私たち衆生には「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という六つの働きが
あります。
しかし、それはそういう働きだけのものです。
私たち衆生には「私」という中心になるものはないのです。
唯「耳」に音として音が入るのです。
同じように様々な音が一度に入ってきても間違えることはありません。
「人」が中心になってそういうものを聞いたり、見たり、考えようとすると
間違いの元となります。
何故そのものがそのものとして同時にそのまま入ってくるのでしょうか。
それは、そこには「人の働き」がないし、「人の考え」が入らないからです。
ですから、「そのまま入る」のです。