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縄文と弥生の融合(日本文化のユニークさ総まとめ05)

2012年05月26日 | 相対主義の国・日本
引き続き「日本文化のユニークさ」6項目の5番目を5点から見ていく。5番目のユニークさとは以下のものである。

5)文化を統合する絶対的な原理や正義への執着がうすかった。また、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかった。

これについて5点から見ているわけだが、その5点をかんたんにまとめる。
①縄文時代以来の自然崇拝的・母性原理的な心性。
②自然の豊かさと自然災害の多さ。
③縄文文化と大陸文化の融合。
④異民族による侵入や侵略がなかったこと。
⑤狭隘な地形のため巨大権力による一元支配がなかった。

これらすべてが、日本人の絶対的な原理や正義への関心のうすさ、相対主義的なものの見方を形づくる要因となっている。こうして見ると結局は、①がこの問題のすべての根底にあるような気がするが、今回は、その3点目を見ていく。(以下すでにアップしたいくつかの記事を要約してまとめたものである。)

③高度に発達した縄文文化は、大陸から渡来した弥生文化によって消え去ったのではなく、縄文文化は基盤として根強く生き残りながら、大陸文化と融合していった。その事実の宗教的・政治的な帰結が神仏習合である。

◆なぜ縄文文化は抹殺されなかった?
縄文時代から弥生時代への移り変わりは、大量の渡来人が一気に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではない。大陸から日本列島への渡航は、それほど容易ではなかった。

縄文人がかなり早い段階でかんたんな農耕を始めていたことは、三内丸山遺跡などの発掘で明らかになりつつある。もちろん狩猟採集も行われ、これが生活の重要な位置を占めていた。弥生人により九州北部で本格的な稲作が始まり、それが東進してくると、稲作文化をかたくなに拒んだ縄文人もいたが、稲作を積極的に受け入れた縄文人もいたようだ。

現代人に占める縄文系と渡来系の血の配分は、1対2ないしは1対3だとされ、大量の渡来人が流入してきたと信じられてきた。しかし、渡来人が北九州に稲作を根づかせ、少なからぬ縄文人も稲作を受け入れ、渡来人と混じり合っていったとすればどうか。狩猟採集民は自然環境とのバランスの中に生きざるを得ないので基本的に人口は増加しないが、稲作民の人口増加率はかなり高い。それが渡来系の血を圧倒的に多くしていった。しかし文化的には、縄文系の風俗、習慣、信仰心などに溶け込んでいったのである。(→日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ

◆日本の蛇殺しの曖昧性
弥生時代以降、大陸から渡来した人々は、蛇殺しの神話をもっていた。こうした神話は、稲作と鉄器文化が結びついて伝播した可能性を示している。蛇殺しの神話は日本ではヤマタノオロチの伝説となった。スサノオノ命が、オロチに酒を飲ませ、酔って寝込んだすきに、剣を抜いて一気にオロチの八つの首を切り落とす。

この物語は、旧約聖書にも登場するバール神が海竜ヤムを退治した物語によく似ているという。バールは嵐の神であり、スサノオノ命もまた荒れ狂う暴風の神である。バール神の蛇殺しもスサノオノ命の蛇殺しも、ともに新たな武器であった鉄器の登場を物語っている。バール神がシリアで大発展した紀元前1200年頃は、鉄器の使用が広く普及した時代でもある。日本の弥生時代も鉄器が使用されはじめた頃だ。こうしてみると、蛇を殺す神々の登場の背景には、鉄器文化の誕生と拡散とが深く関わっており、殺される大蛇たちは、それ以前の文化のシンボルだったのだろう。

しかし、日本に関してはスサノオノ命が大蛇を退治したから古い文化を葬り去った新時代の神だったとは単純にはいえない。日本では蛇信仰は形を変えつつも生き残った。縄文文化は弥生文化によって抹殺されてしまったわけではない。縄文の心が稲作農耕を中心とした弥生文化の中に流れ込み、溶け合っていった。

それを反映してか、男神であるスサノオノは、ヤマタノオロチ退治の前、アマテラスが住む高天原で大暴れをして、「根の国」に追放されたのである。つまり女神に男神が敗北しているのだ。女神や蛇に象徴される古い文化(母性原理)が、鉄器をもった男神(父性原理)によって葬り去られるという単純な図式では、きれいに整理できない。

しかも「根の国」に追放されたスサノオが、復活してヤマタノオロチを退治するのは、出雲の国である。出雲はもともと縄文文化の関係が深い地域でもある。もともと出雲族は近畿地方の中央にいたが、外部から侵入した部族によって四方に分断され、その一部が出雲と熊野に定住したという説もある。さらに出雲族の一部は、諏訪地方にのがれ、諏訪大社の基盤を作ったという。諏訪大社は、御柱祭からも推測できるように、蛇信仰や縄文文化と関係が深いのだ。

すなわち、スサノオノ命の大蛇退治は、その前後の物語も含めて考えると、稲作や鉄器に代表される弥生文化が,蛇信仰に代表される縄文文化を葬り去った物語と単純にとらえることはできない。むしろ縄文文化と弥生文化が絡み合い融合していくさまを、そのまま反映して、両方の要素が複雑に入り組んでいるものと理解すべきだろう。(→日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

◆神仏習合
こうした形での文化の融合を端的に表すのが神仏習合である。仏教が初めて日本に入ってきたとき、すでに日本側では「日本的な習俗に仏教をあわせていく」という作業が始まっていたという。仏教というイデオロギーによって社会と文化が一元的に支配されず、神仏習合が起こったため、縄文的な流れをくむ信仰や習俗が抹殺されずに生き残ったのだ。

聖徳太子の後、日本は唐から律令制を導入するが、神祇伯(神祇官の長官)のような唐にない制度を設けた。これも、律令制度や仏教は導入しても、日本の神々のことも忘れていないということを示している。仏教で信仰される大日如来が、天照大神として日本に垂迹(すいじゃく)したという本地垂迹説は、神仏習合の典型だ。これがもっと洗練されると、もともと同じ神が、インドでは大日如来となり、日本では天照大神となったということになる。

世界のほとんどの国では、複数の宗教が両立することはなかった。たとえば百済は、仏教国となったとき、それ以前の土着の宗教(日本の神道にあたる)は消えてしまった。その後、朱子学が入ると仏教がおとしめられ、仏教は迷信の塊とみなされた。李朝でも上流階級には仏教徒は一人もいなくなったという。朝鮮半島に見られるような宗教の歴史こそが、世界の普通のあり方で、日本のように縄文文化やそこに根ざす神道が脈々と受け継がれていくということの方が例外なのだ。(→日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?

こうして、縄文文化は抹殺されず、むしろ生き生きと後の時代に受け継がれていくことになった。つまり、日本の歴史はその原初から、従来の文化を基盤としつつそこに新しい文化を取り入れ、自分たちに適した形に変えていくという、その後何度も繰り返えされる歴史の原型を作っていた。神と神の対立抗争よりはその融合を選んだという原体験が、その後の日本人の相対主義的なものの見方の基盤となったのである。

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日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓
日本文化のユニークさ18:縄文語の心
日本文化のユニークさ19:縄文語の心(続き)
日本文化のユニークさ27:なぜ縄文文化は消えなかった?
日本文化のユニークさ28:縄文人は稲作を選んだ
日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み
日本文化のユニークさ32:縄文の蛇信仰(1)
日本文化のユニークさ33:縄文の蛇信仰(2)
日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)
日本文化のユニークさ35:寄生文明と共生文明(1)
クールジャパンの根っこは縄文?

《関連図書》
☆『日本人はなぜ震災にへこたれないのか (PHP新書)
☆『世界に誇れる日本人 (PHP文庫)
☆『中空構造日本の深層 (中公文庫)
☆『山の霊力 (講談社選書メチエ)
☆『日本とは何か (講談社文庫)
☆『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
☆『日本の曖昧力 (PHP新書)

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2 コメント

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Unknown (pu)
2012-05-27 16:45:47
建築家の故・白井晟一は日本の建築を縄文と弥生という概念で分類しました。
それは縄文と弥生の土器の違いから分類したようです。
弥生の土器はシンプルで合理的なデザインで当時主流だったモダニズム建築に近いと。
一方、白井が影響を受けた縄文の土器は重厚で荒らさがあり地域に土着した文化を感じると。確かに縄文土器の複雑さはどこか自然を感じさせます。

実はこれは現在の農業にも当てはまると思います。
弥生のシンプルで合理的とはまさに今の農薬と化学肥料を使った農業を指すと思います。農薬で虫を排除し化学肥料でその土地の土と関係なくどこでも作物を作れるようにする。最近では地下で人工の光と土も使わず水と肥料だけで栽培しているようですが、このような自然から離れて行く様はどこか弥生文化を感じます。

そして縄文は農薬や化学的な肥料を使わない有機農法と、肥料さえ使わない自然農や自然栽培を指すのではないでしょうか。とにかく自然を排除しないので複雑でその土地によって細かくやり方を変えないといけないので頭を使うし自然との対話が必ず必要になります。こんな大変な農業をやられる方にはどこか自然崇拝的な信仰を感じます。

今の時代どちらが正しいとは言いにくいですが、日本に今でも古い文化が残っているのは間違いないような気がします。
返信する
現代の中の縄文 (cooljapan)
2012-05-27 20:27:37
puさんへ

興味深いご指摘ありがとうございます。
建築や農業の中でもそのような見方ができるのですね。

私も現代に残る縄文文化というテーマに強い関心がありますので、とても参考になりました。

コメントいただいたことをヒントにしながら、もっと調べていきたいと思います。
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