9月24日 江戸を歩く

2008年09月30日 | 風の旅人日乗
品川で、東京海洋大のT准教授と、
チームニシムラの来年の活動案についての打ち合わせを兼ねた昼ごはんを食べた後、
豊洲のららぽーとにあるユナイテッドシネマへ。

夕方の、次の打ち合わせまでの間に、
ジョディー・フォスターの『幸せの1ページ』を観ようと思っていたのだが、
残念無念、上映時間が合わず。
天気のいい東京で、中途半端な時間が空いてしまった。

ちょっと考えた後、
豊洲から門前仲町を経由して、
蔵前、両国を通って浅草までの散歩を楽しむことにする。

豊洲から都立三商の横を通る道は、学生時代、大学の寮から晴海まで、
往復のジョギングをしていた道だ。
懐かしい母校・東京商船大学の手前を右に折れて、牡丹町へ抜ける。

深川八幡本祭りで牡丹町2・3丁目の神輿を担ぎ、
町中の人たちと祭りを堪能したのは、
わずか1ヶ月ほど前のことなのに、
町は秋の陽射しの中で静まり返っている。

去年の夏、ナイノア・トンプソンが将来のホクレアの航海計画を語ったおでん屋千松の前を通り、
永代通りを渡って富岡八幡宮へ。

最近山本一力さんのあるエッセイを読んでから気になっていた、
富岡八幡宮の本殿へと上る石段の両サイドを守る狛犬の台座の文字をチェックする。

『享保十二年、海辺大工町(うみべだいくちょう)』
わー、本当だ。
山本一力さんの文章にあった通りの文字が、くっきりとした鋭角で深く彫られていた。
学生時代以来、今まで何回もこの狛犬の横を通ったが、まったく気が付かなかった。

江戸時代の享保十二年は、西暦でいえば1727年に当たるらしい。
281年前の江戸で掘られた文字がここにある。

とは言え、300年近くも、日にさらされ、雨にさらされ、
おそらく時々野良犬の立ちションにもさらされてきたとは思えないような、
シャープな彫り文字が、ちょっと気になる。
 しかし、もし仮に、享保十二年以降の後年、
台座だけは作り変えられたかも知れないとしても、
少なくとも狛犬だけは当時のものであるはず。

狛犬を見ながら、空想が江戸時代に飛ぶ。

もし、洋式の、しかもウォシュレット付トイレが設えられた長屋に特別に住めるのであれば、
1年ほど江戸時代の江戸に町民として住んでみたい、と夢見ている。
故・杉浦日向子さんのタイムマシンSFエッセイ『江戸アルキ帖』の世界に、
本気で憧れたものだ。

富岡八幡宮でお参りをしてから冬木町へ抜け、
亀久橋を使って仙台掘川を渡り、左へ折れて隅田川の方向に歩く。

清澄庭園の脇を通り、清澄公園の中を突っ切って、
小名木川に架かる万年橋へ向かう。

もともと清澄庭園と清澄公園は、
元禄時代に江戸で大成功を収めた紀伊国屋文左衛門の
大別邸の敷地だった所だそうだが、
文左衛門存命中の享保年間にはすでに、
下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷が建てられていたらしい。

その清澄公園を抜けた辺りが、
281年前の享保十二年に、
現在の富岡八幡宮の狛犬を奉納した人たちが住んでいた、かつての海辺大工町だ。
同じ地べたの上を、元禄・享保・現代が、時空を超えて忙しく行き交う。

それにしても、海辺大工町。
渋い町名だ。
徳川幕府が開闢する前は、ただの河口の草っ原だったところに
夢の新都市・お江戸でござるが突如出現した。
そのまま、当時の世界最大規模の都会へと発展していった江戸の普請を
一手に引き受けていた大工職人たちが、
木場の材木商街の近くの海辺の町に住むようになって、
それで、海辺大工町という誇らしげな町名を付けたのだろうか。

万年橋を渡り、隅田川にかかる新大橋を左に見ながら、
そのまま北上を続ける。

両国橋を越えて、さらにしばらく行くと、
歩道に面して立派な陸奥(みちのく)部屋のビルディングがある。
若い衆が通りに打ち水をしている。
そういえば、今は本場所中だ。

その先にある総武線の高架をくぐると、
右に両国国技館が見える。
力士名が書かれたのぼりがはためき、
たくさんの人たちが国技館に吸い込まれていく。
江戸時代の奉納相撲も、こんな感じだったのかな。

ビーチサンダルの裏が薄くなってきているため、
この辺りで足裏が痛くなってくる。
江戸時代の時代小説に登場する人物たちは、
門前仲町から浅草、千住、日本橋、品川にかけてのエリアを、
まるで近所の蕎麦屋に行くかのように気楽に駆け抜けているが、
現代人の足はそんなに達者じゃないのだ。

蔵前橋の手前から隅田川沿いのリバーウォークに降りて、
大川(隅田川)の川面を見ながら歩くことにする。
ホームレスの人たちの住む、ブルーシート・ホームの拵えの見事さと
きれいに掃除され整頓された室内の清潔さに驚きながら、
浅草を目指す。

厩橋を渡って江戸通りを右に曲がり、
駒形どぜうの前を通って、
並木通りの藪蕎麦に到着。
ふー、ちょっと休憩。
お気に入りの吾妻橋藪蕎麦が、
長期休業中のため、
自分ごときにはちょっと敷居が高いのだけど、
最近はこっちの藪を使わせてもらっている。

昼食時間帯後でもあり、ちょっと一杯呑むか時間帯前でもある、
中途半端な時間だったため、
ありがたいことに、お店の中にお客さんはまばら。
冷たいビールで背中の汗を引かせたあと、
ざるそばを1枚。

雷門をくぐって、
外国人観光客で賑わう仲見世を通り、
浅草寺にお参りをする。

ご存知の方も多いかと思うが、
浅草寺のおみくじは、『凶』の含有率が非常に高い。
観光地に来た浮かれ気分で、ゆるんだ気持ちのままくじを引くと
顔が凍りつくことになる。
気合を込めて、真剣に祈りながら番号棒を引かないと、
非常な打撃を受けることになる。

今日のワタクシは気合充分だったようで、凶を避けることに成功。
希望に溢れたお言葉で埋まるおみくじにニンマリしたあと、
時計を見たら、
夕方の、自由が丘での待ち合わせ時間に間に合うためには
ギリギリの時間になっていた。
友人が眠る、田原町の東本願寺のお墓にお参りに行きたかったが、
今日は時間がなくなった。

一日江戸人は、江戸アルキをここで切り上げ、
地下鉄銀座線に乗って頭の中を現実の仕事のことに切り替えて、
渋谷経由で自由が丘に向かうことにした。

9月23日 葉山沖

2008年09月30日 | 風の旅人日乗
秋のインカレを控えて、この日は関東地区国公立戦。
当番校の東京医科歯科大のヨット部はすでに廃部になっていて、
東京海洋大学がその代打を務めることになったので、
ヨット部OB会の末席に名を連ねる者として、レース運営のお手伝い。

とはいえ、今日のぼくの役割は、知人から本部船としてお借りしたX332を操船することだけで、
レース運営そのものは、プロ的とさえ思えるヨット部OB会の重鎮たちが、
テキパキと手際よく進めていく。
なので、アンカリングしたあとは、生きのいい学生たちのレースをじっくり観戦。
教えたいこと、伝えたいことがいろいろある。

この日は、『海快晴』という風予報サイトで気象予報士を務めるOさんを、
本部船にお誘いした。
レース運営をやるにも、レースに参加する以上に風の予想が重要。
一緒に雲を見たりしながら、いろいろと勉強させてもらった。

9月29日 母と過ごす

2008年09月30日 | 風の旅人日乗
昨日、10月8日、スペインから帰ってきたけど、日記はまだ9月29日。

9月25日から29日まで、母が葉山に滞在した。
74歳になって、少し片耳が遠くなってきたけど、
頑張り屋の母は、一人で飛行機に乗って、北九州から羽田までやってきた。

羽田空港から、そのまま母にとっての孫が通う保育園に連れて行った。
孫が,どんな保育園で、
どんな先生に守られて、
どんな友達たちと遊んでいるのかを、
しっかりと自分の目で見た母は、とても嬉しそうだった。

翌日は、江ノ島神社と、鎌倉の長谷寺に、家族全員で遊びに行く。
この日の相模湾は、南風がとても強い日だったけど、
孫の手を引いた母はとても楽しそう。

長谷寺の庭から海を見ながら、
故タイガー・エスペリと夢を語り合った日のことを、
そのときと同じベンチに座ってぼくが思い出しているときも、
母は孫娘を膝に乗せて、
一緒にお絵かきをしながら孫との会話を一生懸命楽しんでいた。

葉山に戻って、遅い昼ご飯に釜飯屋さんに行き、
母は、栗釜飯をペロリとたいらげた。

翌日は母の孫娘の七五三。
前日に吹いていた南の強風は、北の微風に変わり、最高の天気。
11月が通常の七五三よりもかなり早いが、氏神様の森戸神社の宮司さんにお伺いしたら、9月でも大丈夫ですよ、とのことで、ぼくの仕事の都合に合わせてこの日にしてもらった。

妻方の御両親、妹親子も来てくれて、
全員で森戸神社の本殿に上げていただき、
穏やかな宮司さんから祝詞を挙げていただいた。
母にとっては最高の、孫娘の七五三になったと思う。

森戸神社の本殿に初めて上げていただいたが、
森戸神社が本筋の神社だということに改めて気付かされた。


その後、みんなで歩いて自宅に戻り、
昼からの大宴会になったが、
翌日に原稿締め切りを控えている身として、
夕方、その酔いを醒まそうと森戸海岸を散歩していたら、

この日行なわれていた関東インカレ予選初日のレースで
いきなり失敗をやらかしたらしい大学後輩のT君が
放心したように浜辺でたたずんでいるのに出くわした。

あれこれアドバイスをしようとしたが、
尻の長い昼酒に酔っているため、話の収拾がつかなくなってしまい、
翌日のレースで起死回生を目指さなければならないT君を余計混乱させた、
と思う。
ゴメンね。

翌日日曜日の朝は、夜明けに原稿を無事書き上げた後、
母と家族全員で、歩いて葉山町内のパン屋さんへ。
ここのパン屋さんは、ブッフェスタイルの朝食を出す。
パンはおかわり自由。

母、かみさん、娘の女性陣はパンが大好きで、
和食派のぼくには到底考えられないくらい
途方もない量のパンを食す。
母も、74歳とは思えないような健啖ぶりだ。

パンの朝食に満足できなかったため、
午後になって、渋る女性陣を無理やり引っ張り出して、
蕎麦屋さんWへ。
ここのお蕎麦は、つゆがいらないくらい、風味と味がある。
この日もおいしい蕎麦だった。
パンの恨みを蕎麦で打った。

9月29日月曜日、雨の中を母を乗せて羽田に向かう。

母と、ぼくの家族の、足掛け5日間の休日が終わった。