ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

プラネタリウムのコンサート!

2018年09月24日 | 介護
地元のプラネタリウムのコンサートに行った。
たかこやぎりんバント+中村初惠さんです。3人とも以前からの知り合いです。
そもそもやぎりんはクミコさんの歌う「広い河の岸辺」の訳詞者です。やぎりんも藤枝貴子さんも上野の文化会館でクミコさんと共演しています!
中村初惠さんはやぎりんとも貴子さんとも共演しています!
初惠さんは以前地元の文化会館にコンサートに来ました。ソプラノのきれいな声です。
この日はプラネタリウムで星を投影しながらのコンサートと朗読でした。
チケットは早々と売り切れてしまいました。
この日は歌声サークルのお仲間の2人も来ていました。
星の投影を見ながらのコンサートは良かったですね。やぎりん訳詞の「広い河の岸辺」も「思い出のサリーガーデン」も歌っていただき良かったです。
差し入れのマドレーヌも喜んでいただきました。プラネタリウムは自宅から徒歩で20分です。やぎりんのパンフルートやケーナと貴子さんのアルパは良かったですね。
アルパはハープと同じ楽器です。
ハープより少し小さめで軽い楽器です。
軽いと言っても10キロあるんですよ。
中南米の楽器です。
貴子さんは民族衣装を着られます。素敵な衣装です。
主人も寝ないで楽しめたようで良かったですね。

自分が一番正しいと?

2018年09月24日 | 介護
同居の母はいかなる場合も自分が一番正しいと思っている。
このところ人の話は良く聞かない。
いやあ、これは昔からだ。
自分のおくそくでものを言う。
母は心房細動と言う病気になったが、自分の病気のことを理解していない。
勝手な自己判断で薬をやめようとしている。
病院の先生は飲まなくていいとは言わなかった。
飲まなくて良いなら治った証拠だ。
薬の力を借りて不整脈が良くなっただけなのだ。
治ったと勘違いしている。
一生飲み続けるのだ。
余程のことがない限り飲み続けるのだ。
母は心房細動が治ると思っている様子。
それは薬の力を借りているからに過ぎないのだ。
このところすっかり耳が遠くなった母に細かく詳しく説明するのは難しい。
要点だけ話しても理解していない。
処方された胃薬と一緒に心房細動の薬も飲むようにそくした。
とにかく専門の先生が駅前の病院で非常勤なので毎週金曜日しか来ない。
何かあったらすぐさま、自宅の裏の新しく出来た開業医に行くことをすすめる。
すすめるも開業医はそこに住んではいないので、時間外なら別の病院も考えなくてはならない。
非常勤の先生の父親が踏み切りを渡って少しのところで開業医をしているが、掛かり付けではないが、最悪そこにでも行くか?
その開業医の先生もかなりの高齢者なので最近は長男が来て診察していると思う。
私はその先生の患者ではないが、その先生は知っている。
多少先生を知っているので、その開業医に行くのは嫌なのだ。
何故なら診察でその先生に胸を見せなければならないからなのだ。
それ以前に、その開業医に行くまでに踏み切りで体調が悪くなっては困るので、自宅近くの別な開業医にかかっている。出来ることならあっちこっちの医者にはかかりたくないのだ。
診察券が増えるだけなのだ。
いくつかの大学病院にも行ったことがある。
過去の話だ。
出来れば近くの信頼出来る開業医が良いと思う。
ほぼ1日がかりで行く離れた大学病院は疲れるのだ。
たいした病気でもなければ近所の開業医がいいのだ。
不整脈と言われて市内の総合病院に数ヶ月通って落ち着いてきたのでまた近所の開業医にかかっている。
出される薬を飲まなくていいとは言われたことがない。
不整脈の薬は飲み続けるのだ。
きちんと処方されたら飲み続けるのだ。
すっかりこのところ耳が遠くなった母は先生の話を理解していない。
耳が遠いならきちんと耳鼻科に行き聴力検査をするべきだと思う。
補聴器なども着けたら良いと思う。
今さら88歳の母に手話を覚えろ!と、言うのは無理なのだ。
筆談と言っても母などは良く字を間違える。
たまに何かを書けば他人からはわからない言葉も?
いずれ私も母のようになるのかと思うと悲しいが、私はせめても病院に行ったら先生の話はきちんと聞こうと思う。
聞こえなければ手話通訳の人を連れて行こうと思うのだ。
そうなれば筆談もするのだ。
病気に関しては自己判断が一番危ないのだ。
知ったかぶりと自己判断は良くないのだ。
主人の父は94歳ですっかり耳も遠くなり目も左目は失明している。
頭も多少ボケているので兄夫婦も大変だと思うが、何とか介護認定を受けデイサービスにも通ってくれてるのでありがたい。
睡眠のサイクルがおかしいのか、昼間父の住む家に行くと寝ていることもある。
大画面のテレビを付けながら寝ているのだ。
もはや父のところに訪ねてくる人はいない。
何故なら父の知り合いや友人の人たちは一人二人と亡くなってしまったからに他ならない。
私の母のところにも訪ねている人も遊びに来る人もいないのだ。
親しかった子供の頃の同級生は何人も亡くなってしまった。
その他の友人も何人も亡くなっているのだ。
とにかく私はこのところ自分を犠牲にしている。
毎週金曜日の午後に通っているパソコン教室をこれからは月2回休まなくてはならないのだ。
駅前の病院の非常勤の先生の診察が金曜日なのだ。
午前中ならいいが、午後ならパソコン教室は休まなければならないのだ。
今までのように私の心療内科に前倒しで金曜日に行くことも無理なのだ。
病気の私が母を見るのだ。
母は亡くなったおじいちゃんに似たのか頑固である。
すっかり耳が遠くなったので私の話は聞き取れないようで、仕方なく私が大声で話せば気違い呼ばわりされるのだ。
情けないと思う。
実の娘は気違い呼ばわりされるのだ。
他人様は思っても言わないようなことなのだ!