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コーヒーカップの耳

「技術者か?芸術家か?」

2019-11-19 16:30:35 | 本・雑誌
『ねじとねじ回し』に「技術者か?芸術家か?」という項目がある。
その中にこんなことが書かれている。
《天才技師は天才芸術家ほど世の中から理解されないし、よく知られてもいないが、両者が相似形をなす存在であることは間違いない。フランスにおける蒸気機関のパイオニアだったE・M・バタイユはこう述べている。「発明とは、科学者の詩作ではないだろうか。あらゆる偉大な発見には詩的な思考の痕跡が認められる。詩人でなければ、なにかを作り出すことなどできないからだ」(略)機械の複雑な関係を直感的に理解する、才気ほとばしる発明家の心は、たしかに詩的である。》
ところがこの後、こう続く。
《ねじ回しはといえば、詩的とは言いがたい。火縄銃兵が使ったスパナや武具師のペンチが進化してねじ回しを取り入れるようになったのか、あるいは曲がり柄錐の先をねじ回しにしたのか、いずれにしても「発明」というよりは、あくまでも実用性を追求した結果の進化である、といったほうがいいくらいのものだ。しかし、ねじとなれば、話はまったく別だ。》
なかなか複雑な話になってくる。

それから何ページかあって、
《古代ローマ人は――優れた鉄の加工技術をもち、釘を発明したにもかかわらず――ボルトとねじを組み合わせようとはしなかった、ということだ。古代ローマでねじとねじ回しが使われたという記録はなく、それらが発見されたこともない。(略)ねじは釘よりも優れた道具だった。それでも、技術上のさしせまた要請がなかったわけだ。したがって、ねじが現れるまでのは1400年という時間が必要だった。つまり、1400年後にようやく機械屋の詩人が気づいたのだ。》
と、いう話になる。
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