[photo by Shigehiko Yamagishi/KAZI magazine]
週末を相模湾でのセーリングとレースに費やした後、
月曜日早朝に葉山を出て岩手県・大船渡へ。
新造の漁船を横浜までデリバリーする仕事だと聞いていたが、午後2時過ぎに現地に着いて、その2隻の船を見てビックリ。
それらの2隻は、ヤンマーが造ったもので、日本政府からマーシャル諸島のマジュロに寄付される漁業研修船だった。
大船渡までの道すがら、ホクレアのトレーニング航海のことを考えていた。
この7月、8月のトレーニングスケジュールの大筋がその前の週にやっと決まり、それに参加するためにチケットを手配しようとしたら、マイレージ特典のチケットはすでに空席待ち状態で、ハイシーズン中のハイシーズンであるハワイ行き格安チケットは、その時点ではすでに全然格安ではなくなっていた。おいそれと簡単に買える金額ではない。
なるべく冷静になっていろんなことを考え合わせ、マイレージ特典の空席待ちチケットが取れない場合は、非常に無念ではあるけど、この7月8月のトレーニング参加はあきらめるしかないな、と、一ノ関で東北新幹線から在来線に乗り換える頃には、半ば結論を出そうとしていた。
だが、ホクレアは9月からドックに入り、その先1年以上を掛けて大改造を行なう。この7月8月のトレーニング参加をあきらめるということが、どういう意味を持つのかも理解できていて、それが心にのしかかり、行かないという結論を出しあぐねてもいたのだった。
そんな思いで大船渡に着いてみたら、マジュロに行く船が待っていた。
マジュロは、ホクレアが2007年のミクロネシア・日本航海の時に立ち寄った島の中でも、特に意味深い島だ。
ホクレアのことを考えながら、ホクレアとは無関係の自分自身の仕事をしに岩手県まで来たら、ホクレアをストレートに思い出させる船が待っていた。
さらに。
翌日の火曜日早朝に大船渡を出航することになって、その夜、今回のデリバリー航海の責任者でもあるI船長と、まったく関係のない話をしていたら、I船長は、1975年沖縄海洋博の折、ミクロネシアのサタワルから沖縄・本部までスターナビゲーションで航海したミクロネシアの航海カヌー『チェチェメニ号』の、エスコート艇の船長を務めた方だと言うではないか・・・。
日本の、思いもよらぬ場所で、ホクレアやスターナビゲーションの、濃密な空気に包まれた。
(続きます)
週末を相模湾でのセーリングとレースに費やした後、
月曜日早朝に葉山を出て岩手県・大船渡へ。
新造の漁船を横浜までデリバリーする仕事だと聞いていたが、午後2時過ぎに現地に着いて、その2隻の船を見てビックリ。
それらの2隻は、ヤンマーが造ったもので、日本政府からマーシャル諸島のマジュロに寄付される漁業研修船だった。
大船渡までの道すがら、ホクレアのトレーニング航海のことを考えていた。
この7月、8月のトレーニングスケジュールの大筋がその前の週にやっと決まり、それに参加するためにチケットを手配しようとしたら、マイレージ特典のチケットはすでに空席待ち状態で、ハイシーズン中のハイシーズンであるハワイ行き格安チケットは、その時点ではすでに全然格安ではなくなっていた。おいそれと簡単に買える金額ではない。
なるべく冷静になっていろんなことを考え合わせ、マイレージ特典の空席待ちチケットが取れない場合は、非常に無念ではあるけど、この7月8月のトレーニング参加はあきらめるしかないな、と、一ノ関で東北新幹線から在来線に乗り換える頃には、半ば結論を出そうとしていた。
だが、ホクレアは9月からドックに入り、その先1年以上を掛けて大改造を行なう。この7月8月のトレーニング参加をあきらめるということが、どういう意味を持つのかも理解できていて、それが心にのしかかり、行かないという結論を出しあぐねてもいたのだった。
そんな思いで大船渡に着いてみたら、マジュロに行く船が待っていた。
マジュロは、ホクレアが2007年のミクロネシア・日本航海の時に立ち寄った島の中でも、特に意味深い島だ。
ホクレアのことを考えながら、ホクレアとは無関係の自分自身の仕事をしに岩手県まで来たら、ホクレアをストレートに思い出させる船が待っていた。
さらに。
翌日の火曜日早朝に大船渡を出航することになって、その夜、今回のデリバリー航海の責任者でもあるI船長と、まったく関係のない話をしていたら、I船長は、1975年沖縄海洋博の折、ミクロネシアのサタワルから沖縄・本部までスターナビゲーションで航海したミクロネシアの航海カヌー『チェチェメニ号』の、エスコート艇の船長を務めた方だと言うではないか・・・。
日本の、思いもよらぬ場所で、ホクレアやスターナビゲーションの、濃密な空気に包まれた。
(続きます)