
紀伊半島豪雨から10年だという。
あの時、テレビに出た「中村義明」という名前を見たときには、ちょっと嫌な気がしたが、まさかと思った。
しかし、残念ながら彼だったのだ。
62歳だったから、今元気なら72歳だ。
明(アカル)君の子、彼にとっての孫を可愛がっていることだろう。
今年もたくさんの年賀状を戴きました。
皆さまのお顔を思い浮かべながら楽しませて頂きました。
その中で、この一枚に胸が熱くなりました。
見た瞬間、彼だと分かりました。
そう、熊野の中村義明君からです。
彼は一昨年秋、村人たちのためにあの豪雨の中で働いていて
川に流され犠牲になったのでした。
その中村君からの年賀状です。
間違いなく彼の絵です。
毎年毎年、彼からはこのような絵の年賀状をもらっていました。
そして一筆添えてあったのです。
今年のには奥様、多加子さんが一筆添えて下さっていました。
「(略) 明(あかる)も私も元気に忙しく暮らしています。パソコン習い始めました。「輪」みせていただきます」と。
ということで、この年賀状は、以前彼が作ったものの原稿が残っていて、それを使われたのだ。
ありがとうございます。どうか元気でやって下さい。
わたし、考えるところがあって、食べ物の戴き物をブログで紹介することをなるべく控えています(花や植木は別)。
ですが、今日は紹介します。
和歌山新宮市熊野川からのコンニャクです。
熊野川町篠尾(ささび)の中村義明君の奥様からです。
これまで度々紹介して来ましたが、中村君はこの秋の台風12号の犠牲になった、わたしの古い友人です。この春にもこのコンニャク、彼が送ってくれたのでした。刺身で頂きました。ことのほかおいしかったです。その時、お礼の電話をしたのが彼と話した最後でした。あんなに明るく話していたのに、こんなことになるとは思ってもみませんでした。
彼は、過疎の地、篠尾の村興しに力を注いでいました。そのひとつがこのコンニャクでした。
〇
奥様にお礼の電話をしました。すると、
「お父さんが作ったコンニャク芋で作ったコンニャクです」と。
これは、あだやおろそかには食べられません。心して戴きます。
このブログを見て下さった皆様、ちょっと覚えておいて下さいね。
珍しいお客様ご来店。
松原町のY沢さんです。
これを持って来て下さいました。
前にここにも載せました。中村君の新聞記事の切り抜きです。
Y沢さんは中村君とわたしの共通の知人です。同じ禅会で修業した仲間です。Y沢さんは今も続けておられます。わたしは早くに、だらしなく棒を折りました。
Y沢さん、親切にわたしが知らないのではないかと思って切り抜きを持って来て下さったのです。
そのY沢さんのこと昨年『KOBECCO』に書きました。面倒でしょうが読んでみてください。心打ちませんか?
ここに書いたようにY沢さん、病気の後遺症をお持ちだ。今日もここへ来るのに30分ほどかかったと。そしてこの道へ入って来た時「あっ、ここや」とうれしかったと。そんなにして来て下さったのだ。
しかし中村君のことはわたしの方が情報を多く持っていた。それをわたしはY沢さんに知らせなかった。わたしはうかつだ。彼は病身にもかかわらず、来てくれた。
わたしの持っているものをコピーして差し上げた。彼はその紙片に私の説明をいちいちメモをしていた。「今の会員に読んで頂きます。かつてこんな会員がいて、こうして亡くなったのだということを知ってもらいます」と言って帰って行かれた。
車でお送りしますと言ったが、「リハビリにもなりますので」と帰って行かれた。
帰られた後に忘れ物が残っていた。あわてて自転車で追いかけたが見つからなかった。とりあえず彼の家を目指した。途中で会うかもしれないと思ったが会えなかった。どうやら遠回りをして帰られたようだ。道が分からなかったのだろう。家にお嫁さんがおられて事情を話してお渡ししておいた。
TVのニュースでも流れましたが、新宮市で台風12号による犠牲者の慰霊祭が行われたと。
中村君の奥様が代表で言葉を述べているのが夕方のNHKニュースで映りました。
その言葉。
遺族を代表して新宮市熊野川町篠尾(ささび)の中村多加子(なかむら・たかこ)さんが消防団員だった夫、義明(よしあき)さんに対してお別れの言葉を読み上げました。中村さんは「篠尾をみんなのふるさとにするというあなたの夢に向かって地域の皆さんと一緒に歩んでいきます。空から応援してください」と述べました。
この秋の台風12号の犠牲になった西宮出身の中村義明君(62歳)が十数年前に科学雑誌『ウータン』に寄稿していた文章を紹介してきました。
長々と引用してきましたのは、この文章、今、もう一度、日本人が心せねばならないことを多く含んでいると思ったからです。一人でも多くの人に読んで頂きたいと思ったからです。出来れば、もう一度、最初からお読み頂ければうれしいです。必要な方にはコピーをお送りします。
そして、これをブログに載せて来たもう一つの理由は、彼への鎮魂と供養の意味がありました。どうか中村君、安らかに。
最後に、わたしが最近あるところに書いたものをお読み下さい。
「熊野から」を長らくお付き合いくださいましてありがとうございました。
中村君の記事、長くお付き合いして頂きましたが、あと少しです。
「熊野から」の18回目。
「初夏の楽しみ」とあります。いい光景ですねえ。「心地よい風に吹かれながら、夕闇の中に次第に輪郭を失っていく山を飽くことなく眺めている」と。「飽くことなく」がいいです。わたしなら飽きてしまう。しかし、彼がこう書くと、わたしも憧れを持ってしまう。
そして重要なこと。
「自然と調和した(どっかで聞いた言葉だ!)節度ある生き方をしたいと願う」と。
「私たちの贅沢な暮しのツケを子孫に回すことはしたくない。現在の生活から贅肉を削ぎ落とす痛みを分かち合って自然と調和した節度ある生き方をしたい。」
これどうですか!今こその言葉と思っていたら、彼は十数年前にこのようなことを書いていたのです。
ああ!と思いますね。
「まだ間に合う。」
間に合うのでしょうか?たしかに彼が書いたこの時には「まだ間に合う」だったでしょうが。今年、原発事故が起こってしまって、どうなのでしょうか?間に合ってほしいですが。
「…とこんな堅いことを考えながら玄関で一杯飲んでいるわけではありません。ただただボケッと山を眺めて飲んでいるのです。」
いいなあ!わたしもそのそばに座って飲みたかったなあ。今では叶わぬことになってしまった。つくづく悔しい。
つづく
中村君は独身の頃、西宮市津門大箇町に住んでいました。そのころ彼は心のうちに”何か“を抱え、禅寺の門をたたいたのです。それが市役所隣の茂松寺でした。そこで私は彼と約10年間毎週のように顔を合わせていたのでした。
「熊野から」15回目です。「初牛」とあるのは「初午(はつうま)」の間違いでは?
ここにはまた重要なことが書いてあります。
「村全員の面接試験をこのお祭りの時に受けた…」と。
このこと、わたし全く知りませんでした。単に行きたいから行けたのかと思っていました。そして合格判定を頂いた、と。なんかいいですねえ。「村が過疎になったから、都会からの移住者はすべて歓迎」というわけではないのですね。まあ、それまでに村人には苦い経験があって、このような制度を作ったのかも知れませんが。
つづく
中村君の話、もう少しお付き合いください。
山の仕事の苦労の様子が細かく書かれています。
苦労の中にも山で働く喜びが自然ににじみ出ている文章です。
「うぐいすの鳴き声を初めて聞いた時など、春が来た喜びを体中で感じるのだ」と、実感がこもってます。
ここでこんな歌を一度聞いて頂けるでしょうか?↓
http://www.youtube.com/watch?v=M6K6S-NmBEM
つづく
「山見」という言葉が出てくる。
ここには重要なことが書いてある。「山見をせず手入れもされない山も多い。…」 うちの家内の里がこの通りになってしまっている。お父さんが亡くなられた後を継がれたお兄さんも亡くなられた。その長男は町へ出てしまっており、もう山の境界も分からない。中村君は言う。「代が替って手入れできない山は町が買い取って管理し、杉檜を伐出した後は広葉樹を植林するか自然林に戻して環境を守っていくようにしたいものだ。」と。これは言い提言だと思うが、実際はどうなっているのだろう。
消防団に入ったと。といってもこれはもう十数年前ではありますが。
「またひとつ地元のお役に立てることができて、嬉しい。」
こうして着実に篠尾(ささび)に根を下ろして行ったのですね。
つづく