足立先生の跋文 5(終)
『神戸文学史夜話』によせて 足立巻一
① 宮崎修二朗さんと知りあったのは戦後まもないころで、おたがいに大阪の新興新聞の記者としてでしたから、交友はもう二十年になろうとしています。その二十年間、宮崎さんもわたしも当然、年をとり、生活も思想もずいぶんかわりました。しかし、宮崎さんのわたしに対する友情はすこしもかわっていません。たとえば、わたしのヘタな詩を戦後まっさきに写真入りでデカデカと新聞にかかげたのも宮崎さんですし、忍術をこっそりしらべているのを探知して東京の出版社に密告し、一端を発表させたのもかれです。こんな事例はいっぱいありますが、いままた、かれの労作に一文を書けと強要してやみません。このわたしとの交友関係にあらわれた宮崎さんの錯覚と一徹な行動とに、わたしはいつも詐偽をはたらいているような罪悪感におそわれるのですが、ちかごろでは、こんなに無条件で買いかぶってくれる友を得ることは、人生でそうザラにはないものだとわかりはじめてきましたし、かれの錯覚にも感謝し、かれのいいなりになることにしています。そして、そこに宮崎さんの人間性もよくあらわれているように思うのです。 つづく
② 宮崎さんは俊敏なジャーナリストです。そんな顔つきをしていますし、実際にそれだけの実績を持っています。しかし、根は無償の発掘者ではないかと思います。発掘者は山師ではありません。営々とガラクタを掘りつづけねばなりません。錯覚をおそれることなく、一片のガラクタにも愛情を持たないかぎり、発掘という営為も情熱も持続しません。おそらく、わたしもたまたまそのガラクタの一片として愛情をあたえられたのでしょう。じっさい、わたしのように、宮崎さんの周囲にはそのふしぎな友情を得たガラクタ――無名がじつに多いことをわたしは知っています。そんな宮崎さんだからこそ、地方文学史という無償の発掘作業を終生の仕事に選び、戦後一貫して推し進めてこられたのだと思います。 つづく
③ これは一種の〇〇〇〇(現在は差別語として使われない)のやることです。宮崎さんは大病をしているうちにふとこの仕事を思いついたと、いつかもらしていましたが、それはひとつの極限状況にそのひとの本質が顕示した例だと思います。そしてその実績はまず「文学の旅・兵庫県」(昭30)、ついで「ふるさとの文学」(昭32)「兵庫の民話」(昭35)などの著作となり、あるいは「兵庫県文学読本」、「古典と郷土」、「詩歌のふるさと」などの企画編集者として定着しましたが、しかもなお、その地方文学史発掘の作業をやめようとしません。それはおそらく、かれが死ぬまでつづくでしょう。わたしはこういう一徹ぶりがすきです。そんな性情はまた、富田砕花先生へのいちずな献身となってあらわれています。砕花先生に詩をみちびかれたひとりとして、宮崎さんにはその点でも深い感謝をささげるものです。 つづく
④ さて、宮崎さんの地方文学史についての考えと視点とは、この本のはじめに明確にしるされています。それはあたらしい文学史観であり、わたしはこれにまったく同意します。ただ、そのなかで著者は「すべてが点の羅列で、とぼしい材料のよせ集めだ」といってますが、これには注記を必要とします。その「とぼしい材料をよせ集める」のは、異常な情熱と意志との持続がなければできないということです。その材料はたいてい歴史から埋没し、散らばり、消え去っていたものです。図書館や古本屋を探せば出てくるといったシロモノではありません。発行部数のすくない同人誌や自費出版であることが多いからです。そして、それらは価値ないものとしてかつて流刑されたものです。しかも、宮崎さんはそれらにあたらしい価値を見つけ出そうとして、とぼしい時間をぬすんで忍耐強い探索をつづけたのです。これは常人にできる仕業ではありませんし、また、その集積は著者がいうように、「材料のよせ集め」ではけっしてありません。著者の謙譲にまどわされてはなりますまい。 つづく
⑤ わたしは『文学の旅・兵庫県』の出版記念会の夜の光景を忘れることができません。たくさんの賛辞をおくられて、やがて著者はあいさつに立ちましたが、途中で泣きだして絶句してしまったのです。それは片すみにいたわたしには、うつくしい人間の号泣のようにきこえました。それは著者が自分の営為に無償をしか賭けていなかったからでしょう。
わたしはこの〇〇〇〇じみた、無償の発掘者をひとりの友として敬愛します。(終)
以上が、宮崎翁の若き日の著書『神戸文学史夜話』によせられた足立巻一先生の跋文です。
このように心のこもった跋文をわたしはほかに知りません。お二人の間柄が素晴らしく清らかだったことがよく分かります。今、兵庫県の文人の間にこのような間柄の人をみかけることはありません。少なくともわたしは。
『神戸文学史夜話』によせて 足立巻一
① 宮崎修二朗さんと知りあったのは戦後まもないころで、おたがいに大阪の新興新聞の記者としてでしたから、交友はもう二十年になろうとしています。その二十年間、宮崎さんもわたしも当然、年をとり、生活も思想もずいぶんかわりました。しかし、宮崎さんのわたしに対する友情はすこしもかわっていません。たとえば、わたしのヘタな詩を戦後まっさきに写真入りでデカデカと新聞にかかげたのも宮崎さんですし、忍術をこっそりしらべているのを探知して東京の出版社に密告し、一端を発表させたのもかれです。こんな事例はいっぱいありますが、いままた、かれの労作に一文を書けと強要してやみません。このわたしとの交友関係にあらわれた宮崎さんの錯覚と一徹な行動とに、わたしはいつも詐偽をはたらいているような罪悪感におそわれるのですが、ちかごろでは、こんなに無条件で買いかぶってくれる友を得ることは、人生でそうザラにはないものだとわかりはじめてきましたし、かれの錯覚にも感謝し、かれのいいなりになることにしています。そして、そこに宮崎さんの人間性もよくあらわれているように思うのです。 つづく
② 宮崎さんは俊敏なジャーナリストです。そんな顔つきをしていますし、実際にそれだけの実績を持っています。しかし、根は無償の発掘者ではないかと思います。発掘者は山師ではありません。営々とガラクタを掘りつづけねばなりません。錯覚をおそれることなく、一片のガラクタにも愛情を持たないかぎり、発掘という営為も情熱も持続しません。おそらく、わたしもたまたまそのガラクタの一片として愛情をあたえられたのでしょう。じっさい、わたしのように、宮崎さんの周囲にはそのふしぎな友情を得たガラクタ――無名がじつに多いことをわたしは知っています。そんな宮崎さんだからこそ、地方文学史という無償の発掘作業を終生の仕事に選び、戦後一貫して推し進めてこられたのだと思います。 つづく
③ これは一種の〇〇〇〇(現在は差別語として使われない)のやることです。宮崎さんは大病をしているうちにふとこの仕事を思いついたと、いつかもらしていましたが、それはひとつの極限状況にそのひとの本質が顕示した例だと思います。そしてその実績はまず「文学の旅・兵庫県」(昭30)、ついで「ふるさとの文学」(昭32)「兵庫の民話」(昭35)などの著作となり、あるいは「兵庫県文学読本」、「古典と郷土」、「詩歌のふるさと」などの企画編集者として定着しましたが、しかもなお、その地方文学史発掘の作業をやめようとしません。それはおそらく、かれが死ぬまでつづくでしょう。わたしはこういう一徹ぶりがすきです。そんな性情はまた、富田砕花先生へのいちずな献身となってあらわれています。砕花先生に詩をみちびかれたひとりとして、宮崎さんにはその点でも深い感謝をささげるものです。 つづく
④ さて、宮崎さんの地方文学史についての考えと視点とは、この本のはじめに明確にしるされています。それはあたらしい文学史観であり、わたしはこれにまったく同意します。ただ、そのなかで著者は「すべてが点の羅列で、とぼしい材料のよせ集めだ」といってますが、これには注記を必要とします。その「とぼしい材料をよせ集める」のは、異常な情熱と意志との持続がなければできないということです。その材料はたいてい歴史から埋没し、散らばり、消え去っていたものです。図書館や古本屋を探せば出てくるといったシロモノではありません。発行部数のすくない同人誌や自費出版であることが多いからです。そして、それらは価値ないものとしてかつて流刑されたものです。しかも、宮崎さんはそれらにあたらしい価値を見つけ出そうとして、とぼしい時間をぬすんで忍耐強い探索をつづけたのです。これは常人にできる仕業ではありませんし、また、その集積は著者がいうように、「材料のよせ集め」ではけっしてありません。著者の謙譲にまどわされてはなりますまい。 つづく
⑤ わたしは『文学の旅・兵庫県』の出版記念会の夜の光景を忘れることができません。たくさんの賛辞をおくられて、やがて著者はあいさつに立ちましたが、途中で泣きだして絶句してしまったのです。それは片すみにいたわたしには、うつくしい人間の号泣のようにきこえました。それは著者が自分の営為に無償をしか賭けていなかったからでしょう。
わたしはこの〇〇〇〇じみた、無償の発掘者をひとりの友として敬愛します。(終)
以上が、宮崎翁の若き日の著書『神戸文学史夜話』によせられた足立巻一先生の跋文です。
このように心のこもった跋文をわたしはほかに知りません。お二人の間柄が素晴らしく清らかだったことがよく分かります。今、兵庫県の文人の間にこのような間柄の人をみかけることはありません。少なくともわたしは。