たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

東日本大震災5年の日 昆愛海ちゃんのこと

2016年03月11日 | 日記

先日検索ワードに「昆愛海(こんまなみ)」ちゃんの字句でどなたかが検索され、当ブログが閲覧されたとブログ解析に出た。
そうだ、昆愛海ちゃんも震災後5年経って、もう小学生だろう。震災当時は4歳だった。
2011年(平成23年)4月11日、朝日新聞の印象に残った震災記事の切り抜きを、何枚かを捨てきれず保存している。

ぱぱへ あわびとか うにとか たことか こんぶとか いろんのをとてね
ままへ いきてるといいね おりがみと あやとりと ほんよんでくれてありがと

昨日ネット検索すると、直筆写真が出てきた。ひらがなを覚えたばかりの字で、必死で愛海ちゃんは ぱぱとまま にお手紙を書いたのだろう。いつまでも実名をネットに残すのは良くない、ブログを修正しようかと、昆愛海ちゃんを検索ワードに入れたら、心配無用なほどたくさんの記事があった。中でも小学生になり自転車に乗っている記事があった。 今年はもう9歳になるのかな。小学3年生なのかな。

愛海ちゃんは震災当時、猟師の父文昭さん(39)と母由美さん(32)、妹の蒼葉(あおば)ちゃん(2)とともに自宅の庭にいた。すぐ隣は、集落の避難所に指定されていた小学校。波を見下ろす高い場所にいたはずだったが、瞬く間に大きな黒いうねりが家族全員をのみ込んだ。
愛海ちゃんだけ刺し網にひっかかって、引き潮で沖まで流されず、浜辺にとどまった。知人女性に手をつかまれ、坂道を駆け上がった。(2011年4月11日朝日新聞)

この日付ではまだ両親と妹の行方は分からなかったが、その後亡くなったことが確認された。一家は祖母の幸子さん(当時63)と5人家族だった。同居していた祖母は病院へ出かけていた。避難所から集落に戻れたのは2日後、親戚のひざで寝ていた愛海ちゃんを見て泣き崩れた。(2011年6月21日朝日新聞)
当時二人は高台にある親戚の家に身を寄せて過ごした。

この二つの記事は涙なしには読めなかった。ぱぱとまま にお手紙を書いた頃は、まだ住民の人達から衣類や靴や絵本などが届き、中でもお気に入りはノートとえんぴつだった。覚えはじめたひらがなでノートいっぱいに書いてみせた。この朝日記事をきっかけに全国から愛海ちゃんへ贈り物が届けられたらしい。

愛海ちゃん 学校は楽しいですか。おばぁちゃんは元気ですか。おばぁちゃんの膝の痛みはどうですか。今は仮設住宅ですか。
元気で大きくなってね、「やがて上の学校へ進み、恋をし、仕事に夢を追い、結婚して母親になって」ね。ではお元気で、さようなら。
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福島原発のグーグルアースも凄まじい。
https://www.google.co.jp/maps/@37.4218124,141.0330999,1716m/data=!3m1!1e3