喫茶 輪

コーヒーカップの耳

ちょいと今津浜まで

2019-11-03 16:56:06 | 健康・病気
このところ運動不足になっています。
で、少し外を歩いてきました。
今津浜まで。
普通に歩いて、往復一時間足らず。
帰宅すると同時に汗が噴き出してきました。
途中で摘んだ胸ポケットの木の葉、なんで濡れてるのかな?と思ったら、わたしの汗でした。


東川川尻から北を見た景色。


こちらは南方面、水門です。

今、今津港では巨大水門を設置する大工事が県によって行われています。
津波に備えてです。たしかに、この今ある水門では、予想される5,1メートルの津波には対応できませんね。

さて、今津灯台です。現役の灯台としては日本最古のものとのこと。

まだここにありました。
やがて移転すると聞いてます。

kohやsatoとよく来た浜辺。

やがてこの小さな浜辺は無くなってしまいます。
何とか残す方法はなかったのでしょうか。


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もう一度『一九三〇年代モダニズム詩集』

2019-11-03 12:53:26 | 
今朝の神戸新聞の「ひょうご選書」に『一九三〇年代モダニズム詩集』(みずのわ出版・季村敏夫編)が取り上げられていました。

←二段階クリック。

この詩集のこと、先日ここでもちょっと触れました。『一九三〇年代モダニズム詩集』

ところでこの記事ですが。
評者は甲南大学名誉教授の中島俊郎さんという先生。
センテンスの長い文章で、わたしは二度読ませていただきました。
それでなんとか理解できたかな?という程度です。
始めの方にあるこの文なんか解りにくいですねえ。

《たんなるモダニズム詩のアンソロジーと考えてしまえば、火傷してしまうほど凝縮された世界が放射され展開している。》

その前の冒頭にある文はこうです。

《本書は素手ではもてない。白い瀟洒な装いの中から発される詩の熱量が尋常ではないからだ。》

とあって、先の文に続きます。
身構えちゃいますよねえ。
うわ~っ、よほど難しい本かと思ってしまう。
ところが、このような紹介もしてあります。

《そうした中にシネ・ポエムという竹中郁の「ラグビイ」もあった。「何を蹴っているのだろう。胴から下ばかりの青年。/〈ああ、僕は自分の首を蹴っている〉」と歌う竹中と、「私はあたしから離れよう/ピアノをぬけだすミユウズのやうに/時刻といつしよに地球の外へ滑り落ちる」(「青い貝殻」)と表現する矢向季子との詩における距離は何と近しいことか。その類縁性にはいささかも違和感がない。》

まあ、それほど難しくはないですねえ。兵庫県で多少詩を書いているものなら、それほど難解ではありません。
そして、結びですが、評者は当然言いたかったことなのでしょう。

《「恥辱を知らない彼らの不遜なことばへの接し方、たえ難い、ことばを刻み込む未完の行為こそ詩である」という編者自身の言葉へと重なっていくからである。》

あ、やっぱり難しかったでしょうか。わたしの弱い頭脳では余計に。
ということで、上の写真を二段階クリックして、ちゃんと全文を読んでみて下さい。そしたらよく解るのかもしれません。
わたしは、もう一度この本を読みなおしてみましょう。
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新平さんのエッセイ

2019-11-03 08:19:28 | 本・雑誌
常磐新平さんのエッセイ集『明日の友を数えれば』を読んでいるのだが、なんだろう、この味は。

それほど起伏に富んだ珍しい話が書いてあるわけではない。大きく心を動かせられるわけではない。
身辺に起こる、普通のことを淡々と書いてある、という風に見せかけて、実は、読者の知らぬ間に、読者の琴線に触れている、といった感じかな?
いや、見せかけるといった意識も新平さんにはないであろう。
しかし、大したことが書いてないのに飽きない。
するするするすると読める。というより読んでしまっている。
これぞ、新平さんの文章の技だろうか。
今読んでいるところ。「自動車といったころ」という題のたった一ページほどの話。こんな風に始まる。
《人によってそれぞれ違うだろうが、一生に車を何台買い換えるのか。その一台一台に物語があるはずだ。》
こんな風に書かれると、「さて自分はどうだっただろう?」と思ってしまう。
実際にどうだったんだろう?
最初は中古の「マツダK360」という軽三輪だった。昭和36年のこと。
免許証を取得してから58年をすぎる。まだ無事故。
次も中古の「マツダB360」これは軽四輪。
その次が「スバルサンバー」という軽四輪貨物車で、これが最初の新車だった。
次が初めての普通車で「マツダファミリア」、たしか800CCだったと思う。
これは貨物ではなく、ライトバン。これはうれしかった。四人乗りで乗用車の雰囲気があった。
これで初めて但馬まで二泊三日のドライブに六ちゃんと行った。
しかしこの車はよく故障した。クラッチが弱かったのだ。
それからあとは「トヨタカローラバン」ばかり何台か乗った。多分3台ぐらいは。これは1100㏄だったかな?
後に1500㏄になったのだったか。
そして、米屋を辞めたあとは、「トヨタカムリ」の中古車。
これは初めてサラリーマンをした時に会社から与えられた通勤車で、オンボロだった。
すぐ手放し、やはり中古だったが、状態のいい「トヨタカリーナ」に乗った。
これで3年間、鳴尾浜まで通勤し、その間、阪神大震災があったりした。
あ、その前に、米屋をしていた時、アルバイトとして宅急便の配達をしていたことがあった。
その時、マツダの軽トラックに少しの間乗った。これは中古車。
「トヨタカリーナ」の後は、今乗っている、「トヨタカローラフィルダー」の新車だ。
娘のkiyoが結婚する直前だったから、15年ほど乗っている。
もうこれが最後になるのかな?
と、こうして考えてくると、その一台一台に物語がある。
それを思い出すだけでも、新平さんがおっしゃる通り、本が一冊書けそうだ。

追記
 さっき大したことが書いてないと書いたが、読み進むとこんなことが書いてある。
 伊藤佳一の『悲しき戦記』からの引用だが。
《目達原(佐賀県)基地から出撃の朝、少女は見送りにやってきた。その特攻隊員が乗る機に彼女はとりつくなり、ひと声も発せず、「ただすさまじい勢いで、頬を涙が伝わっていた」。彼女についてきた娘が言う。「この人、物が言えないんです。この人の気持あたしききました。あなたが戦死した兄さんと似ているんです。だから好きなんです。わかってください。たとえ口がきけても、もう言葉じゃ伝えようがないでしょ。(略)あたしたち泣くだけです」》
若い特攻隊員と物言わぬ一少女の淡い恋の話。
そのあとこう続く。
《やがて特攻機は米艦隊の猛攻を浴びる沖縄に向かって一機また一機と飛び立ってゆく。その特攻隊員は眼下を見た。霞んで何も見えなかった。彼もまた泣いていたのだ。》
ちょっと、う~~~ん、と思ってしまいます。

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