不知不識生と言うのは、人間「にんげん」は一番始めに不知不識「知らず識らず」に、出来たのです。
不知不識に生まれて来たのです。
此の事を私は、「不知不識生」と云うのです。
此の事実は、人間が知(識)る以前から自然「じねん」に在ったのです。
私たち衆生は、法「道」として出来たもの、即ち公「おおやけ」の物を自分のものの様に勝手に扱い、其れを自然「しぜん」と称して来たのです
不知不識生と言うのは、人間「にんげん」は一番始めに不知不識「知らず識らず」に、出来たのです。
不知不識に生まれて来たのです。
此の事を私は、「不知不識生」と云うのです。
此の事実は、人間が知(識)る以前から自然「じねん」に在ったのです。
私たち衆生は、法「道」として出来たもの、即ち公「おおやけ」の物を自分のものの様に勝手に扱い、其れを自然「しぜん」と称して来たのです
今の事実でないものはないはずです。
こんなに確かなものものを、以って生活「活動」している者に自己とは何ぞや問われれば、決心が付かずぐずぐずするのです。
自分のものを自分で信じて挙げられない、こんな哀れな事があるでしょうか。
実はほとんどの人が皆そうなのです。
所が仏教は、幸いなことに今の様に迷わなくてもいい自分を、見つける様に出来ているのです。
前の記事の信心脱落は平等です。
平等だけでは世の中に立って、働きが無いと云う事ですから、如何しても自分を忘れて其の物に成ってしまわない限りは働きが無いのです。
ですから信心脱落をして、自分を忘れ脱落身心をして自分を活かすと云う事です。
それでないと、世の中に立って何の役にも立たないと云う事に成ります。
従って自己を忘じただけでは、それだけのもので「悟り」と云うのは未だ迷いの内だと、昔から善く言われている訳です。
実相の正体を、見極めて観れば人「ひと」として、「人(ひと)とは、自己の事です。法として法とは、形の有る物、無い物に拘わらず一切の存在している物と云う事です。
一切の物が本当に無くなると云う事です。
人「此の物」が有(在)る為に、法の存在を認める訳ですから、人「此の物」が無くなれば、一切の法という相手も無くなるという事です。
今の自分という自分自身を振り返って観る習慣が、人には有(在)ります。
此の今の自分という自分自身「今の事実」は、事実として今此処に有(在)ると云う事です。
此の事は、古今東西不変の事です。
実相の正体を、見極めて観れば人「ひと」として、「人(ひと)とは、自己の事です。
法として法とは、形の有る物、無い物に拘わらず一切の存在している物と云う事です。
一切の物が本当に無くなると云う事です。
人「此の物」が有(在)る為に、法の存在を認める訳ですから、人「此の物」が無くなれば、一切の法という相手も無くなるという事です。
今の自分という自分自身を振り返って観る習慣が、人には有(在)ります。
此の今の自分という自分自身「今の事実」は、事実として今此処に有(在)ると云う事です。
此の事は、古今東西不変の事です。