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理知を情緒と云う風呂敷に包むことを好む国民 情緒ファッショの発芽

2012年01月09日 07時48分13秒 | Weblog
理知を情緒と云う風呂敷に包むことを好む国民 情緒ファッショの発芽
(世相を斬る あいば達也)より

七日土曜日の日刊ゲンダイに、日本の国会議員の厚遇ぶりが報じられていた。

先ずは、軽く読んでいただこう。

ただ、今日筆者が語ろうとする視点は、必ずしも記事と深く関わっているわけでもない。

この記事に触発されて、或る考えが浮かんだと云う事だ。

≪ やっぱり日本の国会議員の歳費はベラボーだった――。

 イタリアのモンティ政権が国会議員の月額の平均収入を調査したところ、諸手当を含めて1万6000 ユーロ(約160万円)超に上ったという。 

フランスやドイツと比べて約5~6割も多く、スペインに比べると約4倍。

欧州ではケタ外れに高いと批判が噴出している。

確かに、とても債務危機に直面している国とは思えない厚遇ぶりだが、これをはるかに上回っているのが、日本の国会議員だ。

「日本の国会議員の歳費は月額129万円で、これに年間635万円のボーナスが加わり、給料だけで年収は約2200万円にもなります。

さらに『文書通信交通滞在費』で年間1200万円が支給されるほか、JR無料パスや無料航空券、格安の豪華宿舎、公用車も付く。

公設秘書の給与なども含めると、議員1人につき年間1億1000万円以上の税金が使われている。

1000兆円もの借金を抱え、財政危機でイタリアになる――と国民に大増税をあおりながら、自分たちはイタリア議員の何倍もの税金をふんだくっているのです」
(政治ジャーナリスト)

 3月の震災で、いったんは毎月50万円の歳費カットを決めたが、9月でアッサリ終了。

冬のボーナスも満額支給(約290万円)というから国民をバカにしている。 

野田ドジョウ首相が「ネバー、ネバー」なんて叫んだところで、国民はシラけるばかりだ。≫(日刊ゲンダイ)

以上のように、日本の国会議員が厚遇されている事は事実だが、だから国会議員も身を削る努力をもっとしろ。

両議院の定数も削減しろ、と云う話になるわけだが、この議論は必ずしも理知的議論ではない。

また、火に油を注ぐようにつけ加えるなら、ゲンダイの歳費に政党助成金が上乗せされ、政治献金による収入も存在する。

財務省曰く、1,000兆円の借金大国日本では、トンデモナイ金食い虫が碌な政治もせずにヌクヌクと生きている、と云う事になる。

しかし、一議員あたり1億円以上の税金が投入されているのに、議員の多くは決議する時の単なる票要員だと思うと、情緒的にフザケルナ!半分以下にしろ、と言いたくなるのだが、理性を働かせて考えると、必ずしも彼らが暴利を貪っているとは言い難い。

国会議員の収入が一般人に比べて高い最大の理由は、その職に留まれる保障が衆議院議員で最長4年間、参議院で6年間と云う事である。

霞が関の官僚らと異なり、議員としての身分保障は議員である限りにおいてのもので、次回の選挙で落選すれば、すべての保障がなくなるのだから、役人や民間企業で働く場合より高いペイを貰わないと、怖くてやっていけない職業と云う事になる。つまり限定的身分保障給与と考えれば、高くはない。

その他にも、議員の歳費が高くても儲かる商売ではない理由がある。

当選と同時に次回の選挙でも生き残る為に、選挙の為の活動を行う。

チャンと選挙運動する気なら年に2000万は掛かる。

ポスター代、はがき代や後援会維持費、事務所の開設等々。

それに多少格好の良い議員であろうと思えば、政策立案出来る秘書や気のきいたオネエサン秘書や地元秘書も必要になる。

政策立案の為に必要な場合専門家の意見を聞きに行く、当然それなりの報酬が必要だ。

浮気などしたら新聞沙汰だし、気軽に冗談も飛ばせない。

筆者など、間違っても国会議員だけはなりたいと思わない。

つまり、情緒的に議員の給料は高い、と云う感情・情緒は妥当性を欠いている。

コメンテータらの方が余程儲けまくっているわけで、議員など金儲けでいえば、哀れなものである。

 巷では世論と云う形で生まれてしまう、この情緒的言説と云うものは、非常に厄介だ。日本人の空気を読む世界と共通性が多いので、正論を論理的に理性に訴えて説明しても、非難が起きるのである。

(だいたいがマスメディア自体が情緒的)情緒ファッショと云うべきものが起きやすい民族の国が、経済閉塞時代を迎え、それに大震災・原発事故・放射能汚染とくれば、充分に情緒ファッショの発芽は、爆発的に起こりうる状況にある。

まして、世界中が日本に右ならえで、閉塞経済に陥るとなると、この現象は既に始まっているのかもしれない。

この情緒性の強さの行く末は、両極に走るわけで、トドノツマリ止めるに止められなくなる事態さえ惹起する。

 福島原発事故で発生した放射能に汚染された瓦礫処理の問題。これなども理性的に考えれば、最終処分場が現地にならざるを得ないわけだが、情緒的には、いつの日か、何処かに持って行けるような話で解決の道を探る。

拉致被害者問題も、6者協議の枠組みでいる限り、色々やっていますと云うエクスキューズを作る事が重要になり、ひたすら全員が無事に戻るまで闘えと云うキャッチコピーのみが、虚しく延々と続いている。

全員無事救出?不可能を可能の如く言わざるを得ない空気が漂い、逆に何も出来なくなってしまう。  

 日米同盟の解釈にも、情緒論が強くあるだろう。

領土問題も然りだ。福島原発周辺10キロ圏以内が人の住める土地でなくなっているのは事実だろう。

しかし、それを言うのは酷だから(情緒)と言って論理的説明から逃れる情緒政治は典型的だ。

増税論議の「子供に借金を残さない。

現役世代で処理する」これも腐ったような情緒論だ。

ジジババから父母から、遺産も相続しないのなら、そういう理屈はあるが、家族間相続は厳然とある。

今までに無駄が多いと言っても、作られた住居、道路、鉄道、橋は彼らが受け継ぐのだ。

借金を受け継ぐ事だけクローズアップして、受け取る財産を無視する財務省や野田豚の屁理屈こそ、最大の情緒論である。

まさに、ドゼウ男であり、相田流処世訓政治家だ。

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