息を引き取るという事は、「生(しょう)の法」から「死の法」に変わる事です。
生(しょう)には「生(しょう)の法」、死には「死の法」があるだけです。
その間に人の考えは入りません。
生きている、生きてないという事ではありません。
「今」呼吸をし、話をしているのは「生の法」の中です。
それが出来なくなって止んだ時が「死の法」なのです。
誰が呼吸をし、誰がものを聞き、誰が見ているのか、誰がどんな状態で死ぬのかという事は誰にも分かりません。
生には「生の法」があり、死には「死の法」があるだけです。
それほど人(ひと)というのは、どこにもいないのです。
生まれた時も自分が生まれたという事は分かりません。
誕生日も知りません。
長ずるにしたがって様々な「人間(じんかん)」の教えや、習慣や、話によって自分というものになっているわけです。
ですから、他人から聞いたものばかりなので、どんなにしても自分と他人の意見の間に色々な問題が生じてきます。
迷いというものはそういうものです。
迷いは「迷いの法」があり、悟りは「悟りの法」があるわけです。