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もう一度『一九三〇年代モダニズム詩集』

2019-11-03 12:53:26 | 
今朝の神戸新聞の「ひょうご選書」に『一九三〇年代モダニズム詩集』(みずのわ出版・季村敏夫編)が取り上げられていました。

←二段階クリック。

この詩集のこと、先日ここでもちょっと触れました。『一九三〇年代モダニズム詩集』

ところでこの記事ですが。
評者は甲南大学名誉教授の中島俊郎さんという先生。
センテンスの長い文章で、わたしは二度読ませていただきました。
それでなんとか理解できたかな?という程度です。
始めの方にあるこの文なんか解りにくいですねえ。

《たんなるモダニズム詩のアンソロジーと考えてしまえば、火傷してしまうほど凝縮された世界が放射され展開している。》

その前の冒頭にある文はこうです。

《本書は素手ではもてない。白い瀟洒な装いの中から発される詩の熱量が尋常ではないからだ。》

とあって、先の文に続きます。
身構えちゃいますよねえ。
うわ~っ、よほど難しい本かと思ってしまう。
ところが、このような紹介もしてあります。

《そうした中にシネ・ポエムという竹中郁の「ラグビイ」もあった。「何を蹴っているのだろう。胴から下ばかりの青年。/〈ああ、僕は自分の首を蹴っている〉」と歌う竹中と、「私はあたしから離れよう/ピアノをぬけだすミユウズのやうに/時刻といつしよに地球の外へ滑り落ちる」(「青い貝殻」)と表現する矢向季子との詩における距離は何と近しいことか。その類縁性にはいささかも違和感がない。》

まあ、それほど難しくはないですねえ。兵庫県で多少詩を書いているものなら、それほど難解ではありません。
そして、結びですが、評者は当然言いたかったことなのでしょう。

《「恥辱を知らない彼らの不遜なことばへの接し方、たえ難い、ことばを刻み込む未完の行為こそ詩である」という編者自身の言葉へと重なっていくからである。》

あ、やっぱり難しかったでしょうか。わたしの弱い頭脳では余計に。
ということで、上の写真を二段階クリックして、ちゃんと全文を読んでみて下さい。そしたらよく解るのかもしれません。
わたしは、もう一度この本を読みなおしてみましょう。
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