喫茶 輪

コーヒーカップの耳

わたしのデッサン力は?

2018-05-04 16:09:29 | 懐かしい話
古いものを触っていると時間が知らぬ間に過ぎ去る。
今日はこんなもの。

昭和59年3月とあります。
34年前にわたしが描いたデッサン。
長男が勉強している姿です。

それからこれは、その長男がわたしを描いた絵。「ぼくのおとうさん」と書いてあります。

1980(昭和55)年2月、ということは長男が6歳か。
質の悪い広告紙の裏に描いてますので劣化が激しく、触ればホロホロと崩れてしまいそう。
ちょっと腹立つけど似てますね。

これも長男が描いた、彼の祖父の似顔絵。今は亡き家内のお父さんです。
昭和57年2月。これも見事に似てます。

よくこんなのを置いておいたものです。
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38歳の涸沢純平さん

2018-05-03 14:48:35 | 懐かしい話
古いものを探しているのだが、例の如くのおもしろいものが出てくる。
これは昭和59年の新聞切り抜き。

写真の涸沢さん、長髪ですねえ!
記事は山本忠勝さんが書いておられる。山本さん独特の情のこもった文章だ。

結局、時間ばかり食って探しているものは見つからない。
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米穀通帳

2018-03-17 16:12:18 | 懐かしい話
図書館へお借りしていた本を返却に行ったついでに、ちょっと足を延ばして「栄文社書店」へ。

ここの奥様はわたしが小学1,2年生の時の同級生です。
お父上は、昭和22、3年ごろに古書店の許可を兵庫県公安委員会から得ておられる。
許可番号は2番となってました。スゴイですね。兵庫県で2番です。


それから写真下の木札が面白い。
お父上が書かれたものだと。

曰く
  御願
本をお賣りになる方は古物
営業法に從い左の中何れかを
お見せ下さい。

一、身分証明書
一、米穀通帳
一、運轉免許書
一、定期券
    その他


「米穀通帳」については、うちが昔米屋をしてたので懐かしい。
あれ身分証明書代わりになったのでした。
それから「定期券」ですが、電車の定期券なのでしょうねえ。
住所氏名年齢が書かれていたということでしょうか。

ところで、このお父上ですが、わたしもよく覚えております。
西宮の中央商店街で古書店をなさっておられました。
うちの隣の地蔵さんの縁起を調べていたとき、「なんかいい本はないですか?」と訊いたら、
「これがいい」と即座に教えて頂いて購入したのが『酒都遊観記』(飯田寿作著)でした。
それが本当に一冊の縁起録を作るのに役立ったのでした。
その後も色んなことで活用し、最近も小さなエッセイを書くのに引用したりしたのでした。

あ、それから、富田砕花翁の色紙を見せて頂きました。
残念ながらシミが。そして惜しいことに落款がない。
それにしても揮毫を嫌われたという砕花翁の色紙をこんなに近くで見るとは。
直筆原稿や書簡はわたし所持してますが、色紙はないです。
これにはちゃんと値段がついていました。売り物です。
シミがなく、落款があれば、倍の値段でもわたしが購入するのですが。

しゃべっていて、他にも「ええっ?そんなこと!」という話が出てきて、面白かったです。
楽しい時間でした。
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大井際断老師のDVD

2017-12-22 10:16:13 | 懐かしい話
大井際断老師のDVDが出ていることを知り入手しました。
わたしが二十歳代から三十代にかけて、約10年間参禅させていただいた師家です。
現在は静岡県浜松の方広寺の管長さん。
伝統ある立派なお寺です。

現在102歳になっておられるはずですが、このお顔はもう少しお若い時ですね。いい目をしておられる。
いつの収録かどこにも書いてありません。
DVDはまだ見てませんので、そこには記してあるのかも。
40分の収録時間。あとでゆっくりと見よう。

追記
 見ました。
 やはり収録日時は記されてませんでしたが、話の内容から90歳代ということはわかりました。
 まだまだお元気で力強い話しぶりでした。
 笑顔が多いのに驚きました。昔は、優しいのだけれど厳しかったというイメージがありましたので、意外でした。
 昔の茂松寺(西宮)での写真もあって、懐かしい顔がいっぱい。しかしすでに多くがお亡くなりになっていて、時の流れを感じさせられます。
 ご老師にはまだまだお元気で長生きしていただきたいものです。
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「今津歴史塾」第37回

2017-12-15 18:38:19 | 懐かしい話
第37回「今津歴史塾」に出席してきました。


今回は「西宮市内バス路線史(2)」~阪神バス~でした。
わたしはほとんどバスを利用したことはありません。なのでバス路線の歴史にはそれほど興味はありません。
ところが講師の曲江さんが用意してくださる資料の写真が貴重です。ほとんどが西宮市情報公開課の提供です。
しかし、膨大な在庫の中からよく探し出してこられますねえ。
どれもみな、なんとも懐かしい。


夙川堤を走る定期バス。昭和29年の写真です。
マラソンしているのは多分、浜脇中学の生徒ではないだろうか。傍らで見ている生徒の学生服が、わたしも昔着た浜中の制服に見えます。


昭和31年の阪神西宮駅。懐かしい。ここにもいろいろと思い出があります。


右の写真は工事中の阪神国道43号線。昭和32年ごろとあるが、もう少し後のような気がわたしはします。多分37年ごろかと。
というのも、わたしの父が染殿町にあった市民病院で死んだのが36年6月3日。その深夜にわたしと父の友人と二人で、病院で借りた担架に遺体を乗せて、家に連れて帰ったのです。その時、工事中の43号線を横断したのですが、こんなに整備されてませんでした。道路中央に掘り返したガラがいっぱい積んでありました。歩きにくい道を難儀しながら歩いたのです。二本のレールに見えるものは緑樹帯です。たしかトベラが植えられていたかと。その外側が一時期コンクリート舗装されていました。阪神タイガースが優勝した年(37年か39年)にその側道を甲子園球場から西宮市役所まで優勝パレードしました。
昭和39年には名神高速道路が西宮インターチェンジが開通しましたので、そのころに43号線も完成したのでしょう。
ということで、32年にはまだこんなにきれいにはなってなかったのではないでしょうか。
左奥の方に住江の円筒形ガスタンクが見えます。その向こうの方には用海小学校も。

  
右下の写真は、白鹿館のあたり。左奥に今津の球形ガスタンクが。昭和30年とありますが、ホントかな?
球形ガスタンクはもっと後のような気がしますが。西宮市役所の情報公開課がそうおっしゃっているのでそうなのでしょうね。
この冊子にはほかにもたくさん懐かしい写真があります。

例によって、講師の話を録音させていただきました。



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1977年のデイリースポーツ

2017-10-31 16:30:32 | 懐かしい話
「デイリースポーツ」で創刊70年記念企画の記事が火曜日に連載されている・
今日は40年前の出来事。

関学と京大のアメリカンフットボールの話。
丁度新聞休刊日で伝えられなかった伝説の関京戦を40年ぶりに回想とある。
当時の休館日は駅売りの新聞も休みだったのだ。
この記事の中に「伊角富三ヘッドコーチが涙を」というのがある。

富三コーチは後に監督にもなった人。
で、この人のお兄さんはわたしも知り合い。
昔、米屋の野球チームで一緒だった。
そのお兄さんに連れられてアメリカンを観戦した少年の富三さんは、その魅力にとりつかれて後に関学の選手になり活躍。
また、お兄さんの子どもさんは、小学校の時、うちの娘と同級生だった。
と、そんな縁のある人でした。
いや、懐かしい。
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大八車の上の子ども

2017-09-04 17:47:50 | 懐かしい話
先ほど挙げた写真の一枚をじっと見ていたら、えっ?!と声が出た。

婦人が引く大八車の上の籠の中に子どもがいる。この背景にどんな物語があるのだろうか?

写真の端っこのほうである。カメラマンは意識して撮ったのだろうか。
単に駅を写すだけのつもりだったのでは?
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ツンバナ

2017-06-13 16:31:49 | 懐かしい話
今日午後、3時を過ぎてから銀行へ振込みに行った。
さて現金機に…、と思ったら隣の婦人から声をかけられた。
「ここ、以前は福徳相互銀行ではなかったですか?」と。
その声、そしてその細身長身の姿!
やっぱりHさんだ。
もうお互いに「うわっ!」である。
20年ぶりぐらいになるのでは?
同じ市内に居ても会うことがなかった。
昔、うちの隣に住んでいた人である。
子どもが二人いたが、二人とも結婚していて孫もいると。
まあ、先日、家内があることで電話で話しているので情報は知っていたのだが。
それでもわたしが話すのは20年ぶりぐらい。
お互い懐かしくて、思わず握手。
「一度行きます」とのこと。
家内も喜ぶ。

写真は、帰りに43号線の緑地に咲いていたツンバナ。
家内が田舎での子供のころを懐かしむ花だ。
こんな近くに咲いているとは。
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伊藤幸夫君

2017-03-05 14:49:20 | 懐かしい話
昨日、鳴尾将棋教室から帰ってきたら訃報。
伊藤幸夫君が亡くなったと。
70歳だったという。
釣りが好きだったという彼は、4年ほど前に三重県に釣りに出かけてその帰りに、
伊勢道で重大事故に遭い、その後元気になれずということだった。
事故に遭って再起不能のようなことを聞いたので、わたしはかける言葉も思い浮かばず見舞いにも行かず。
彼とは昔、大峰山に一緒に登った仲間。
年に一度の出会いだった。
昭和36年の写真がある。56年も昔だ。
左から2番目の一番小柄なのが彼。大峰山へ出発する前、圓満寺での写真。


手前に大きく写っているのは伊角君(この人の弟は関学のアメラグのスター選手、そして全国優勝した時の監督さんになった人)。その右が伊藤君。この場所は「西の覗き」。新客さんを崖から吊るすロープが見えます。


これは鐘掛岩の前。
そして頂上の大峰山寺の前での集合写真。

彼は真ん中辺りに写ってます。
不思議なのは、この写真に昭和36年5月24日の日付が入っていること。
そんな日に、わたしが行ってる筈はないと思うのだが。
というのも、父がその年の5月(4月だったか?)に腎臓がんの手術をして、6月3日に死ぬのである。
そんな大変な時に行ったとは思えない。
でもどの写真にも昭和36年の年号が。
しかも集合写真の裏には「今村様」と書いてある。
アルバムにもわたしの字で、「昭和36年5月」の書き込みがある。
間違いないのでしょうねえ。快癒祈願の思いでお参りしたのでしょうか。

伊藤君のことだった。
彼のお父さんも大峰山の行者講「一心組」の講員だった。それはわたしの父に誘われて入られたのだった。
だから、わたしも彼も二代目ということだった。
わたしの父が死んで、何年目かに、わたしは講の会計長になった。生前の父の役職である。
そしてその後、彼、幸夫君に副をやってもらっていた。
行者講の行事は、5月の大峰登山が最大のもので、あと夏冬に土用行、寒行をそれぞれ1週間ほど勤めること。
その他、定期的に地蔵盆祭りなどの護摩焚き供養。
ほかに御詠歌奉納など。
そしてたまに慰安旅行。
しかし、彼は登山の時だけ参加だった。仕事が忙しかったのでしょう。
地震前に亡くなられたお父さんはずっと護摩焚きなどには参加しておられた。
わたしは地震後間もなく講を脱会した。
頼りにしていた講元のU田さんが亡くなって、残った人たちとうまくやって行く自信がなかったからだ。
といえば簡単なことのようだが、ここには書けない事情が少しある。
わたしが脱会したあと、しばらくして講は解散した。

で、今日の葬儀告別式だ。
行ったら、葬儀社さんから「代表焼香をして下さい」と。
え?と思ったのだが「一心講代表」とのこと。
一心講はもう遠の昔に解散してしまっているのだが、しかもわたしは早くに脱会してしまっていたのに。
でも、彼とは、わたしが選挙の時の立会人をしている時に、彼が投票に来る度にわたしの側に来て、なんやかやと講のことを話していたのだった。
遺族にしたら、わたしと彼と一心講は結びついているのだった。
遺族といっても、彼は生涯結婚はせずだったので、弟夫婦が面倒を見ていたのだった。
その弟の奥様の想いが伝わって来て、引き受けることにした。

出棺の時、柩の担ぎ手が少なく(親戚の人はみな女性か弱った老人ばかりの様子)困っておられた様子だったので、
一角を担がせてもらった。
これも縁ですね。

伊藤幸夫君、どうか安らかに。
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タニヨシユキ君

2017-02-09 13:56:51 | 懐かしい話
昨日のこと。
月一度のかかりつけのクリニックでの受診。
待合所で本を読んでいたら
「タニ○○○○さん」と受付から声がした。
受付に足を運んだのは男性の老人。
その名前になんとなく覚えがあった。
清算をしてすぐに帰って行ったので、声をかける間もなかった。

もう60年近くもの昔、昭和34,5年である。
中学生の時の同級生に「タニヨシユキ」というのがいた。
勉強がよくできて、生徒会の副会長をしていたと記憶する。
仲が良かった。
彼の家ではいち早くテレビを購入していた。
大相撲が人気があって、よく見せてもらいに行った。
栃若時代である。
彼が家にいなくても、彼のお母さんが家に上らせてくれて見せて下さった。
だから、彼よりもお母さんと仲良かったような気がする。

そのお母さんとは何年か前にあることで二、三度書簡のやり取りをし、一度会いに行った。
昔のお礼に行ったのである。
頭のいい人だったので覚えておられた。
だけどもうそれからも何年にもなるので、今もお元気かどうか?

今日見かけたのは、あのヨシユキ君だったのだろうか?
ハッキリとは聞き取れなかったのだが、なんとなくヨシユキと聞こえた。
姿を見たのは後ろ斜めからだったので顔がわからない。
が、なんとなくナツメの実に似た頭の形は似ていた。
正面に回って「ヨシユキ君?」と訊くほどの確実性もなかったので、声はかけられなかった。
受付で聞いても患者の個人情報は教えてはもらえないだろう。

しかし帰宅してから、どうも気になる。
えいっ、本名で書こう。
谷善之君、今どうしてますか?
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アルナ工機㈱

2016-12-28 19:04:24 | 懐かしい話
古いものを整理していたらこんなものが出て来ました。

震災前後に勤めていた会社で、しょっちゅう納品や集金、
また材料引き取りに出入りしていた会社「アルナ工機」の通門許可証です。
難しい顔をした写真が貼ってあります。
わたしが勤めていた会社は、わたしがやめてからほどなく倒産しました。
そして、ちょっと調べてみると、
この許可証を発行した会社も破たんして、親会社に吸収されている様子です。
大きな工場はすでになく、空き地になっているとのこと。
たった3年間でしたが、あの工場には色んな思い出があります。
覚えている間に書き残しておかねば、と思った次第。
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北口の懐かしい写真展

2016-12-08 15:51:07 | 懐かしい話
北口の懐かしい写真展に行ってきました。

ニシキタのアクタ東館2階の中央広場です。




北口といえばやはり野球場ですね。
昔、まだ甲子園球場にナイター設備がないころ、いち早く西宮球場に出来て、親父の自転車の後ろに乗せてもらって行ったものでした。
今回の写真展にはもっと昔の写真もあり、井上靖さんの芥川賞小説「闘牛」の舞台になったころではないかというような写真もありました。これは、夕刊「新大阪」におられた足立巻一先生にも深い関係のある球場です。




六甲の山並みの見えるこのような光景は「闘牛」に描写されてたような気がするのですが。

この写真には印象の深い思い出があります。
わたしが車を運転して、まさにこのトンネルを南から北へと走っていた時、向こうから走ってきたブルーバードが正面に入ってきて、わたしはあわてて急ブレーキをかけたのでした。すると間一髪、相手のブルーバードは右へ(私から見て左へ)ハンドルを切り、目の前で左の側壁に激突したのでした。車から降りてみたら、ホントに10㎝ほどしかなかったです。
運転していたのは女子大生と思しき女性。さかんに自分の壊れた車を気にしていました。
つい最近に買ってもらった新車だということで、相当のショックを受けていました。
パニックで運転できなくなっており、代わってわたしが運転して(前部が壊れていましたが、動くのは動いたので)、安全な場所に移動したのでした。
どうやら彼女は北からトンネルに入った瞬間に、目の前が見えなくなったのでしょう。明るいところから急に暗い所へ入ったので。
忘れられない思い出です。

この写真。 
昭和57年の市民祭りとあります。
多分わたしの長男が出演した時ではなかったかな?少林寺拳法で。集団で演武をしたのだったと思います。

他にも市場の写真など、懐かしい写真が展示されていました。
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「ぼくぼく」

2016-11-15 14:57:24 | 懐かしい話
先日、8歳違いの弟が死んで、その葬儀で二泊三日静岡県富士市に行っていたのだが、帰って来る日は富士山が見事に姿を見せてくれていた。

写真は泊ったホテルからのもの。
そのホテルから新富士駅までタクシーに乗ったのだが(これは少し前のページに書いたが)、乗務員の名前がnobuyukiと、死んだ弟と同名(名字は違ったが)だった。しかも漢字まで同じ。
最後に、見事な富士を背に連れながらわたしたちを送ってくれたのかもしれない。
いや、そうにちがいない。
しかしもう、あの声は聞けないなあ。
時にかかってくる電話は、ずっと昔から必ず「あ、にやん?ぼくぼく」の声で話が始まったのだったが。
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創立百周年記念誌

2016-11-14 17:00:13 | 懐かしい話
浜脇幼稚園長の辻和子先生が「創立百周年記念誌」を届けて下さった(11月5日の記念式典にお招き頂いていたのだが先約があって行けなかったので)。

先日金曜日にも来て下さったらしいが、その日からわたしたちは静岡の弟のお通夜式、葬式に出かけていたのでした。
この記念誌は浜脇幼稚園創立百周年のもの。
これに卒園生の一人として想い出を書かせて頂いていたのです。
いいページに載せて頂いている。
他にも卒園生が書いておられるのかと思ったが、わたし一人だったのだ。
なんか面映ゆい気持ちにも…。
←クリック。
わたしにとってもいい記念になります。
辻先生、ありがとうございました。
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「アミ電」とは?

2016-10-24 14:55:23 | 懐かしい話
「歴史塾」の話題だが。
先に書いた「アミ電」のこと。
講師の「今津っ子さん」こと、曲江三郎さんが西宮市役所情報公開課から提供してもらわれた写真をどうぞ。

戦前の路面電車ですが、夏と冬とで姿が変わります。
車体ナンバーは122とどちらも同じ。夏は車体が網に囲まれています。
冷房がなかった時代の工夫。
冬は鉄板になってます。
こんな電車があったなんて全く知らなかった。
話にも聞いたことがなかった。
それをうちのお客さんの松本さん(90歳)は覚えておられた。
夏の風物詩のように「いよいよ暑うなってきて、アミ電にかわりましたなあ」と挨拶されていたのだろうか?
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