現在の 「法を求める修行」 の様子を 「見聞(けんもん)」 する時、
誤りに誤りを重ねていく様子が目につきます。
原因は 「人」 が法を伝えて来たために
真の解脱(げだつ) がなくなったからです。
特に禅の修行で広く伝えられている誤りに、
「坐禅によって今の自分の様子を修正していくことである」
とか、あるいは
「坐禅をして自我を忘じ無我となることである」
とか、あるいは
「禅を学んで無や空を思想として勉強し、
自由なものの見方や新しい考え方を
習得することが禅である」
という例があります。
しかし、間違えてはならないのは、
「修正していくのが修行ではなく、修正しようとしている自分を
捨てる(忘れる)のが禅の修行である」
ということです。