The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
嵯峨野・大覚寺、池をめぐりて
12月に入っても天候異変が続いている。何だか毎年寒くなっている印象があるが、“この寒さは、「温暖化」による” との報道は相変わらずだ。戦争中は食料が明らかに乏しくなり、空襲も激しくなって来ていても“勝っている”との報道が普通だったと聞いているが、これに良く似た状況のような気がしてならない。政治的にも どうも最近の日本の報道は真実を伝えておらず、政府に好都合の報道ばかりという感覚は、一般の人々の心に静かに確実に浸透しつつあるような印象を持つ。猜疑心は科学的精神の萌芽であり発露でもある。ということは素直な人は、科学的精神を持てないことになる?
冒頭から余計な話になってしまったが、先月下旬の11月20日に嵯峨野大覚寺を訪れた。投稿のタイミングを失うと季節感がずれて臨場感が薄れるのでこの辺りで報告しておきたい。という訳で晩秋の嵯峨野観光レポとしたい。
午後から審査員研修会が西京極で開催されるので、午前中に嵐山を通り過ぎて嵯峨野に行ってみることにした。いつものように朝 神戸から阪急で嵐山に到着。ここからバスで終点・大覚寺へ。
実は、高校時代に個人的に一度訪れたことがあったはずだが、当時いかにも鄙びた土地との印象だったが、昨今の国際的な観光ブームでいつでも又京都は何処でも盛況で、印象は全く違ってしまった。それでもなお、こちらには中国人はあまり押し寄せて来てはいなかった。
さて、大覚寺についての説明はホームページによれば、概略次のようにある。
“弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。
正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。
平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。
嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。
弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。
明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもある。時代劇・各種ドラマのロケ地としても有名である。”
なるほど、菊の御紋が使用されているのは、そういうことかと理解できる。つまり、嵯峨天皇の御所だった由だが、残念ながら“お勉強”不足により嵯峨天皇のことは全く知らない。そこで、Wikipediaによれば、“嵯峨天皇(786年10月3日~ 842年8月24日)は、第52代天皇(在位: 809年5月18日~823年5月29日)。 諱は神野(賀美能・かみの)。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。”とある。天皇を中心とする律令体制が未だ健在ではあるが、やや矛盾が出始めて来る頃の天皇のようである。恐らく、嵯峨野に執着が強かったため、嵯峨天皇と呼ばれているのだろう。
バスから降りて、皆が向かう先に大覚寺の入口があるが、本来の建物は工事中でその姿はほとんど分からない。その西側に設けられた門から境内に入る。受付を済ませ、玄関に入るといきなり、立派な駕籠が仰々しく置かれている。法皇が実際に御使用の物だそうだ。ここを過ぎるといきなり土産物店。高そうな京菓子等。目をつぶって通過。

渡廊下を渡って行くと宸殿に出る。ここは室内撮影可なのだろうか。不可とはなっていないが・・・。宸殿は“江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子が、女御御殿の宸殿として使用していたもの。妻飾り、破風板、天井などに装飾がこらされている。廊下・広縁はすべてうぐいす張りとなっている。”とのこと。
宸殿前には時節柄か“嵯峨菊展”が開催中。実は境内に入って、玄関に入るまでの庭にもあった花弁が糸のような花があったのだが、どうやらそれが“嵯峨菊”のようだった。その“嵯峨菊の由来”という表示があって、そこには次のように書かれていた。こんな菊が存在するとはつゆ知らず、である。
“嵯峨菊は、旧嵯峨御所大本山大覚寺境内の大沢池にある菊ヶ島に源を発し、嵯峨天皇が菊の気品ある姿と香りを好まれた。また、手折られた菊を親しく瓶にいけ、「後世、花を生ける者はこれを以て範とすべし」とおっしゃった事から「いけばな嵯峨流」が始まる。
また、平安朝の歌人紀友則は、
「一本と思いし菊を大沢の池の底にも誰か植ゑけん」
と詠んでいる。
この嵯峨独特の野菊を、永年に渡り王朝の感覚を持って育成し、一つの型に仕立て上げた、風情のある洗練された格調高い菊が嵯峨菊である。この菊の仕立ては一鉢に三本立てとし、長さは約二メートルにする。これは段上から鑑賞される為に高く育てるのである。
花は下部に七輪、中程に五輪、先端に三輪で「七・五・三」とし、葉は、下部を黄色、中程は緑、先端を淡緑と四季を表している。花弁は平弁で五十四弁、長さは約十センチの茶筅状が理想の嵯峨菊の型であり、淡色の花が色とりどりに美を競い、格調高い香りを漂わせている。”
大覚寺の由緒をそれとなく語っている。日本の歴史の重みを、そこはかとなく腹の底から感じてしまう。“いけばな嵯峨流”という流派があり、ここが発祥ということも全く知らないことであった。

ここから、諸堂巡りの渡廊下をどんどん伝って行く。“諸堂を結ぶこの回廊は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光にたとえ、「村雨の廊下」と呼ばれる。天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られ、床は鴬張りとなっている。”
途中で大覚寺宝物殿の霊宝館で、特別名宝展“嵯峨御所・大覚寺の名宝”を開催していた。中は撮影禁止だが、様々な大きさの仏像、明王像があり末法思想普及寸前?の真剣な信仰はかくありき、との感想を抱く。外へ出ると何故だかホッとするものがある。
何となく、歩く速度が上がる。気が付くと最後の お御堂・五大堂に到着。大沢の池が見えるので最後と分かる。ここは“江戸時代中期(天明年間)創建。現在の大覚寺の本堂。不動明王を中心とする五大明王を安置する。大沢池のほとりに位置し、正面5間、側面5間。正面には吹き抜けの広縁がある。大沢池に面する東面には、池に張り出すように広いぬれ縁(観月台)があり、大沢池の眺望がすばらしい。正面中央は双折桟唐戸、両脇各2間は蔀戸となっている。”とある。
お堂東端の観月台から大沢池を眺めてしばし休憩。渡り鳥が既に来ている。“周囲約1kmの日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐(中国)の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる。”ということ。
さらに現地の掲示説明では、“日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています。池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(こせいかなおか)が配置したといわれる庭湖石があります。この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています。遠くの山並みは東山連邦で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前の山は朝原山(遍照寺山)です。この観月からの仲秋の名月は有名で松尾芭蕉の
名月や池をめぐりて夜もすがら
また左手奥には多宝塔や藤原公任が詠んだ
瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
の名古曽の石組跡があります。
また平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられ名勝に指定されています。”
芭蕉は嵐山から見て嵯峨野の入口に落柿舎を構えていたので、秋にはこの池にやって来て嵯峨天皇の頃を思いやりつつ、名月をめでたのであろう。この池の大きさから夜分月を見ながら歩くことも考えられる。しかし、昔のこと名月が出ているとは言え、深夜の安全は保障できない。弟子や大覚寺の顔見知りと大勢で池の周辺をほろ酔いでほっつき歩いたのかも知れない。
実に余計なことだが、この句の池を“古池や”の池と同じと解説するweb上のページがあって非常に驚いた。“かわず飛び込む”池は、雄大な風景には全く似つかわしくない。そんな初歩的な理解もなくて芭蕉の句を鑑賞しようという輩が存在しているとは情けない限り。ネットには正しく玉石混交している。
このお堂では御札をあげるようになっているようだ。この寺の収入にもなるだろうし、願いが叶うならと私もお札を収めることにした。“七難即滅”か“七福即生”かいずれを書くか、迷ったが“七福即生”と書いて収めた。

大覚寺境内から外に出て、大沢池の畔に向かう。池端に至って、入場料を請求される。素直に払おうとすると“寺の拝観料と合わせて・・・”と言われたので、慌てて寺の入場券を示すと、そのまま入れた。
どんどん行くと湿地帯に入り込む。何となく半島部分に行き着く。ここが天神島か。それを一周して戻り、陸地をどんどん奥へ行くと幕を張り巡らせて何かをやっている。正月特別番組の時代劇撮影であるような話が聞こえて来た。興味本位でカメラを向けていると、“撮影は御遠慮下さい”とキッパリ言われてしまう。
そこを抜けて、さらに奥へ行くと何やらそれらしく石組みがあり、“名古曽の石組跡”の立札があった。そこに在った案内によれば、この辺りが嵯峨天皇時代の御所離宮の遺跡になるという。なので観月はこの辺りでするのが本来のやり方なのかも知れない。鎌倉時代はこの箇所に寺としてあったようだが、その後の兵火で失われた由。江戸初期に池の西側に伽藍が再建されたが、北側のこの辺りの再建はなされなかったという。

しかし、ここでは観光客は私ひとり。孤独感からか、ここでいきなり空腹感に襲われる。さて、空腹を手っ取り早く満たすには、この池の畔に入るところに在った茶店に行くのが一番。
そこで“汁無しラーメン600円”を食べる。マーボー豆腐のアンと半熟卵。まぁ 不味い訳ではないが、値段相当。それなりに空腹を満たす。実は夜にOB会宴会があるので、少々少なめの昼食で済ませて十分。
腹八分になったところで、バス停。そこでたまたま出会ったバスが四条方面行き。西院に出るのなら、そこから西京極は嵐山からより安いのに気付き、乗り込むことにした。比較的観光客の少ない嵯峨野も、歴史を感じるには最適な印象だ。

冒頭から余計な話になってしまったが、先月下旬の11月20日に嵯峨野大覚寺を訪れた。投稿のタイミングを失うと季節感がずれて臨場感が薄れるのでこの辺りで報告しておきたい。という訳で晩秋の嵯峨野観光レポとしたい。
午後から審査員研修会が西京極で開催されるので、午前中に嵐山を通り過ぎて嵯峨野に行ってみることにした。いつものように朝 神戸から阪急で嵐山に到着。ここからバスで終点・大覚寺へ。
実は、高校時代に個人的に一度訪れたことがあったはずだが、当時いかにも鄙びた土地との印象だったが、昨今の国際的な観光ブームでいつでも又京都は何処でも盛況で、印象は全く違ってしまった。それでもなお、こちらには中国人はあまり押し寄せて来てはいなかった。
さて、大覚寺についての説明はホームページによれば、概略次のようにある。
“弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。
正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。
平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。
嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。
弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。
明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもある。時代劇・各種ドラマのロケ地としても有名である。”
なるほど、菊の御紋が使用されているのは、そういうことかと理解できる。つまり、嵯峨天皇の御所だった由だが、残念ながら“お勉強”不足により嵯峨天皇のことは全く知らない。そこで、Wikipediaによれば、“嵯峨天皇(786年10月3日~ 842年8月24日)は、第52代天皇(在位: 809年5月18日~823年5月29日)。 諱は神野(賀美能・かみの)。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。”とある。天皇を中心とする律令体制が未だ健在ではあるが、やや矛盾が出始めて来る頃の天皇のようである。恐らく、嵯峨野に執着が強かったため、嵯峨天皇と呼ばれているのだろう。
バスから降りて、皆が向かう先に大覚寺の入口があるが、本来の建物は工事中でその姿はほとんど分からない。その西側に設けられた門から境内に入る。受付を済ませ、玄関に入るといきなり、立派な駕籠が仰々しく置かれている。法皇が実際に御使用の物だそうだ。ここを過ぎるといきなり土産物店。高そうな京菓子等。目をつぶって通過。

渡廊下を渡って行くと宸殿に出る。ここは室内撮影可なのだろうか。不可とはなっていないが・・・。宸殿は“江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘、東福門院和子が、女御御殿の宸殿として使用していたもの。妻飾り、破風板、天井などに装飾がこらされている。廊下・広縁はすべてうぐいす張りとなっている。”とのこと。
宸殿前には時節柄か“嵯峨菊展”が開催中。実は境内に入って、玄関に入るまでの庭にもあった花弁が糸のような花があったのだが、どうやらそれが“嵯峨菊”のようだった。その“嵯峨菊の由来”という表示があって、そこには次のように書かれていた。こんな菊が存在するとはつゆ知らず、である。
“嵯峨菊は、旧嵯峨御所大本山大覚寺境内の大沢池にある菊ヶ島に源を発し、嵯峨天皇が菊の気品ある姿と香りを好まれた。また、手折られた菊を親しく瓶にいけ、「後世、花を生ける者はこれを以て範とすべし」とおっしゃった事から「いけばな嵯峨流」が始まる。
また、平安朝の歌人紀友則は、
「一本と思いし菊を大沢の池の底にも誰か植ゑけん」
と詠んでいる。
この嵯峨独特の野菊を、永年に渡り王朝の感覚を持って育成し、一つの型に仕立て上げた、風情のある洗練された格調高い菊が嵯峨菊である。この菊の仕立ては一鉢に三本立てとし、長さは約二メートルにする。これは段上から鑑賞される為に高く育てるのである。
花は下部に七輪、中程に五輪、先端に三輪で「七・五・三」とし、葉は、下部を黄色、中程は緑、先端を淡緑と四季を表している。花弁は平弁で五十四弁、長さは約十センチの茶筅状が理想の嵯峨菊の型であり、淡色の花が色とりどりに美を競い、格調高い香りを漂わせている。”
大覚寺の由緒をそれとなく語っている。日本の歴史の重みを、そこはかとなく腹の底から感じてしまう。“いけばな嵯峨流”という流派があり、ここが発祥ということも全く知らないことであった。

ここから、諸堂巡りの渡廊下をどんどん伝って行く。“諸堂を結ぶこの回廊は、縦の柱を雨、直角に折れ曲がっている回廊を稲光にたとえ、「村雨の廊下」と呼ばれる。天井は刀や槍を振り上げられないように低く造られ、床は鴬張りとなっている。”
途中で大覚寺宝物殿の霊宝館で、特別名宝展“嵯峨御所・大覚寺の名宝”を開催していた。中は撮影禁止だが、様々な大きさの仏像、明王像があり末法思想普及寸前?の真剣な信仰はかくありき、との感想を抱く。外へ出ると何故だかホッとするものがある。
何となく、歩く速度が上がる。気が付くと最後の お御堂・五大堂に到着。大沢の池が見えるので最後と分かる。ここは“江戸時代中期(天明年間)創建。現在の大覚寺の本堂。不動明王を中心とする五大明王を安置する。大沢池のほとりに位置し、正面5間、側面5間。正面には吹き抜けの広縁がある。大沢池に面する東面には、池に張り出すように広いぬれ縁(観月台)があり、大沢池の眺望がすばらしい。正面中央は双折桟唐戸、両脇各2間は蔀戸となっている。”とある。
お堂東端の観月台から大沢池を眺めてしばし休憩。渡り鳥が既に来ている。“周囲約1kmの日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐(中国)の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる。”ということ。
さらに現地の掲示説明では、“日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています。池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(こせいかなおか)が配置したといわれる庭湖石があります。この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています。遠くの山並みは東山連邦で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前の山は朝原山(遍照寺山)です。この観月からの仲秋の名月は有名で松尾芭蕉の
名月や池をめぐりて夜もすがら
また左手奥には多宝塔や藤原公任が詠んだ
瀧の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
の名古曽の石組跡があります。
また平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられ名勝に指定されています。”
芭蕉は嵐山から見て嵯峨野の入口に落柿舎を構えていたので、秋にはこの池にやって来て嵯峨天皇の頃を思いやりつつ、名月をめでたのであろう。この池の大きさから夜分月を見ながら歩くことも考えられる。しかし、昔のこと名月が出ているとは言え、深夜の安全は保障できない。弟子や大覚寺の顔見知りと大勢で池の周辺をほろ酔いでほっつき歩いたのかも知れない。
実に余計なことだが、この句の池を“古池や”の池と同じと解説するweb上のページがあって非常に驚いた。“かわず飛び込む”池は、雄大な風景には全く似つかわしくない。そんな初歩的な理解もなくて芭蕉の句を鑑賞しようという輩が存在しているとは情けない限り。ネットには正しく玉石混交している。
このお堂では御札をあげるようになっているようだ。この寺の収入にもなるだろうし、願いが叶うならと私もお札を収めることにした。“七難即滅”か“七福即生”かいずれを書くか、迷ったが“七福即生”と書いて収めた。

大覚寺境内から外に出て、大沢池の畔に向かう。池端に至って、入場料を請求される。素直に払おうとすると“寺の拝観料と合わせて・・・”と言われたので、慌てて寺の入場券を示すと、そのまま入れた。
どんどん行くと湿地帯に入り込む。何となく半島部分に行き着く。ここが天神島か。それを一周して戻り、陸地をどんどん奥へ行くと幕を張り巡らせて何かをやっている。正月特別番組の時代劇撮影であるような話が聞こえて来た。興味本位でカメラを向けていると、“撮影は御遠慮下さい”とキッパリ言われてしまう。
そこを抜けて、さらに奥へ行くと何やらそれらしく石組みがあり、“名古曽の石組跡”の立札があった。そこに在った案内によれば、この辺りが嵯峨天皇時代の御所離宮の遺跡になるという。なので観月はこの辺りでするのが本来のやり方なのかも知れない。鎌倉時代はこの箇所に寺としてあったようだが、その後の兵火で失われた由。江戸初期に池の西側に伽藍が再建されたが、北側のこの辺りの再建はなされなかったという。

しかし、ここでは観光客は私ひとり。孤独感からか、ここでいきなり空腹感に襲われる。さて、空腹を手っ取り早く満たすには、この池の畔に入るところに在った茶店に行くのが一番。
そこで“汁無しラーメン600円”を食べる。マーボー豆腐のアンと半熟卵。まぁ 不味い訳ではないが、値段相当。それなりに空腹を満たす。実は夜にOB会宴会があるので、少々少なめの昼食で済ませて十分。
腹八分になったところで、バス停。そこでたまたま出会ったバスが四条方面行き。西院に出るのなら、そこから西京極は嵐山からより安いのに気付き、乗り込むことにした。比較的観光客の少ない嵯峨野も、歴史を感じるには最適な印象だ。

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