1800年(寛政12年)伊能忠敬が蝦夷地の測量をした年です。その年、八王子千人同心と呼ばれる半農半士(実際は侍としては扱われなかったらしい。)の有志(2男3男対策とも)100人が苫小牧市の勇払と釧路に隣接する白糠に50人づつ移駐します。さらに1か月後15人づつ増勢されます。警備と道路の開削、開墾が目的でした。勇払にはすでに交易の拠点である勇払場所ができていたそうですが。
3年半後、30数人がなくなり、計画は取りやめられ、移駐した人たちは函館などに四散します。勇払では65人のうち、16人が亡くなったそうです。そして交易に従事していた人たちのものも含め200余年前のお墓が苫小牧市によって丁重に祀られています。
公園内に当時の幕府の役所を模した「勇武津資料館」があります。
当時の資料はほとんどありませんでした。丁寧に説明していただきました。
八王子から1か月半、歩いてきたそうですが、冬は厳しかったでしょうね。苫小牧市民会館の一角に銅像がありました。
母子像は、
「梅女は、千人同心にまつわる民話で語られる女性です。千人同心のひとり河西祐助とともに入植した妻・梅が女の子を出産しますが、北国の厳しい生活で体調を崩し幼子を遺して亡くなりました。その後、赤子を抱いた幽霊が出没し、夜な夜な墓地から女の泣き声や「この子にお乳を飲ませてください」と訪ねる声が聞こえるという噂話が現在民話として伝わっています。(引用)」
3年半後、30数人がなくなり、計画は取りやめられ、移駐した人たちは函館などに四散します。勇払では65人のうち、16人が亡くなったそうです。そして交易に従事していた人たちのものも含め200余年前のお墓が苫小牧市によって丁重に祀られています。
公園内に当時の幕府の役所を模した「勇武津資料館」があります。
当時の資料はほとんどありませんでした。丁寧に説明していただきました。
八王子から1か月半、歩いてきたそうですが、冬は厳しかったでしょうね。苫小牧市民会館の一角に銅像がありました。
母子像は、
「梅女は、千人同心にまつわる民話で語られる女性です。千人同心のひとり河西祐助とともに入植した妻・梅が女の子を出産しますが、北国の厳しい生活で体調を崩し幼子を遺して亡くなりました。その後、赤子を抱いた幽霊が出没し、夜な夜な墓地から女の泣き声や「この子にお乳を飲ませてください」と訪ねる声が聞こえるという噂話が現在民話として伝わっています。(引用)」
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