常磐新平さんのエッセイ集『明日の友を数えれば』を読んでいるのだが、なんだろう、この味は。
それほど起伏に富んだ珍しい話が書いてあるわけではない。大きく心を動かせられるわけではない。
身辺に起こる、普通のことを淡々と書いてある、という風に見せかけて、実は、読者の知らぬ間に、読者の琴線に触れている、といった感じかな?
いや、見せかけるといった意識も新平さんにはないであろう。
しかし、大したことが書いてないのに飽きない。
するするするすると読める。というより読んでしまっている。
これぞ、新平さんの文章の技だろうか。
今読んでいるところ。「自動車といったころ」という題のたった一ページほどの話。こんな風に始まる。
《人によってそれぞれ違うだろうが、一生に車を何台買い換えるのか。その一台一台に物語があるはずだ。》
こんな風に書かれると、「さて自分はどうだっただろう?」と思ってしまう。
実際にどうだったんだろう?
最初は中古の「マツダK360」という軽三輪だった。昭和36年のこと。
免許証を取得してから58年をすぎる。まだ無事故。
次も中古の「マツダB360」これは軽四輪。
その次が「スバルサンバー」という軽四輪貨物車で、これが最初の新車だった。
次が初めての普通車で「マツダファミリア」、たしか800CCだったと思う。
これは貨物ではなく、ライトバン。これはうれしかった。四人乗りで乗用車の雰囲気があった。
これで初めて但馬まで二泊三日のドライブに六ちゃんと行った。
しかしこの車はよく故障した。クラッチが弱かったのだ。
それからあとは「トヨタカローラバン」ばかり何台か乗った。多分3台ぐらいは。これは1100㏄だったかな?
後に1500㏄になったのだったか。
そして、米屋を辞めたあとは、「トヨタカムリ」の中古車。
これは初めてサラリーマンをした時に会社から与えられた通勤車で、オンボロだった。
すぐ手放し、やはり中古だったが、状態のいい「トヨタカリーナ」に乗った。
これで3年間、鳴尾浜まで通勤し、その間、阪神大震災があったりした。
あ、その前に、米屋をしていた時、アルバイトとして宅急便の配達をしていたことがあった。
その時、マツダの軽トラックに少しの間乗った。これは中古車。
「トヨタカリーナ」の後は、今乗っている、「トヨタカローラフィルダー」の新車だ。
娘のkiyoが結婚する直前だったから、15年ほど乗っている。
もうこれが最後になるのかな?
と、こうして考えてくると、その一台一台に物語がある。
それを思い出すだけでも、新平さんがおっしゃる通り、本が一冊書けそうだ。
追記
さっき大したことが書いてないと書いたが、読み進むとこんなことが書いてある。
伊藤佳一の『悲しき戦記』からの引用だが。
《目達原(佐賀県)基地から出撃の朝、少女は見送りにやってきた。その特攻隊員が乗る機に彼女はとりつくなり、ひと声も発せず、「ただすさまじい勢いで、頬を涙が伝わっていた」。彼女についてきた娘が言う。「この人、物が言えないんです。この人の気持あたしききました。あなたが戦死した兄さんと似ているんです。だから好きなんです。わかってください。たとえ口がきけても、もう言葉じゃ伝えようがないでしょ。(略)あたしたち泣くだけです」》
若い特攻隊員と物言わぬ一少女の淡い恋の話。
そのあとこう続く。
《やがて特攻機は米艦隊の猛攻を浴びる沖縄に向かって一機また一機と飛び立ってゆく。その特攻隊員は眼下を見た。霞んで何も見えなかった。彼もまた泣いていたのだ。》
ちょっと、う~~~ん、と思ってしまいます。