったということ”だ。ルソーの“『社会契約論』を大きな源流として、民主主義の考えが2~3世紀の時間をかけて少しずつ世界中に広がっていったことで、わたしたちは感受性のレベルでいわば生まれ変わった”ことになった、と著者は評している。
ルソーに“自然に帰れ”は付きものの概念であると思われているが、“太古の「自然状態」に戻ることを説いたものではない”と著者は指摘している。これは“人間の自然(ネイチャー)、つまり人間本性(ヒューマンネイチャー)のことと理解すべき”であるという。
例えば、子どもの“言葉が発達してくる時期になると、子どもは「自分で学ぶ」ことができるようになる。それが「自然」なこと”だが、多くの大人は子どもに禁止や義務の指示をし、子ども自身“本来であれば自然に成長するはずだった考える力を抑え込んで”いる。これが良いことではあるまい。
“『エミール』では、自然とは人間の「本来の傾向」のこと”であり、“人間存在の‘本質’を洞察しない限り、どんな社会論も、あるいは教育論も、決して‘原理的’たりえない”のだ。ルソーの人間理解の透徹した目は驚嘆するべきであろう。
ルソーが指摘するように“どんな社会も。成員の「合意」によってつくられるもの”であり、“「合意」だけが正当性の根拠”なのだ。そうでなければ戦争になる。“ヘーゲルの言葉を借りれば、自由のための「生死を賭する戦い」が勃発する”ことになる。
“国家(政治体)は、そのような「社会契約」によってつくられるべきものである。”したがってルソーは“政治体はそれを構成するいかなる個人も害することができない。”と言う。こうしてわたしたちは、国家をつくることによって自己保存が可能となり、“「みんながみんなの中で自由になる」ことを実現”できるのである。
したがって、こうした“自由”は社会契約によって一人でいる“自然状態”にある自由より、“ずっと強固な「社会的自由」を手に入れることができる”のである。逆に、こうした社会契約の下では“自然的自由”の主張はできなくなり、“自己保存のために何をしてもいいというわけには”いかないことになる。これがルソーの言う“「自由であるよう強制される」の意味”であり、“「自然的自由」ではなく、「社会的自由」を追求するよう強制されている”ことになる。
“ここにはじめて、相互の義務と権利という考えが生じる”。“おたがいの生命、身体、財産などの所有権(人権)の相互承認はその基底となるべき約束”となる。
こうして、“「みんなの意志を持ち寄って見出された、みんなの利益になる合意」つまり一般意志”に“基づかない国家は、正当性を持ちえない”のである。
だから、次のトートロジー(同語反復)が成立する。“政治的正しさとは、それがみんなの利益をめざすところにある。みんなの利益をめざすものを一般意志という。だから一般意志は政治的正しさそのものである。”と著者は指摘する。
ところで、この“一般意志”は“全体意志”ではないという。全体意志は「全員の個別意志の総和」であるが、“一般意志とは、全体意志から「衝突し合う私的な利益」を差し引いて、みんなの利益になるものとして見出された合意のことだとルソーはいう”のだと著者は指摘している。
このようにルソーを学んで来れば、“民主政治とは人民による、人民のための人民の「一般意志」を実現する技芸(art)”であることが解る。Art技芸という言葉も極めてナイーブで意味深長だが、この“一般意志”の形成には極めてデリケートな条件が要求される。“一つは、すべての人に(必要な)情報が行き届いていること。もう一つは、人びとが前もって根回しをしない仕組みを整えること”(括弧内筆者)であるという。“根回しをすると、一人ひとりの意志がちゃんとすくい上げられない”。だから“政治的な結社(政党)をつくってはならない”とルソーは言っているという。つまり、そこには多数決万能で党派主義の我々の常識が通用しないのは新鮮だ。“結社のそれぞれの意志は、結社の成員にとっては一般意志であろうが、国家にとっては個別意志となる。”ここではまして“説明責任の放棄”や“強行採決”は論外であることが肝に銘じられる。
次に、一般意志を背景にした統治者の究極の指示にどう応えるかの問題が提起されている。ルソーは“戦争を想定して”次のように述べているという。
“(一般意志を背景にして)統治者が市民に、「汝は国家のために死ななければならぬ」と言うときには、市民は死ななければならないのである。なぜならこのことを条件としてのみ、市民はそれまで安全に生きてこられたからである。”(括弧内筆者の追加)
ここでは“一般意志を背景にした統治者”が前提になっているので、全体主義政府が“お国のために!”と言っているのとは全く異なることは明白である。しかし、著者は論を繋ぐ。ルソーの時代は狭いヨーロッパ世界で“年中行事のように飽くことなく戦争を続けていた”のであり、このため後のルソーに大きな影響を受けた哲学者カントは『永遠平和のために』を書いた。この思想が150年後の第二次世界大戦後、国際連合として結実した事実がある。
そして、民主主義国家の間での戦争はほとんど起きていないと著者は指摘する。なるほど民主主義国家同士のは記憶の限りでは、フォークランド紛争くらいであろうか。他は大抵、公衆啓蒙化の弱い地域での紛争・戦争である。世界の覇権を狙う隣国や独裁者の持続可能性を主張する近隣国の公衆啓蒙は十分だとは思えない。
この一般意志の具現化が「法」である。政治体(国家)の法を作る権限は、その政治体(国家)の構成員にある。“法は一般意志の行為だからである。統治者は法律よりも上位に立つのかと、問うまでもない。統治者も国家の[構成員の]一員だからである。”
だから、政治体(国家)の構成員(市民)は“それ相応に教育(啓蒙)されているのでなければならない”。つまり、“公衆が啓蒙されると、社会の知性と意志が一致するようになり、さまざまな部分がきちんと調和するようになり、ついには全体が最大の力を発揮するようになる。”とルソーはいみじくも言った。
人民の啓蒙進化に応じて歴史は進化する、それは紆余曲折があり遅い速度だが、先の国際連合の結成を見ても分かる道理だ。
ルソーも学ばず、アホアホのままでは世界に取り残されるだけなのだ。世界はSDGsで“誰も取り残さない”とは言ってはいるが、やってるフリで“お勉強”もしなければ気付かぬうちに取り残されるだけなのだ。
後の歴史学者が言った“権力は絶対的に腐敗する”ことを、18世紀のルソーは既に知っていた。腐敗しては“一般意志に基づく国家は終わり”だ。これを防ぐために“「人民の集会」をつくれ!ルソーはそう訴え”ているという。そして集会開催の都度二つの議題を採決せよとしている。
“第一議案・主権者は政府の現在の形態を保持したいと思うか。第二議案・人民はいま行政を委託されている人々に、今後も委託したいと思うか。”
たしかに、面倒だがこの確認は都度必要のような気がする。しかし、これは近代では一旦憲法で保障されるものとなっているので、確認作業はしていない。その確認作業が無いからこそ、日本では憲法が形骸化してしまっているかのようだ。
この“人民の集会”の構成員をどうするのか、代議制にするのか、スイスのように直接民主制にするのかが問題となる。それは“「一般意志」をより十分に見出し合うためには、代議制と直接民主制(国民投票、国民発案制、住民集会など)をどのようにミックスし、相互に補完していけばよいかと考えるほかない”のだろう、と言っている。
しかし、日本では直接民主制に憧れがあるようだが、国民投票で失敗した例がブレグジットに見られるように、一概にベスト・ソリューションではないのかも知れない。もっとも、ブレグジットが一概に“失敗”だとは言えないのかも知れない。要は、今後の慎重な研究の結果によるのであろう。
『社会契約論』の最後にルソーは“公民宗教”の必要性を提唱しているという。恐らく、これを公衆啓蒙家の核にしようと考えたのであろう。ここへ来て、ようやく18世紀的発想に何だかホットする側面もある。
“ルソーの信奉者でもあった独裁者ロベスピエールは、1794年、シャン・ド・マルクス広場で「最高存在の祭典」なるものを執り行”った。“すでに革命はキリスト教をずいぶんと破壊していましたが、ここに至って、ついにキリスト教の神に代わる「最高存在」さえも表舞台に持ち出された”という。独裁者は時として滑稽でバカなことをするものだ。
しかし著者は単純に小ばかにしないで、“寛容の精神の涵養をはじめ、宗教は民主主義に資するもの足りうるはず”だと言っている。
この本の最後では著者が講演相手だった自由学園の生徒たちと質疑応答している。そこで生徒たちは、いじめ一因となっている“スクール・カースト”の問題を提起している。著者は、これが“万人の万人に対する戦争”という“空気”の結果であろうと推測し、まさしく“クラスや学校での「社会契約」”を提案している。これが実験的に成功すれば良いと思われる。
以上が、私のルソー『社会契約論』の“お勉強ノート”である。ホッブスの“万人の万人への戦争”を防止するのは人民による人民のための人民の“社会契約”であることが分かった。また一般意思形成には公衆の啓蒙化が重要なポイントであり、それが十分になれば戦争の危機は薄れる可能性は高くなる。或いは、学校での“社会契約”が“いじめ”防止のツールとなりうるかも知れないと分かった。

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