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中央公論9月号の特集“昭和の戦争・令和の視点”記事を読んで

コロナ禍対策をおざなりにしたまま、自民総裁選の序章が佳境に入った。自民応援者の“期待の星”が日和っている。要は過去の発言から“ブレている”のだ。つまりintegrity(一貫していること)に欠けるのだ。non-integrityとなれば政治家として“誠実ではなく、信用できない”ことになる。これは政治家として致命的である。その自覚はおありか?
まぁ所詮、“コップの中の嵐”。大派閥の領袖を前に腰が引けるのも無理もない、そんなところだろう。
そんなことで腰が引けるのなら、初めから発言しなければ良い。覚悟無く“ブレ”て、“誠実ではなく、信用できない”となれば、右からも左からも支持されなくなる。あのアホアホ前首相のお好きな言葉“信なくば立たず”とは、実はこのことなのだ。

ここへ来て3回生議員の決起もあり、派閥溶解との観測もあるが、大派閥の妖怪にそれほどの威力があるのか、改めて思い知らされるのだ。総裁選各候補者が、大派閥の領袖に追従し、鼻息を伺っている情けない図式が現出しているからだ。それはもう顰蹙ものそのものではないか。だからこそかつて“自民党をぶっ壊す!”と極まって叫んだ御仁もいたのだろう。

私は保守主義者ではないが、今や“保守の危機”であることを、善良で“良識”のある保守主義者は自覚しなければならない。健全な保守がアベ的なアホアホ思考によって、自民党全体が冒され、汚され、堕落しているからだ。その身勝手で、御都合主義のアホアホ思考は未だに日本全体を覆っている。首相辞任も現在のお元気なご様子から、進退窮まった上での仮病の疑念が色濃くある。このアベ的アホアホ思考を真っ向から否定しない限り、一般党員の支持は得られないだろうし、来るべき総選挙にも勝利できないであろう。

実は、現首相は“改革派”だったという。だから無派閥だったのか。だが、派閥力学から逃れられなかった。コロナ禍を奇貨として、強力な指導力を発揮できなかったのが原因だ。それに、国語力が乏しいので発信力が無い。それではリーダーシップは発揮できない。よくもまぁ、こういう御仁が幾多の自治体や国政選挙に勝って、首相にまで上り詰められたものだ。
日本人はそういう人物をよくもまぁ選んで来たものだ。選挙演説すらままならないにもかかわらず。これでは、日本は良くはならない。人物を見極めていないのだ。
本人の資質もさることながら、周囲の人材にも恵まれなかったのではないか。T大でのアホが要所にいてはPRも不十分な印象だ。特に、現首相には菅官房長官が居ないと言われ、肝心のコロナ禍対策大臣も極めつけのアホだった。クズの人材になぜそのまま引き継がせたのか。
しかも、前政権を引き継いだとの印象があまりにも強く、その“亜流だ”との一般的認識を持たれてしまった。アベ的アホアホ思考が残ってしまったのだ。

日本人には多少“ブレている”ことも許容する悪弊がある。これはこの際、打破すべき悪癖である。integrity(一貫している)の徳目をもっと重視しなければならない。そうでなければあっさりと裏切られるのだ。アベ的アホアホ姿勢にはこの要素は大いに含まれているではないか。不誠実の極みなのだ。

もし私の予想に反して、アベ的アホアホ思考を多少でも残したまま自民党総裁選に勝ち、総選挙でも勝利するようなことがあれば、この国の将来は当分暗いものになるだろう。活気のない、暗い社会が訪れ、停滞は深化するであろう。そうなれば、もっと景気は悪くなるに違いない。

誰がこのアベ的アホアホ思考を否定し、撲滅できるのか、ここ数カ月の勝負ではないだろうか。
そういう観点から、私は未だ総裁選に立候補できずにいる女性議員に若干期待してみたいのだ。もはやオッサンどもには期待できないのではないか。いずれにしても今は“コップの中の嵐”。だが、その直後の総選挙は避けがたい。

ここで、野党も労働組合連合との関係を清算しなければ自己革新できないであろうし、時代の変化にもキャッチアップできないであろう。いつまでも共産党との関係にこだわるのは、如何にも主体性の欠如感を際立たせているだけのように見える。かつて労働右派がよく言っていた“是々非々”のモットーは何処へ行ったのか。
労働組合連合は組織としても既に形骸化しており、真の“労働者の声”を代弁している訳ではない。非正規労働者の声は全く反映していないのだ。大企業労働貴族の圧力団体でしかないにも関わらず、何故なのかという疑問ばかり残るのだ。
ここにも妖怪はいる。だがこちらはとうの昔に腐った張子の虎になっているのではないのか。
野党も前時代のくびきから逃れられず、妙なしがらみばかり気にしていて、自己革新が出来ていない。これが日本が元気になれない隠れた要因ではないのか、と思うのだ。21世紀になって、既に20年経った。もうそろそろ20世紀を清算するべきではないのか。



さて、今回は中央公論の9月号 に掲載された特集“昭和の戦争・令和の視点”に掲載された寄稿文を読んだので、感想を記したい。月刊誌は既に10月号の発刊時期であり、実際に書店店頭に並んでいる。その紹介の1カ月遅れとなったのは申し訳ない。何だか最近とみに時間の経過が早くなっている気がする。
その上、中央公論が“昭和の戦争”を特集していると知って、しばらくして近所の書店に買いに出かけた時には、既に中央公論誌は店頭になく、外出の機会も乏しい中、京都に赴いた機会になじみのない書店でようやく見つけて購入した次第。読み始めた時期遅れも、今頃の紹介となった遠因であろう。
それにしても、かつては“文芸春秋”と双璧をなした総合雑誌“中央公論”の発刊部数が減少しているのも要因の一つだと思うと、隔世の残念感がある。“文芸春秋”は、文学書受賞作品の掲載もあってか、どこの書店でも平積みされていた。

中央公論8月号の特集“昭和の戦争”に関連した寄稿文は次の通り。
①“歴史研究から戦争を問い続ける意味” 対談・戸部良一×小山俊樹
②“満州事変―国民と軍部を結びつけた起点”加藤聖文
③“盧溝橋事件―相互不信から生み出された泥沼への道”岩谷将
④“第二次上海事変―全面戦争への転換点”庄司潤一郎
⑤“ノモンハン事件―日ソ衝突から学ぶ現代史的意義”花田智之
⑥“大東亜戦争―「先の戦争」をどう伝えるか”波多野澄雄

この記事の中で特に②、④、⑤が気になった。それはこの夏前にお勉強した半藤一利・著“ノモンハンの夏”や、波多野澄雄、戸部良一、松元崇、庄司潤一郎、川島真・共著“決定版 日中戦争・新潮新書”に関連するテーマだったからだ。また8月に鑑賞した一連の戦争映画、特に“戦争と人間”シリーズに影響を受けていたこともある。そこで、最新の研究に触れてみたかったのだ。それが京都まで行って、中央公論を求めたエネルギーになった。
この特集の構成は、①で“昭和の戦争”で全体を俯瞰し、②~⑤で個別の戦争を議論し、⑥で①の議論を想起しつつ一先ずの結論を導き出すスタイルになっている。

この①では、戦争終結から70年強を経過し体験世代もほぼ亡くなりつつあり、“昭和の戦争”は遠くなり、研究者にとっても単なる歴史の1頁“関ヶ原合戦と同じ”(戸部)になりつつあるとの認識から始めている。
ただ、この戦争をはじめた時の当初の世相は、“組織のガバナンスが緩んで行った”時代だったつまり、“上に立つ人間が下の意見を十分に汲み取らず、無責任に命令を発する。結果、下の人間はこの命令は実行するに値しないものだと受け取り、ガバナンスが効かなくなる”(小山)と指摘している。例として、張作霖爆殺事件の処理で、“(軍の)首謀者も軽い停職処分で済まされ”、“これほどの事件にもかかわらず責任が問われないとなると、軍も官僚も上の命令に従わなくなり、誰がトップに立ってもまとめられない組織になってしまう”という。それが日本の戦争への暴走の起点となった、と言いたいのだろう。
何と、今のアホアホ・アベ的政治と全く酷似しているではないか。来る総選挙での総決着がどのような結果になるのであろうか。
日米開戦に至る転換点として、満州事変、支那事変*(盧溝橋事件+第二次上海事件)、日独伊三国同盟と南進政策(既存の持てる欧米植民地宗主国との戦争)、を挙げている。特に最後の点が米国の虎の尾を踏んだことになった(戸部)

*支那事変:支那は中国のことで戦前の言い方。古代の“秦”や英語のChinaから派生したとされ、現中国はこの呼称を嫌っている。かつては“日華事変”と呼ばれたこともあった。実質的戦争であるとの観点から“日中戦争”とも言われたりしたが“宣戦布告”はない点で“戦争”との規定に違和感があること等から、当時の呼称に回帰しているのが、学会動向なのだろうか。ここでは、私に定見はないので“公論”誌の表現をそのまま使用する。

支那事変は偶発的盧溝橋事件がきっかけとなり泥沼化した理念なき戦争だったが、“昭和の戦争”の終わり近くでようやく後付けの“自存自衛”の“東亜新秩序”という理念を掲げることとなった。(戸部)
名著『失敗の本質』での指摘では、“大東亜戦争は目的が不明確であることが、戦争遂行において致命的であり、そのため何をもって終了とするのか誰にもわからないまま漫然と戦争を続けてしまった”。ところが日本では“理念は掲げるものであって実現するものではないと認識されていた”と言っている。(小山)
民主主義と対外的侵略行為や冒険主義は同居可能なものだ。(筆者:現在の米国を見ても分かる。)戦前の日本はデモクラシーではなかったが必ずしもファシズムではなかった。その日本が何故戦争に走ったか。(戸部)
その点では、当時の国民世論の形成は議論の対象になる。当時のメディア(新聞)は満州事変によって売り上げを伸ばし、その結果、“軍がメディアを利用し、メディアも軍を利用してメディアは軍の世論形成に役立つツールになった”。(小山)
当時、“(国際情勢の)状況をきちんと分析し、この戦争にそう簡単には勝てないと主張する論考が多くあった”。“しかし、そうした意見は庶民には届かず、主流派にはならなかった。それが何故だったかを考察することは、現在のメディアの状況を考える上でも重要”である。(戸部)
“歴史研究というものは、誰もスッキリする答えが見つかるということはない”。だから“真実を追究するために何度も何度も問い直して行くことが大切”だ(戸部)と言っている。


②では、驚くほどの議論はなかったが、満州事変によってソ連は“極東軍の大幅増強に取り掛かり同軍の戦力は関東軍の4倍にまで増強される。日ソ軍事バランスは1935年を境に関東軍には挽回できないほどの差がひらいていった。”との指摘があった。それにもかかわらず、関東軍はノモンハン事件を引き起こし完敗するのだ。彼我の客観状況の把握がなかったのだろうか。著者はこの記事でそこまで言及してはいない。
また最後に、“満州事変による戦時公債での増発は日本の景気を刺激し、デフレ恐慌からの脱却をもたらした。「戦争が始まってよかったね」というのが偽らざる民意であった。”と指摘し、終わっている。


③は“日本軍と衝突した現地の中国軍が、中央政府の指揮する直系の軍ではなく、地方の軍事指導者を指揮官とする地方軍だったことである。近年までこの地方軍がどのような考えを持っていたのか、よくわからなかった。”これが真相であろう。盧溝橋事件当初は日中双方とも、事態を鎮静化できると思っていたが、相互理解を欠いたまま、相互不信を増幅させ事態を深刻化し、拡大化させた、という結論であった。


④も、私にはほぼこれまでの議論を確認した程度だった。ただ、上海沿岸地域と揚子江(長江)下流域の在留邦人の安全に責任を持っているとの自覚が海軍には陸軍以上に強く、蒋介石の第二戦線形成の意図に強硬に反応し、反撃した次第を記述している。不拡大方針の海軍が何故過剰反応を示したのだろうか。これは上海駐留の海軍特別陸戦隊が孤立無援状態の中で苦戦したことがあったのかも知れない。蒋介石の意図に反して、意外に海軍航空隊は近代化しており、上海沿岸地域と揚子江(長江)下流域の制空権をあっさり握ったことによることもあると思われる。


⑤では、関東軍参謀部の戦争指導の稚拙さに言及することはあまりなかったことに失望している。②でも言及されたようにソ連極東軍との戦力格差の大きさや、部隊の近代化(機械化・機甲化)の遅れを考慮せず、しかも現地地勢も考慮せず作戦立案し実行させた、と“ノモンハンの夏”を読んだ私は見ている。参謀部の中心に居た辻参謀の罪は非常に大きい。それにもかかわらず、実際はその責任を現地軍指揮官に押し付け、多くを自決に追い込んだのだった。恐らく“上に立つ人間が下の意見を十分に汲み取らず、無責任に命令を発する”世相が反映したのであろう。アベ的アホアホ思考が今後悪影響しないことを祈るばかりだ。
この稿の始めに“ロシア科学アカデミー元教授のグリゴリー・クリボシェーエフ氏によれば、ソ連側の死傷者数は2万5655人とされている。これは現代史家の秦郁彦氏による日本側の死傷者の推計である約1万8000人から2万人までを大きく上回っている。”と言う指摘があった。ソ連は事件によって戦略目標は達したものの、人的被害のあまりにも大きいことから停戦したものと考えられる。
ここでは、事件直後“日本陸軍内で設置されたノモンハン事件研究委員会では、国軍伝統の精神威力をますます拡充するとともに、低水準にあるわが火力戦能力をすみやかに向上しなければならないと提言されたが、参謀本部がこれを採用することはなかった。”との指摘が見られた。日本は反省のないままであり、一方ソ連はノモンハン事件を大東亜戦争最終局面での“対日参戦の前哨戦として位置づけ”ていたと語っている。


⑥は、①で議論した日本が戦争で目指したものが何だったのか、を再び問う議論であった。
ここでは先ず、“戦後70年の誕生日に天皇はパラオ訪問を踏まえ、こう述べられた。「年々、戦争を知らない世代が増加して行きますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。」”から始まっている。そしてその戦争の内実は、①日米戦争、②支那事変(日中戦争)、③日ソ戦争、④欧州の植民地宗主国との戦争の4つの局面をもつ、複合戦争であった、と分析している。
日米開戦の原因について分析に及んでみると、“政策決定に関連するアクターは、一握りの政軍指導者から財界や世論にまで広がっていった”が、決定的な要因が何であったかまで解明は困難となっていった。
著者によれば、松浦正孝氏の大著『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか』に、その鍵は“汎アジア主義”という理念である、という。だが、“汎アジア主義は、それが「アジアの解放」を目的とするという虚構を政府や軍部にも浸潤させつつ、実は大東亜戦争を導く原因となっていた”というのだ。
“しかし、日本は欧米の植民地支配の是非を死活的な争点として戦争に突入したのではなかった。アジア太平洋地域に設定した権益を擁護し、生存に必要な戦略資源を確保するという「自存自衛」のために戦端を開いたのだった。”
戦勝後の“大東亜共栄圏”経営の理念を考えた場合、“海軍省傘下の思想戦研究会である識者が、大東亜宣言は「亜細亜に於いて英米思想を実現するものが日本ということになって妙な事なり」と評したが、共同宣言*は「反米英」のアジア解放宣言ではなく、逆に「親米英」の解放宣言であった。”との矛盾を指摘したという。

*共同宣言:1943年(昭和18年)11月初旬、大東亜会議の席上で発表された共同宣言。本文には大東亜建設綱領としての5原則(自主独立、平等互恵、資源開放、文化交流、人種差別撤廃;筆者注・米英の大西洋憲章を意識か)が盛り込まれたが、指導国理念を示唆する文言はなかった。

またこの“大東亜宣言を朝鮮や台湾の「独立」を含む「反植民地宣言」とする意志は当面なかった。なぜなら、朝鮮や台湾はすでに帝国領土であり、その住民は「帝国臣民」であったからにほかならない。”というご都合主義であった。
つまり、“大東亜共栄”の“高い理想”は一般国民の意識とは全く乖離したものだったのだ。実際には、中国に対しては“膺懲”するという上から目線の意識で対処して、口では“共栄”を唱えても、誰からも相手にはされないのは当然のことだろうが、そういうことすら一般国民には意識はなかったのではないか。
既述の小山俊樹氏の指摘のように、未だに日本人には“理念や目標は掲げるものであって、実現するものではない”といった意識が根強く残っているように思う。それが米英の開戦前の大西洋憲章の発表に対し、戦争の終盤近くになってようやく 大東亜宣言を発するといったチグハグが見られたのであろう。しかも、その宣言と実態の間には聞く人によっては矛盾があり、普遍性を欠く思想的に脆弱なものであった。東条等が密かに京都学派に理念の相談をしたというが、怜悧と言われたカミソリ頭でもってしても、難解で理解できなかったという、そもそも思想性のない頭脳だったのだ。
今のコロナ禍対策にしても、どのような基準で発令するのか解除するのかの客観基準を示さずに、とにかく右往左往して対策した気になって、疲弊するだけの状態である。正にPDCA意識が未だに低い人々なのだ。こうした意識の遅れが政治的指導層に多く認められるのが、この国の悲劇なのだ。

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