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日本文化のユニークさ30:縄文人と森の恵み

2011年08月09日 | 現代に生きる縄文
◆安田善憲『森のこころと文明 (NHKライブラリー)

今回は、この本のレビューをかねて、日本文化のユニークさ5項目のうちとくに(1)「狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている」について考えてみたい。著者は環境考古学の専門家であり、古い地層の花粉分析のデータなどから各時代の植生と文明のかかわりを追求する手法は、すこぶる興味深い。

★麦作農耕の始まり

シリアなど大陸で見つかる旧石器と比べると日本の旧石器は、かなり小さいという。しかも日本の後期旧石器時代の遺跡からは、一部が磨かれた局部磨製石器が出土する。旧石器時代の磨製の石斧は世界ではたいへん珍しいのだが、日本ではすでに30カ所以上の遺跡で見つかったとのことだ。それは、おそらく日本が森の多い環境であったため、森の資源・植物食を利用するために制作されたのではないか。これにたいし大陸の大草原は、ゾウ、サイ、バイソンなど大型の哺乳動物を捕獲したため石器も大型だった。

ところがヨーロッパでマンモスは、1万3000年前に絶滅した。後期旧石器時代の末期、大型哺乳動物が姿を消し、西アジアの大草原でも人々は途方にくれた。その頃、気候の温暖化でシリア北西部の地中海沿岸には落葉ナラの森が拡大した。人類は、姿を消した大型哺乳類のかわりに、森の木の実や小動物を食べて森の中で生活を始めた。しかし1万1000年ごろ、突然気候が氷河時代に逆戻りして、森の資源が減少し深刻な食糧危機が訪れた。森の中で植物利用になれていた人々は、森の周辺に広がるイネ科の草木に着目し、そこで農耕を始めたのである。

人類は、ステップに自生する野生の麦類を採集し栽培化することで晩氷期の食糧危機を乗り切った。この西アジアの麦作農耕地帯は、初期から羊、山羊などの家畜をともない、それを貴重なタンパク源としていたのが特徴である。これに対して日本文化のユニークさの一つは、食糧源としての家畜を伴わなかったことである。これが大陸の人々に対して日本人の精神構造のユニークさを形成する重要な要因になったことは、これまでに何回か取り上げた。

《関連記事》
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日本文化のユニークさ05:人と動物を境界づけない
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ところで、狩猟採集民には個人の所有や富の貯蔵という行為はなく、獲物はみんなで分かち合った。農耕・牧畜が開始されると、物を貯蔵し、所有して、なわばりも意識するようになる。富の貯蔵と所有を前提とした社会は、競争の原理を強化し、異なった集団間の摩擦や激しい殺戮を生んでいった。余剰と富がますます蓄積されるようになると、その蓄積の上に立った権力と搾取・殺戮は急速に拡大した。そしてこの草原に出現した麦作農耕の中から、人類初の都市文明が誕生する。その都市は、シュメール文明という源流の時代からすでに城壁に囲まれていたのである。

★そのころ日本列島の縄文人は?

西アジアの大草原で人類が農耕を開始したころ、東アジアの日本列島では、ブナやナラの落葉広葉樹の森で、狩猟・漁撈採集民としての生活を開始していた。1万3000年前の日本列島の気候は、温暖化・湿潤化したのである。この頃日本列島でも、大型哺乳類に代わり、サケ・マスなどやドングリ類を食糧とする生活を開始する。これが縄文文化である。ブナ・ナラの森が拡大すると同時に土器も使用されるようになる。土器によって縄文人は、ドングリ、イノシシ、鹿、サケなどを煮て、アクヌキ、消毒、新しい味覚などを伴う新たな食生活に入ることができた。

大型哺乳動物が消えた大草原で途方にくれて立ちつくした西アジアの人々とは違い、日本列島の森の中は食べ物が豊富だったのである。森の中では、物を貯蔵し、人のものを収奪する必要がなかった。所有の概念は強化されず、社会的不平等も顕在化しなかった。大陸で農業が生まれ、都市文明が勃興し、異民族間の戦争が繰り返されていたころ、日本列島では縄文人が1万年近くの長きに渡って、貧富の差も、階級差も、他集団との間の大規模な殺し合いも知らず、森の恩恵の中で自然を崇拝しつつ生活していたのである。この一万年の経験が、現代の日本人の心にも脈々と受け継がれているはずなのである。

「このように1万3000年前は、個人の所有が発達し、富を貯蔵し、権力者を生み、巨大な神殿や王宮を建造する階級支配の文明と、個人の所有が発達せず、富の貯蔵もあまり発達しない、権力者や貧富の差がなく、巨大な建築物をもたない平等主義に立脚した文明の、大きな分かれ道であった。」

巨大な神殿や王宮は、強力な宗教によって可能となるが、もちろん縄文人はそのようものを知らなかった。一万年もの間、そのような宗教を知らなかった日本列島の人々は、大陸から仏教や儒教を学び取るときも、これまでの森の民としての経験や必要性に合わせて、自分たちにいちばんしっくりとくる形に変形しながら、それらを取り入れたのも当然だろう。もちろんこの事実は、日本文化のユニークさ(4)「宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかった」の基盤となっていく。

《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架

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