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おうちBAR開店

本格的なパーティー料理から手抜きお手軽料理まで、私のキッチンから発信します。毎日の出来事を含めて楽しくご紹介。

2016年度生誕祭を終えて

2016年10月23日 | つぶやき

十代の頃には四十路なんて
ちびまる子ちゃんのお母さんみたいに
くるくるパーマをかけて
色あせたエプロンを首から下げ
ぐうたらな子供のお尻を
叩きのめしているか
巣立った子供に仕送りしてもらい
悠々自適な人生を
歩み始めているかと思っていました。

しかしどうでしょう?
四十路も半ばなのに
むしろちびまる子ちゃん側に
ドスンと居座っている現実。
十代の頃には考えられない人生ですが
ここに来るまでには
まぁ紆余曲折と様々な葛藤があったのです。


高校生の頃、
女性としてできることは
なんでもやってやろうと
漠然と考えていました。
父は女が知恵をつけて社会進出すると
ろくな社会にならないという考えの持ち主。
だから大学進学にもいい顔をしません。
しかし母は全く反対の考えで
これからの女性は自立できる力を持っていなければダメ、と
愛知県から出て一人での学生生活を進めてくれました。
残念ながら第一志望の大学は落ちてしまい
受験浪人が認められるはずもはなったので
憧れの京都にある大学へ進学。
ここまでは順調でした。
卒業を目前にした頃
バブル崩壊の煽りを受けて
実家の家業が倒産。
「自立」という言葉が現実のものとなり
目の色を変えて就活に臨み
何とか一部上場企業に就職しました。
女に生まれたからには
結婚も出産も経験したいから
3年ぐらい働いたら
良い婿を見つけて結婚して退職してやる
なんて思っていましたが
案外「頑張り屋さん」な私はそうはいかず…
気がつけば部長職を期待される立場になっていました。
昼も夜もない仕事に加え
難しい仕事を任されてストレスが溜まりまくり
休日はマッサージと買い物と飲酒に当てるのみ。
しまいには休日も取れなくなって
ワーカホリックってこのことだ、
と自覚したんです。
でも、その時には色々なことが遅すぎました。
生理が止まって久しかったのです。


上司らに引きとめられましたが
このままではダメになると思い退職。
気楽な生活に戻れば子宝に恵まれると思いましたが
そうは問屋が卸しませんでした。
女性ならば誰でも母になれるとの考えがガラガラと崩壊。
周りの友人たちが出産や子育ての話をすると
耳を塞ぎたくなる時期もありました。
期待と落胆を繰り返し
自分を責めて涙した日も数え切れません。
自分はこういう人生を歩む運命なんだと
言い聞かせても納得していない自分がいて
前を向くのを許してくれないのです。
江戸時代なら追い出される身だとか、
お前は何のために生まれてきたのか、とか。



ここまでが私の紆余曲折と葛藤です。
ようやくこの歳になって吐露出来ました。
私自身、本当に感慨深いです。
今は友人たちの出産を心から喜べますし
友人の子供たちが可愛くて仕方がありません。
後悔がないといえば嘘になりますが
以前苦しんだ嫉妬の念は綺麗サッパリ消え去りました。
年齢的な諦めモードもありますが
もう自分を解放してあげてもいいんじゃないかと。
前だけを向いて歩めそうです。
そして結局仕事三昧な毎日を送っていますが
今は仕事が楽しくて仕方ないので
以前のようなストレスは全くありません。断言!
素敵な友人にも恵まれて
背伸びすることも卑屈になることもなく
本当に幸せなのです。



さて、
女性が活躍する社会を実現しようと
政府もいろいろ画策しているようですが
女性と男性が肩を並べて働くには
様々なリスクを伴います。
女性と男性はやはり違うことを
私は身をもって体験してきました。
能力とかそういうことではないんです。
体が違うんです。体が。
「女が知恵をつけて社会進出すると
ろくな社会にならない・・・」
という父の言葉、
ある意味一理あるんではないかと
今は思っています。
女性には女性にしかできない大業があり
それがままならなければ人類滅亡。
このことを大前提に考えて
社会に進出するばかりが女性の本分なのか
立ち止まって考えるべきではないでしょうか?

今バリバリ働きながらも
漠然と子供を産みたいと考えている若い方、
女性器官はストレスに対して敏感です。
生理が止まるのは悲痛の叫びなので
絶対に無視せず耳を傾けてあげてください。
そして、あなたにとって本当の幸せを追求してください。


生誕4●周年を迎えての
行き当たりばったり暴露と助言は以上です。



あー、スッキリした!
お母さん、産んでくれて本当にありがとう!

語り継がれるもの

2016年08月28日 | つぶやき
本日、無事母の一周忌法要を終えました。
お盆の先祖供養も相当暑かったですが
今日もムワッとした暑さの中で喪服に身を包み
頭から蒸気が上がりそうになりました。
厳しい暑さの中
集まってくれた親戚一同に心から感謝いたします。


母の遺影に御霊供膳を調えまして
グラスを掲げて献杯。
SNSを見たら去年同日の出来事が表示され
母から最後の電話があった日と認識。
あの時は数日後に訪れた大きな悲しみなど
想像だにできませんでした。
この一年は人生で一番母のことを考えた日々だったかもしれません。
ゆっくりとした口調で
幾つになっても甘えを含んだ声が
二度と聞けないかと思うと
今でもふいに涙してしまいます。
大した親孝行ができなかったことも
悔やまれて仕方ありません。
ただ、母は常日頃から
「周りに迷惑をかけていることにも気づかず
醜態をさらしてまで生きながらえたくない」
と言っていましたし
母と同年代の伯父・叔父や伯母・叔母は
「私もあんな逝き方がいい」と
口を揃えて羨ましがるので、
母的には良かったのかな?
自分の心にそう言い聞かせます^^


さて、テーマのお話。
法事後の会食で叔母の口から
祖父と祖母の生い立ちを聞きました。
聞いたことのない内容が多くてびっくり。


祖父はもともと富山の氷見市の出身で
幼い頃に家族揃って横浜に出てきたそうです。
その後三男だった祖父は
子宝に恵まれない茨城の親戚筋へ養子に出されました。
ですがそのご夫婦の間に子供ができまして
長男という立場ながらも肩身が狭くなった祖父は
泥鰌すくいなどでお金をコツコツ貯て
東京の親戚筋に身を寄せるようになり
法政大学に進学したそうです。
弁がたつ人だったので卒業後は弁論大学(?)に進み
東京で政治家の道を志していました。


祖母は瑞浪の出身で
当時の田舎娘には珍しく
名古屋の椙山女学院の前身に入学。
卒業後は看護師をめざし
東京の看護学校に進学したそうです。
理由は看護師になって世界を巡る船に乗り
その経験を活かして小説家になりたかったとか。
何かの流れで政治的な活動と関わるようになり
祖父と出会って恋に落ちたそうです。

祖父と祖母は豊橋にわたり(理由を聞き忘れました)
二人で市議会議員に立候補するなど
政治的な活動は続けていたようです。
しかし、祖母は長男を身ごもったところで
主婦業に専念するようになりました。
祖父は持ち前の行動力で
プロパンガス会社を立ち上げたり
旅館業をやったり
色々な事業を手がけて成功してきましたが
市会議員に当選してから政治活動に力が入り
市長に立候補するも落選したあたりから
商売の方も傾いてきたようです。
私の母が嫁ぐ頃には
すべての商売を手放したとか。
山あり谷あり、紆余曲折ありすぎます^^;


一連の話を聞いてドキッとしたのが
祖母が世界をめぐって小説家になりたいと考えていたこと。
小さい旅を重ねて一応書くことを商売にしている私と
スケールは違うものの、重なる部分があります。
その目標を達成するために
大正生まれの女には立ちはだかる問題が
数え切れないほどあったことでしょう。
志半ばでその夢は断たれましたが
孫である私が少しでも受け継いでいけたらいいな、なんて。
小説・・・書いてみようかな。


あと、祖母との共通点で笑ってしまったこと。
とにかく「血」がダメだったみたいです。
看護師を目指していたのに
研修で血を見て気絶しそうになったとか。
その時点でもう諦めモードに入ったみたい(笑)
採血や点滴で針を見ることができなかったり
怖くてピアスが空けられない私と同類項ですね^^;


叔母が教えてくれた祖父と祖母の素顔。
こういう機会がなかったら
誰にも語り継がれず
時の流れに飲み込まれていたかもしれません。
この席を設けてくれた母に感謝しましょう。
来年は三回忌。
今日顔を揃えたメンバーが
全員元気に参加してくれることを
切に望みます。


それにしても、
時は容赦なく過ぎ去っていきますね。
一日一瞬を大切にして生きなくては。
ね?お母さん^^

紙に文字を記して残すこと

2016年08月18日 | つぶやき
このブログも11年目に突入しました。
誰かに向けて発信しているわけではありませんが
アクセスの増減に支えられて今日を迎えています。
ご高覧いただいている皆様、
何となく通りすがった皆様、
いつもorたまたま、ありがとうございます。
11年前には今普及しているSNSなど
少なくとも私めは考えられないドアナログ人間。
ブログを開設するのもドキドキでしたが
文章を書くことは好きだし
知らぬ間に仕事になっていたので
今こうして続けられているのかもしれません。

FBは半ば強制的に私事を読ませているようで
気後れしますが
誰彼に後ろめたくなく書けるこのブログが
一番落ち着けるツールなのかも。
嫌ならスルーしてくださいと
勝手ながら甘えながら書いています^^;


さて、そんな私のルーツが発掘されました。


お盆と言えば各地から親族が集結し
御墓参りをした後は旅館で宴会をし
終戦記念日には黙祷して
8/16の母の誕生日を皆で祝う・・・
そういう位置付けの夏休み最大イベントでした。
しかし今年は違います。
母を送り出してから初めてのお盆。
先日お話ししたように檀家になりましたので
一通りの儀式に参加するなど
例年とは趣が違います。
正直私は無宗教無信仰人間なので
お寺や神社に行った際
形式上、手を合わせることはあっても
私事の願いを頭に浮かべることはありません。
わずかばかりの賽銭を投入して
自分の願いをいくつも叶えてもらおうなんて
虫が良すぎると考えておりまして・・・
運は自分で切り開くもの。

今もその気持ちは変わりませんが
お墓やお寺という拠り所を持ち
先祖を迎えたり送ったりに
想いを馳せるのも悪くないなと
思えるようになりました。
祖父母と母が手を取り合って
あっちからこっちへ来て
「墓の掃除がなっとらん」と怒ったり
「姉妹仲良く過ごしなさいよ」と諭したり・・・
そんなストーリーを脳内展開した初盆。

話はすっ飛びましたが私のルーツ(笑)
母の家にお蔵入りしていた
私の思い出箱を久々に開封したのです。
そしたら日記や手紙や旅の記録など
わんさか出てくるじゃありませんか。
中でも自分の日記と手紙には
ジーンと来るものがありました。
能天気だと思っていたあの頃にも
葛藤や不安や怒りなどが渦巻き
小さな社会と戦っていたのだな、と。



多分中2の時に書いた
自分宛の手紙です。
字がメンタルの弱り具合を
表していますね。
心の状態や体調が
字に現れやすいのです。今も。

他にも同じような物が
複数見つかりました。
過去の自分に敬意を表し、
この気持ち、忘れないようにしたいと思います。



母からの手紙

大学1年生の時だったと思います。
「お友達はもう帰りましたか?」
というのは
失恋した隣室の友人が
一人でいると寂しくて気が狂いそう、と
寝るとき以外私の部屋に入り浸っていたからです^^;
最初はかわいそうだからと
平常心を保って受け入れていましたが
6畳のワンルームマンションで二人はキツイ。
早く立ち直って帰るように
あの手この手で臨みましたが
最終的に2週間ぐらい続いたかな。
母に不平を漏らしたら
それを含めて私を案じてくれたようです。
塀から落ちて頭がぱっくり割れただの
バイクでこけて骨折しただの
心配ばかりかけた4●年間でした。
こんなダメ娘なのに
いつも最大の愛情を注いでくれてありがとう。


今はこうしてWEB上に
文字と画像で記録を残せますが
手書きの文字で伝わってくるものは
数倍も感慨深いですね。
紙の質感と温度も心地いいです。
お世話になった方には
なるべく手書きでお便りし
来年から一言日記をつけようかな?
なんて思っています。
来年から、というのが胡散臭い(笑)


取り留めもないお話で失礼をいたしました。
今日も蒸し暑いですが
午後もお互いに頑張りましょう!


綴る年表、もちがつお。

2016年07月01日 | つぶやき
おはようございます。
最近、日の出とともに目が覚めます。
そして時計を見る前に時間を予想すると
面白いほどにピタリと当たる。
この能力を何かに活かせないものでしょうか?
前世は鶏だったんでしょうか・・・

さて、久々につぶやいてみたいと思います。


昨日、生家の斜向かいにある
老舗中華料理店を取材させていただきました。
私の父が店を構えたのと同じ頃の創業です。
うちはとっくに消え失せておりますが
先方様は顧客を大切にされ
50年近くの歴史を重ねられております。


数日前に取材依頼のお電話をしましたところ
どうやら店を切り盛りしているのは
マスター(創業者)の息子さんのよう。
私が知っている彼は
爆竹に逃げ惑っていた小さな男の子。
子供会の写真に短パンとランニングと野球帽で
あどけない笑みを湛えていたあの男の子。
電話を切った後、
思い出がぐーっと手繰り寄せられるとともに
セピア色に染まった生家での我が家の営みが
次々と脳裏に投影されました。


そして久々のご対面。
当たり前ながら彼が40を過ぎていることに
小さな衝撃を受けつつインタビューをこなし
一通り終わったところで正体を明かしました。

「え?あの〇〇さん?」と屋号。

当時は屋号で呼び合っていたんです。
生家があった場所は旧東海道の目抜き通りで
私が小さな頃は商店が立ち並んでいました。
だから、お店の看板が表札代わり。
私も〇〇さんの娘さん、
と呼ばれるのが常でした。

豊橋祇園祭にまつわる小さな頃の思い出や
今あの子はどうしてるとか
〇〇ちゃんは出戻ったとか
当時お兄さん・今お爺さんのあの人は
まだ手筒花火を出しているとか
懐かしい名前が次々と登場。
えくぼが印象的だった年下のあの子を老けさせてみたり
若かったお兄さんにシワを書き足して
頭の中でモンタージュ写真を構成して、クスリ(笑)。
共通の思い出は小学生時代でストップしていますが
知らない間に各々の生活を営み
年表を綴り続けてきたのだと思うと
温かみを帯びたやわらかい気持ちと
なんとも言えない心許なさが交錯しました。

2016年6月30日、〇〇くんと再会

彼と私の年表に加筆。
私も色々とありましたが
彼にも色々あったみたいで
お互いを励ましあいながら再会を約束し
懐かしいお店を後にしました。
面白いほど外装も内装も変わっておらず
早速姉二人にLINEで報告(笑)
病気になると母が鍋を持って買いに行ってくれた
あのコーンスープが懐かしいね、と姉。
なんでもない思い出が
珠玉の宝物のように感じられた瞬間でした。


ほっこりした気持ちを抱きつつ
馴染みのスーパーで買い物をしていると
鮮魚コーナーで新居の「もち鰹」に遭遇。
遠州灘で水揚げされたちょっと特別な鰹です。
詳しく知りたい方はググってください(笑)
無類の鰹好きである父の顔がふと浮かびましたが
その直後にすっと消え、
シーズンもそろそろ終わりだから
食べ収めようと、カゴへ。
清算を済ませて車へ乗り込むと
いきなり父から電話。

「新居のもち鰹が手に入ったから、食うか?」

・・・思わず

「なんで今っ!」

と絶叫(笑)
父は絶叫のワケを知る由もありません。
普段は無心の電話しかかかってこないのに
今日は真逆の内容。
なんとなく「買ったからいらない」とも言えず
父の住むアパートまで鰹をもらいに行きました。
今朝新居の港まで行って買って来たと
自慢げに語る父と対峙し
10年も会わない時期があったほど恨んでいた
自分の心がトロトロと解れていくのを感じたのです。
この人ももがきながら年表を綴ってきた。
そして私の年表はこの人と母がいて
スタートしたのだな・・・と。



もち鰹

梅雨時にもち鰹を見ると
亡き父を思い出すかもしれない・・・
まだ元気なのに不謹慎かもしれませんが
この先そうたくさんの思い出は重ねられません。
心がやや融解したとはいえ、
未だ素直に親孝行できない
未熟者の娘ですが
でも、な・・・
もう少し、会ってあげてもいいかな、
なんて。

そこで一首。


もちがつお
小さく見えた
父の背に
小さな声で
ありがとさん



ご高覧、ありがとうございましたm(_ _)m

四身一体で渦巻く感情

2016年04月12日 | つぶやき
桜の木は葉が優勢になってきまして
柿の木も萌黄色に芽吹いております。
新しい環境に身を置いた人々も
そろそろ居心地悪さがなくなる頃でしょうか?

ご無沙汰しております。
相変わらず家でカタカタやっております。
しかし、いつもと違うのは
湿った咳が止まらないこと。
先週木曜あたりから出始めました。
週末に外せないインタビューがありましたが
インフルだったらむしろ外れないといけないので
普段なら病院に行くのを最も後回しにする私が
いそいそと出向いて検査を受けたのです。
結果・・・陰性。ホッ。
マイコプラズマの検査もしてもらったところ
そちらの感染もないとのことです。
肝臓も元気だと聞いてばんざーい!
結局ただの風邪だったみたいで
人にうつす心配もなさそうだと。
仕事に穴を開けることなく
無事インタビューを終えました^^;
ただの風邪なんて、何年ぶりでしょう。
年取ったもんだ。


さて、インタビューのお話です。

東京で活躍していらっしゃる
脚本・演出家さんにお話を伺いました。
同性で年下、資料を拝見すると
戯曲はエキセントリックな様子。
普段接することのないタイプの方だと
正直気後れしておりました。
ドキドキしながらご対面しますと
小柄で笑顔が素敵な女性です。
あら?と先入観とのギャップを感じつつ
インタビューを進めていくと
内面からふつふつと溢れ出るパッション。
身振り手振りを加えて
生き生きとお話される姿から
目が離せなくなりました。
もっと個人的に伺いことがありすぎましたが
ぐっと飲み込んで我慢^^;


午前中のインタビューを終えて
午後は彼女のワークショップを見学。
演劇部に所属している高校生さんや
俳優を志している方、
主婦の方など参加メンバーの顔ぶれは様々です。
演技指導というよりは
感情を表出する道筋を解く内容で
見ている私たちも参考になることばかり。
当初はちょこっと見学してお暇するつもりでしたが
記事にすることを考えて
最後まで見学することにしました。
というより、着地点が見たくて
帰れなくなったとうべきですかね。
とにかく楽しかった。興味深かった。


4時間にもわたるワークショップでしたが
退屈することは一瞬もなく
小柄な女性という印象だった彼女が
どんどん大きく見えてくるから不思議です。
信念を持って一つのことw成し遂げようとしている人は
容れ物には収まりきらない何かがあるのでしょう。
すっかり魅了されてしまいました。
7月の公演は絶対に行くつもりです。


1日を通じて思ったこと・・・
尊敬と羨望と嫉妬と落胆は四身一体。
彼女の大きさに触れて
尊敬と羨望の念を抱くと同時に
ねちっこい嫉妬の感情も生まれてくるのです。
その自分の小ささに気づいて落胆する。
そしてまた尊敬と羨望にベクトルが向かうという
何だか訳わかんないスパイラル。
頭がカッカと熱くなり
夜はほとんど眠れませんでした。


今ようやく落ち着いてきて
ちょっと違う感情になりつつあります。
四身一体の複雑な感情を受け入れながら
自分らしい生き方、表現を改めて考えること。
文章だけでなく、話し方、表情
人との接し方、その他もろもろ。
尊敬して羨んで嫉妬して落胆して・・・
そういう葛藤があるからこそ
伸びるチャンスがあるんだと。
今更青クサイこと言ってますね^^;
不惑の年をとうに過ぎても
まだまだもがき苦しむ余地があることを
幸せに思いながら
すべてのことを大切にしていきたいです。



また支離滅裂なつぶやきになりましたが
おかげさまでスッキリしました。
さあ、インタビューのテープ起こしをして
また余韻に浸ろうと思います。
この仕事をしてて、本当に良かった。
あああ~幸せだ!(暫定w)


作ること 仕事すること

2015年12月07日 | つぶやき
去る土曜日、
「あいちトリエンナーレ2016」のプログラムのひとつ
「トリエンナーレスクール」で
招待作家であり、我らが編集長の
味岡伸太郎氏の講演を拝聴して参りました。

結論…

味岡伸太郎氏は偉大過ぎる。


お話を伺えば伺う程
突きつけられる事実です。
刺激的な2時間でございましたが
一番大きく感銘を受けたのは

倦怠からは何も生まれない

ということ。
天才と賞賛される画家や音楽家が
破滅の道を辿るケースが多々あるように
やり切ってしまったその先に
何も見いだせなくなったら
自暴自棄になり、最後には自刃することも。
味岡氏はそのことを十分理解しているから
「やり切る」というゴールを設けず
仕事に境界線を引かないのではないでしょうか?

画家であり、陶芸家であり、華道家であり
フォント制作もし、グラフィックデザイナーでもある。
雑誌の編集長であり、自らも執筆寄稿。
これと、あれをやってやろう、という意思はなく
全てが繋がっているのだと私は理解しました。


季刊誌「そう」の成り立ちも
7年も携わってようやく解った気がします。
旅行本でもない、歴史本でもない・・・
季刊誌「そう」はどのジャンルにも当てはまりません。
何故なら、毎回内容が流動的だから。
キーワードをひとつ設定し
そのキーワードにひっかかる事象を
片っ端からかき集めて
この地域に関連するものを抽出し
ライターが自分のフィルターを通して書く。
キーワードは星の数ほどあり
何百年経っても尽きることは無いでしょう。
だからゴールが無いし、飽きないのです。
味岡伸太郎氏の真髄ですね。
そこへ参画できていることを
心から幸せだと感じることができました。


また、現在味岡氏が行なっている
土に関する活動の話も
私の頭にガツンと衝撃を与えました。
まさに味岡道をいくものです。
テーマに沿って掘るポイントだけは決めますが
掘った土を選り分けることはありません。
土と対峙し、ありのままを受け止めて
作品へと昇華させるのです。
この内容に私はハッとしました。


「今の私に仕事を選んでいる余裕は無い」
という理由で全てのお仕事を
断ること無くお受けしておりますが
こう考えること自体が烏滸がまし過ぎますね。
今まで執筆してきた事実があるから
また違う執筆のご依頼をいただくのであって
それは選り好みするも何も
お受けするのが至極当然なのです。
新しい出会いと新しい知識をもたらし
自分の人生を豊かにしてくれるに決まってる。
嗚呼。何で今まで気付かなかったのでしょう。
ひとつとして同じ仕事などはなく
仕事に飽きている暇なんかありません。
「そう」が毎回キーワードを違えるように
毎回新たな気持ちで臨み
完成形から入るのではなく
結果として面白いモノになっていた…
そういう姿勢でありたいと思います。


私自身、何が言いたいのかよく分からないんですから
読んでいる方はさっぱり分からないと思います(笑)
とにかく、衝撃的な講演だったとご理解下さい。




才能が無いことを嘆いたって何も始まりません。
物事は捉え方次第で
つまらないものにも、魅力あるものにも見える。
だったら、つまらないものと捉えなければいい。


がんばるべ。

生誕〇〇祭 '15

2015年10月23日 | つぶやき
昨日、毎年恒例の誕生日でした(笑)

誕生日に際して今まで考えたのは生のこと。
今年は死についても考えることとなりました。
・・・母が逝ってしまったから。

人間は生まれた途端に死が約束されています。
人間は100%死ぬ。
分かってはいるつもりでしたが
頭の何処かで拒否していると言うか
考えることを先送りにしていると言うか
自分の大切な身内に降り掛かる
死というものを否定していたみたいです。

でも、やっぱりその時は来ました。
ある日突然に。

昨日の誕生日
母の遺影を見ながら
久々に「ウォンウォン」と泣きました。
まるでだだっ子のように。
母が荼毘に付して以来初めてのこと。
死しても尚、
考えることを避けていたみたいですね。


笑顔の母の写真を見ていたら
蓋をして仕舞っておいた思い出が
ビックリ箱のように飛び出してきて
幼い頃から今日までのことが
鮮明に甦ってきたのです。


幼い頃に自転車の後に乗って
近所を回ることが何より嬉しかったこと。

ゆっくり目覚めた日曜の朝
背中に指文字を書いてもらって
あてる遊びが大のお気に入りだったこと。


銀行に連れて行ってもらって
隣に座っているだけで楽しかったこと。

母を独り占めできる瞬間だったから…


小学生の時のお誕生日会は
「mieちゃんのおかあさん」と
私の友だち達が母にまとわりついて
終始不機嫌だったこと。

母を取られそうだったから…


大学生になって一人暮らしを始めたとき
母の元を離れたことが悲し過ぎて
1週間ろくにご飯も食べられなかったこと。


とにかく、私はマザコンでした。


そんな私も近年は
自分ひとりで生きてきたようなしたり顔で
近くに住んでいるのに
あちらから誘いが無い限り
会おうともしない全くの親不孝娘。
もっといっぱいお話しすれば良かった…
と思った時には既に遅し。



〇〇年前、
私は母に産みの苦しみを与えながら
この世に生を受けました。
予定日が目前に迫っていたのに
ギリギリまで仕事休むことができず
重いカーテンの反物を運んでいたら
急に産気づいたとか。
しかし私が出るのを嫌がったのか
生まれたのは朝方だったそうです。
しかも逆子で妊娠中も手を焼いたらしい。
そんな母の死闘を経て生まれたのに
先に待っているのはやっぱり死。


だからこそ、
一分一秒一瞬を無駄にしてはいけないと
改めて思った次第です。
明るく前向きに生きよう…
そう母が思い起こさせてくれました。


終わりがあるから
始まりがあり途中がある。
途中真っ只中の今、
私にしかできない生き方をしようと思います。


よーし、飲むぞ!食べるぞ!旅するぞ!
そのために仕事も頑張るぞ!


結局そこに落ち着くみたい…


今日も明日もあさっても
全力投球させていただきます。
出し惜しみはしませんからね。


VIVA! MY LIFE!


生誕〇〇祭'14はこちら

母にはトルコ桔梗がよく似合ふ

2015年09月22日 | つぶやき


9月3日、最愛の母が満74歳で天に召されました。
あまりにも突然過ぎる出来事で
私たちも周りの人々も唖然。

8月16日が母の誕生日で
その4日後の8月20日に
レストランでお誕生日会をしました。
その時は元気満々で
食事をペロリと完食。
11月から次女である私の姉夫婦と
新居で一緒に暮らすことが決まっており
その前に親子水入らずでハワイか香港に行こうと
日程まで決めていたのです。


それを待たずに、急逝。


最後に声を聞いたのは
母が亡くなる6日前、
私が北海道を旅している時でした。
「mie、私のお友だちが素敵な花束を作りたがっているんだけど
どこかいいお花屋さんしらない?」
というやりとり。
母の家に、私が伝えたお花屋さんのメモが残っており
やりきれない気持ちになったのは言わずもがな。


もっと親孝行させてもらいたかったと
悔やみ節を言い始めたらキリがありません。
しかし、後年の母は大好きな友人達に囲まれ
幸せな日々を送っていたと断言できます。
通夜、告別式を通じてよく分かりました。
告別式前に夜通しお線香の番をしてくださった方、
母の前で泣き崩れてくださったご友人一同…
皆様が口を揃えて
「あんなにカワイくて素敵な人は居なかった」
とおっしゃるのを拝聴して、
母が充実した人生を送っていたことを知りました。
子供である私たちの方が
母のことを知らなかったのかも。


実家が不動産業を営んでいたので
バブル崩壊の波に飲まれ
苦しい時もあったけど
持ち前の明るさで状況を好転させ
幸せをつかみ取っていた人でした。
フッと花が散るように逝ってしまったけど
あの世というものがあるのならば
間違いなく楽しくやっていると思います。


荼毘にふされたのを見届けたら
ストンと悲壮感が落ちました。
それは姉二人も一緒の様子。
笑顔しか思い浮かばない母なので
私たちもメソメソするのは止めました。
寂しさはあるけど
いつも心の中にいますから。


トルコ桔梗を見ると
母のことを思い浮かべます。
フリルが着いたフワフワのお洋服が好きで
いいものしか身につけないお嬢さん気質。
部屋着でさえユニクロを拒みました(笑)
眠るように横たわる母はとても美しかったです。
いつも気にしていた鼻のシミを
きちんとコンシーラーで隠してあげましたよ。
「人前に出るのが恥ずかしい」と言うはずなんで。



大好きなお母さん、
私たちを生んでくれてありがとう。
お母さんの子供で本当に幸せです。
これからもずっと…



さて、前を向いて歩きますか^^


ボチボチブログも更新していきまーす♪

海が好き

2015年06月08日 | つぶやき
久々に予定の無い週末を過ごしました。
仕事をすればいいのに脳みそは休日モード。
身体はウズウズしているので土日はジム三昧に。
っていうか、先週5回もジムに行っている。
毎度6km以上走って筋トレしてと
一人ライザップをしておりますが
短期間であの身体を作るには
食事制限が不可欠だと
身を以て感じております次第です。
しかし、炭水化物を抜くとか
日本酒を抜くとか絶対無理なんで
結果にコミットするのは数ヶ月先でもいいです。
全額返金保証もいりません。


そんなつまらん土日を過ごしてしまったので
夕方に回遊魚魂が爆発してしまいました。
いつものようにアツミさんで買い物をし
外へ出ると日光が夕陽の様相を呈し
一日の終わりを告げようとしているではありませんか。
買い物袋を後部座席に預けたまま
23号バイパスに乗って一路海へ。
















私が愛してやまない遠州灘の情景。
御前崎から伊良湖岬までの117kmの海岸線が
小さい頃から私の中の海でした。

波打ち際で遊んで平衡感覚を失い
突然バタリと倒れた幼少時代。

伊古部海岸に作った渾身の人魚の砂像に
男子がエッチないたずら書きをして
真っ赤になって怒った野外合宿。


高校時代の友人たちと3輪バギーで疾走し
あわや大転倒しそうになった夏の思い出。

遊泳禁止なんで基本泳げませんが
離岸流にゴムボートが巻き込まれ
みるみうちに沖に流され
水泳部だったと言う理由だけで
救援を求める役を負わされた私は
波に逆らって爆泳したあの夏。
今考えると恐ろしい無謀さよ…

酔っぱらって中田島砂丘で花火し
火の始末をしたと思いこみ
車に持ち込んだ花火の残骸が突然発火し
窓から袋を出してしばらく走行した
幼さ残る新入社員時代の思い出。
※ハンドルキーパーはいました。

大須の米兵で中古のトランペットを衝動買いし
ワンルームマンションで布団に潜って吹いていたら
下に住む先輩から苦情が来たので
この海岸で思いっきり不快音を鳴らした20代半ば。


そんな思い出が詰まった海岸です。
寄せては帰すことを繰り返し
無機質に見える海面下には
目まぐるしい命の営みがあります。
そして何より、私たちもここから生まれました。
海が産する塩は今も生命に欠かせないものであり
海無くしては私たちは語れません。
そう考えると「母なる海」という言葉が
心にしっくりとくるのです。
この海に見つめられると
頭の中で逡巡していた悩み事が
取るに足らないことに感じたり
もっというと、どーでもよくなります(笑)


嗚呼、海が好きだ!

うる星やつらに出てくる
藤波竜之介の父みたいですね。

この地を訪れたおかげで
今日は気持ちを切り替えて
お仕事に精進できています。
海に感謝、やっぱり海が好き。



「愛知ノート」を観て感じる

2015年02月09日 | つぶやき
東海三県にはいくつもの焼き物産地がある。
中でも瀬戸と常滑は六古窯に含まれ
日本屈指の窯業の街だ。
陶磁器の技術は大陸から齎されたものだが
根付いて文化として開花するまでには
作り手と使い手の感性と工夫が欠かせない。
そして最重要のファクター、土。
気が遠くなるほど太古の昔、
濃尾平野一帯は東海湖と呼ばれる湖の底だった…
学術的なことは私には説明できないので
専門書などを紐解いて欲しい。
とにかく、瀬戸と常滑には陶器に最適な土が
堆積していることは間違いないようだ。

現在、瀬戸市の愛知陶磁美術館で開催されている
「愛知ノートー土・陶・風土・記憶」では
この東海湖について知ることができるとともに
様々な展示を見ることができる。
我らが「そう」編集長の作品が出展されているので
先日瀬戸まで車を走らせ、拝観した。


詳しくは編集長のblog1 編集長のblog2をご覧頂きたい。

キャンバスにドローイングした4層の土、
そしてその土を使って焼成した抹茶茶碗。
茶碗として成立するもの、そうでないもの。
土とそれぞれを見比べる。
我が家から一番近い多米の土を見、
やはり赤土なんだと改めて知る。
辛うじて器の形を保っていた。
自分の功績でも何でもないが何だか嬉しい。

アスファルトに覆われ
家屋に塞がれてしまっているが
足元で確かに堆積している、土。
二足歩行を始め、石などから鏃を作り
それを使って獲物を仕留めた古の人々。
獲物を加工して文化的な食事をするために
大きな役目を担った器の誕生。
土を捏ねて焼いて器を作った人々は
良質な土を求めて歩き回ったのだろうか?
様々な失敗を重ねたのだろうか?


各地の土を前にして
いろいろと思いを馳せていたら
あっという間に時間が過ぎていた。
茶室に入ってボーッとしていたら
これまた時間が恐ろしいスピードで過ぎた。


いかんいかんと、別部屋の展示も見る。

人間国宝の三代山田常山の急須の前で足が止まった。
人はここまで精緻な仕事ができるのか、と
ただただ驚くばかりで、
道具だからこそ表現できる美を見せつけられた。


瀬戸の雑器を支えてきた登釜「丸窯」。
昭和30年の最後の火入れを納めたVTRに見入る。
20分間もの時間をまたまた忘れてしまった。
3日3晩、夜を徹して薪を投げ入れ火の守をする
職人達が飲んでいた酒が
かつて瀬戸を代表した「明眸」だったのを見、
ニヤニヤする自分に気付く。
暗闇で気味悪いので速やかに真顔に戻す。


さらに練り歩き、古瀬戸の雑器に目を奪われる。
江戸時代に流行した馬の目文様の大皿だ。
瀬戸と言うと瀬戸物、
つまり磁器を思い浮かべる人も多いが
磁器が作られるようになったのは江戸時代中期~後期。
それまでは日常使う土ものの雑器が主だった。
この馬の目皿も江戸時代後期に盛んに作られたもので、
グルグルの渦巻き文様が特長。
この渦巻き文様が馬の目に見えるところから
この名がついたようだ。
芸術的価値の高い磁器の作品も見応えがあるが
郷土料理を愛する私は
こういう郷土色豊かな陶器に目がない。
今まで瀬戸歩きをしても
馬の目皿という観点は無かったが
この文様の皿がどうしても欲しくなってしまった。


陶磁美術館を出て尾張瀬戸駅周辺を探索。
何軒か訪れて1つだけそれらしきものを見つけたが
求めるテクスチャーではない。
赤津の窯元に数件訪れたが無いようだ。
自力で見つけるのは無理だと観念し
失礼を承知で窯元のご主人に伺ったところ
専門的に焼いているのは現在2軒だけだと教わる。
その一軒をご親切にも教えていただいた。
早速車を走らせて向かうが
直売店らしき店舗は錠がかかっている。
窓ガラスと言う窓ガラス、全部覗き込み
人の気配を認めたのでドンドンと叩いてみた。
怪訝な様子でご主人登場。
先ほどの経緯を話すと快く中へ導き入れてくれた。




馬の目皿

ズシッと重くて思った通り無骨な質感。
手書きの馬の目が大きかったり小さかったり
色が濃かったり薄かったりし
一枚一枚違ってまるで人の顔みたいだ。
薄くかかった土を払いながら
色を確かめつつ時を忘れて選んだ。
皿や湯のみ、酒器などあったが
素朴な惣菜を盛るイメージしか
頭に浮かばなかったので
浅い鉢と小皿を2枚購入。
シャイなご主人に色々質問すると
「こんなのは所詮雑器なんでねぇ」と。
それこそ私が求めていたもの。
自分の目的が果たせた充足感に包まれ、
意気揚々と帰宅した。


さっそく包みから取り出しイメージを膨らませる。
瀬戸らしい器に載せる瀬戸らしい惣菜とは何だろう…
瀬戸ヤキソバしか思い浮かばない
貧しき我が発想力にほとほと嫌気がさした。


~完~