現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

セントオルリーグの熱戦

2021-05-23 13:34:26 | 作品

 

「ディス イズ ア ナプル」
「ディス イズ ア ナプル!」
 奇妙に誇張された先生の声に続いて、生徒たちが大声で復唱している。
藤田タツヤも、口だけはみんなに合わせてパクパクさせていた。
 でも、本当は横目でぼんやり校庭をながめたりしていた。
 給食が終わった後の五時間目。タツヤでなくても、なかなか授業に集中できない。
おまけに、窓ぎわにあるタツヤの席には、春のひざしがたっぷりと差し込んでいるので、ポカポカとしていてつい眠くなってしまう。
 なんとか気を引きしめようと、タツヤは目をパチパチとさせていた。
 と、その時、みんなの声にまじって、別の音が聞こえてきた。
 シャー、……、シャー。
 かすかだが、はっきりと聞こえる。少し間隔をあけて、何度も繰り返されている。
 近くからだ。
 タツヤは、先生に目立たないように気をつけながら、あたりの様子をうかがった。
 どうやら、すぐ後ろの福井トオルの席からのようだった。
 タツヤは、すばやく後ろを振り向いてみた。
 トオルも、タツヤと同じように、声を出さずに口をパクパクさせているだけだった。
 しかも、その視線は、先生の方向ではなく、机の下に入れている左手にじっと注がれているようだった。
 福井トオルは、先週の月曜日にタツヤのクラスに入ってきたばかりの、転校生だった。
 と、いっても、タツヤたちだって、中学に入ってから、たった二週間しかたっていない。
 トオルが先生に紹介された時、
(変な時期に転校してくるやつもいるもんだな)
って、タツヤは思った。
 普通は新学年とか、新学期から転校してくるケースが圧倒的に多い。ましてや、小学校を卒業して、中学校に入るという大きな節目なら、なおさらのことスタートのタイミングを合わせるだろう。これでは、みんながなじみはじめたときに、途中からクラスに参加することになってしまう。
 でも、トオルは教壇であいさつしたとき、少しも臆しているようには見えなかった。
「福井トオルといいます。よろしくお願いします」
 少し笑みを浮かべながら、堂々とみんなを見回していた。
「えーっと、席は、窓ぎわの一番うしろだ」
 先生に指し示されて、タツヤの方へ歩いてきた。いつの間に準備されたのか、タツヤのうしろには新しい机といすが用意されていた。
「藤田タツヤだ。よろしく」
 トオルが席に着いた時、タツヤはうしろをふりむいて声をかけた。トオルはだまってうなずいただけだったが、さっきと同じ静かな笑顔をうかべていた。
 それからもう一週間以上になるが、タツヤは、「おはよう」や「さよなら」以外に、まだトオルと口をきいたことがなかった。それは、他のクラスメートたちも同様だろう。
 休み時間には、タツヤたち男子生徒のほとんどは、校庭でサッカーや他の遊びをやっている。
 でも、トオルだけは、誰もいない教室にいつも残っていた。

 五時間目の授業が終わった時、タツヤは思いきってトオルに声をかけてみた。
「福井。おまえ、机の下に何か隠しているだろう?」
「えっ」
 トオルは、ちょっと驚いたようだった。
 でも、やがてニヤッと笑うと、タツヤに左のこぶしを突き出してそっと開いてみせた。トオルの手のひらの上には、直径三、四センチしかない小さなルーレットが載っていた。
「おっ、ルーレットか。動くのか?」
 タツヤは、興味をそそられて体を乗り出した。
「もちろん」
 トオルは、すばやく軸をひねってみせた。ルーレットは、例のシャーッという小気味良い音をたてて勢いよく回り出した。
 トオルのルーレットは、父親に海外旅行のみやげとしてもらった物だとかで、実に精密にできていた。小さいながらずっしりとした重さを持っていて、そのせいか回転がすごくなめらかだ。
 数字は、00と0から36までの三十八通りで、ひとつおきに赤と黒に塗られていた。ひとつひとつのボールの入るマスは、きちんと等しい大きさになっているようだ。
 盤面は透明なプラスチックのふたでおおわれていて、ボールが外へ飛び出さないように工夫されていた。
 外側には銀のふちかざりがなされていて、中心に同じ色の十字架形の回転軸がついている。これをひねって盤を回すと、中に入っている直径二ミリほどの金色のボールが動き出すのである。
 ボールはすごく正しく球形に作られているらしく、各数字のマスへの入り方は、テレビなどで見る本物のルーレットそっくりにスムーズだった。
「授業中にもやってるんだろ?」
 タツヤは、受け取ったルーレットを回しながらいった。
 トオルは、また驚いたようにタツヤの顔をみつめていた。
でも、すぐに素直にうなずいた。
「何で気がついたんだよ?」
「音だよ。回すたびにシャーッて音がしてるぜ」
「地獄耳だな」
 トオルはそう言うと、またニヤッと笑った。
「でも、ひとりじゃ金をかけられないし、おもしろくないんじゃないか?」
「ルーレットのゲームそのものを、やってるんじゃないんだよ」
「えっ? じゃあ、なんだよ」
「野球だよ」
「野球?」
 そういわれても、タツヤには何のことだかわからなかった。
 トオルは、机の中から一冊のノートを取り出した。そして、パラパラとめくると、あるページを開いてタツヤに見せた。
「0:ホームラン
 1:三振
 2:セカンドゴロ
 3:……」
 0から36までと00の数字、それに、その隣にひとつずつの野球のプレーとが、小さな字できちょうめんに書かれている。
「なんだ、こりゃ?」
 タツヤには、まだピンとこなかった。
「だから、野球ゲームなんだよ」
「ふーん?」
「一打席ごとに、ルーレットで結果を決めてんだ。ほら、たとえば今は22に入っているから、ライトフライでワンアウトってわけだ」
 トオルは、ノートの22のところを指し示しながらいった。
「へーっ。そんなのおもしろいのか?」
「ああ。本当の試合だと思って、真剣にやりゃあな」
 そのとき、六時間目の社会の先生が入ってきたので、トオルとの話は中断されてしまった。

 シャー、……、シャー。
 次の授業の時間中も、ルーレットを回す例の音が、ひっきりなしにうしろからかすかに聞こえていた。
 トオルがいっていたように、タツヤの耳が特別にいいのか、他の生徒たちはその音をあまり気にしていないようだった。
 でも、タツヤだけはその音を聞くたびに、トオルのやっているゲームが気になってしょうがなかった。
(今、試合は何回まで進んだんだろう? さっき五回の表だったから、今は七回ぐらいかな)
(どんな場面なんだろう? 塁上にランナーは出ているのだろうか?)
 想像はどんどんふくらんでくる。
 タツヤにとっても、野球は一番好きなスポーツだった。小学校時代は少年野球のチームに入っていたし、すでに中学でも野球部に仮入部している。地上波ではめったにやらないけれど、テレビのプロ野球中継はBSで欠かさず見ていた。
 もちろん、ゲームも大好きだ。もっともタツヤがやっているゲームといえば、携帯ゲームか、トレーディングカードなどにかぎられていたけれど。そういえば、小さいころにクリスマスプレゼントでもらった人生ゲームなどのボードゲームをやらなくなってからだいぶたっている。
 自分で考案した野球ゲーム。こんな不思議な世界を持っているこの風変わりな転校生に、強く興味をそそられていた。
「古代エジプトでは、……」
 社会の授業は、そんなタツヤの気持ちとは無関係に淡々と進んでいく。先生は、黒板に重要なポイントを書いている。
 そんな先生の目をぬすんでは、タツヤはすばやくうしろを振り向いて、ときどきトオルの様子をうかがっていた。
 トオルは、あいかわらず机の中につっこんだ左手をながめている。そして、時々右手でルーレットをまわしているようだ。
 シャーッ。
軽快な音をたててからルーレットが止まるたびに、トオルはノートを見て結果を確認している。そして、何回かルーレットを回してから、やっと一打席の結果が出たのか、ノートにシャープペンシルで記録を書き込んでいる。
 タツヤは、ゲームの様子を知りたくてたまらなくなっていた。
 だから、
(早く授業が終わらないかなあ)
と、何度も腕時計を見てしまう。
 でも、そういったときに限って、時間は意地悪くゆっくりとたっていくのだった。

 その日の放課後、トオルは、自分の野球ゲームについて、タツヤに詳しく話してくれた。
 トオルの野球ゲームは、壮大な計画を持っていた。なにしろ、セントラルリーグの一年間の全ての試合をひとりで再現しようというのである。
 ホームランや三振の出る確率も、できるかぎり現実のセントラルリーグの記録に近づけてあった。
 そのために、さっきのノートには、アウトカウントやランナーの有無など、状況ごとに違った表のプリントが、各ページに貼られている。
「選手ごとに重みづけもしてあるんだ」
 トオルは自慢そうにいった。
「重みづけ?」
「そう。例えば、四番バッターと九番のピッチャーとでは、ヒットやホームランが出る確率を変えてあるんだ」
「ふーん」
 重みづけは、ピッチャーの三振を取る確率や、野手のエラーをする確率にも使われている。そういったものを組み合わせてプレーをしているので、打席ごとに最低四、五回はルーレットを回さないと、結果が出ないのだ。
 しかも、トオルは、一試合、一試合、ていねいに正式のスコアブックをつけながらやっている。
だから、せいぜい一日一、二試合を消化するのがやっとらしい。このペースだと、毎日やっても、一シーズンをやるのに一年以上はかかる計算になる。
 トオルは、今までに行われた試合のスコアブックを、タツヤに見せてくれた。
 すでに、各チームとも十試合ずつを終え、トータルの試合数は三十試合に達している。ひとつひとつの試合が記録されているだけでなく、現在のチームの順位や、個人の打撃成績、投手成績までが、きちんと整理されていた。
 どうやらトオルには、美術の才能があるらしい。スコアブックは、レタリングや野球選手のイラストで、きれいにかざられている。
 スコアブックの表紙には、大きく「セントオルリーグ」と書かれていた。
「セントオルリーグ? セントラルじゃないのか?」
 タツヤがたずねると、トオルは黙ってニヤニヤしているだけだった。
「あっ、そうか。自分の名前をつけたのか」
「うん」
 トオルは、少し照れながらうなずいた。
 「セントオルリーグ」のペナントレースにおける現在のトップは、東京ヤクルトスワローズだった。二位の中日に、一・五ゲーム差をつけている。
 トオルは今までのゲームのハイライトを、身振り手振りをいれてリアルに再現してくれた。
 タツヤは、そんなトオルと「セントオルリーグ」に、すっかり魅せられてしまっていた。

 その後も、トオルは勉強や他のことをすべてなげうって、「セントオルリーグ」に全力を投入していた。勉強も、部活も、クラスメートとの付き合いも、「セントオルリーグ」以外のことはいっさいやらないのだ。
 授業中は、ほとんどいつも「セントオルリーグ」をやっている。休み時間には、試合の途中経過を、唯一の観衆であるタツヤに熱心に再現してみせてくれた。
 他の生徒たちも、トオルが何か変わったことをやっているらしいことには、うすうすは気づいているようだった。
 でも、タツヤ以外には、「セントオルリーグ」に積極的に関心を示す者はいなかった。

 タツヤとトオルは、「セントオルリーグ」のために、いつも前後の席を占めるようにしていた。
 席替えに関しては、担任の青井先生は全くルーズだった。月に一回、席替えをやっているのだが、男女が並ぶことを除いては、全くのフリー。つまり、朝早く来た者から、自分の好きな席に座って決めるのである。
 毎月一回の席替えの日には、クラスの大半が七時前には登校してしまう。自分から特定の男の子や女の子のとなりに座るのは、やっぱりはずかしいからだ。
 でも、中一ともなれば、男子も女子も互いに意識し合っているので、本当は好きな子の隣に座りたいのだ。みんながそろいはじめて男女のペアができるたびに、オーオーとクラス中がどよめいた。
 女子は中学から私立へ行く子が多いので、男子の方が人数が多い。そのため、窓ぎわの一列だけは、男だけになってしまう。
 タツヤとトオルは、そこに目をつけていた。席替えの日には六時前に学校に来て、確実にその窓ぎわの列に座れるようにした。そこだと、先生から目立たないし、隣にじゃまな女の子もいなくて、「セントオルリーグ」をやるのに絶好なのだった。
 そのため、みんなからは、タツヤとトオルが女子にはまるで関心は示さずに、いつも二人一緒になりたがっているように思われてしまった。

 中間試験の最後の日だった。
「あーあ、やれやれやっと終わったか」
 タツヤは、最後の社会の答案を出し終わってから、大きくのびをした。中学に入って初めての定期試験。どうなることかと心配していたけれど、思いのほかうまくいった。
 帰りのホームルームが始まるまで、教室の中はザワザワしていた。
「タツヤ」
 後の席から、トオルが声をかけてきた。さすがに試験時間中は、シャーッというルーレットの音は後ろから聞こえてこなかった。セントオルリーグも一休みって所だろう。
「なんだい?」
 タツヤが振り返ると、
「今日、映画に行かないか?」
 トオルはそういって、ポケットから分厚い招待券の束を出してみせた。
「すげえ、どうしたんだ」
 タツヤは、うらやましそうにいった。
「おやじからもらったんだよ」
「ふーん。おまえんちのおやじさん、映画会社かなんかに勤めてるのか?」
「いや、不動産関係だけど。これは取引先からもらったんだって」
 トオルは、ちょっと早口にいった。

 タツヤは家に戻ると、自分の部屋ですばやく私服に着替えた。そして、台所に置いてあったおやつの菓子パンをほおばりながら家を出た。
玄関わきにとめてある自転車をひっぱりだす。
 そんなに急がなくても、十分ちょっとで最近オープンしたばかりの駅ビルについてしまった。待ち合わせの時間まで、まだ十五分近くもある。
駅ビルの中には、9スクリーンもあるシネコンが入っていた。たいがいの映画なら、電車で都内に出なくてもここで見ることができる。
 タツヤは近くの歩道の上に自転車をとめて、盗まれないようにチェーンの鍵でガードレールに縛り付けた。
ニュースやCMを流している電光掲示板の下で、トオルを待つことにした。ここは最近待ち合わせによく使われる場所だが、時間が早いせいかまだそんなに人だかりはしていなかった。
 少し早めに着いたので、トオルが来るまで、壁にもたれていきかう人の流れをぼんやりながめていた。そして、なんとはなしにトオルのことを考えた。
 学校以外でトオルに会うのは、これが初めてだった。
それだけじゃない。どこに住んでいるのかとか、家族の構成だとか、トオルについては何も知らなかった。
 先月転校してきたこと。勉強はそっちのけでセントオルリーグに熱中していること。知っているのはただそれだけだ。
「よお、お待たせ」
 ふいに声をかけられて、タツヤは物思いから現実世界に引き戻された。
 そばではにかんだような笑顔をみせているトオルを見て、タツヤは少し驚かされた。
 トオルは体にピチッと合った細身のジーンズをはき、はやりのパステルカラーのポロシャツをさり気なく着こなしている。天パーの髮の毛も、いつもよりきちんとなでつけていた。
 タツヤは子供っぽい自分のかっこうが急にダサク思えて、少し引け目を感じてしまった。
「じゃあ、行こうか」
 トオルにうながされて、二人は肩を並べてビルの中に入っていった。
 エスカレーターでシネコンの受け付けになっているフロアにいった。プーンと甘い香りがフロアにただよっている。キャラメルポップコーンの匂いだ。
「何か飲み物でも買っていく?」
 タツヤは先に立って、食べ物売り場の方へ歩いて行った。
「うん。そうだなあ?」
 トオルは、売り場のうしろにはられたメニューをながめている。
「ポップコーンも買おうか?」
と、タツヤがいうと、
「じゃあ、カップルセットにしよう」
 トオルがニヤッとした。
 カップルセットは飲み物のLが二つと、ポップコーンのLがついて値段が割引になっている。
「OK。でも、ポップコーンは塩味ね」
と、タツヤは答えた。
 その日の映画は、アメリカの中学生の恋愛コメディーだった。
 冒頭から、かわいい女の子とのキスシーンで始まったのでびっくりした。
 その後も、年上の女の人にセックスを迫られたり、女子更衣室をのぞき見したりと、きわどい場面がふんだんに盛り込まれている。
 タツヤもこういったことにはもちろん関心があるので、初めは興味しんしんで見ていた。
 でも、自分の中学生活とのあまりの違いに、だんだんあきてきてしまった。それに、かんじんのストーリーが、単調でつまらなかったのだ。
「ファーッ」
 おもわずあくびをして、タツヤはあわてて口をおさえた。トオルに馬鹿にされるのが、いやだったからだ。こういった映画を楽しめないガキだと思われるかもしれない。
 タツヤは、横目でそっと隣にすわっているトオルの様子をうかがってみた。
(えっ?)
 驚いたことに、トオルはぐっすりと寝込んでいる。耳をすますと、かすかに寝息までが聞こえてきた。その寝顔は、さっきまでとは違ってすごく子供っぽい。
 タツヤは、安心して自分も居眠りをすることにした。しばらくして、隣の席からは、トオルの軽いいびきが聞こえ出してきた。

 映画の帰りに、タツヤはトオルの家へ寄ることになった。トオルの家は、古いマンションの七階にあった。
 家に入った時、タツヤは奇妙な感じを受けた。
 間取りは、ありふれた2LDK。玄関わきの食堂には、ダイニングテーブルや冷蔵庫が、そして、最初に通された居間には、型通りに応接セットやテレビが置かれている。ここまでは、タツヤの家と全く同じだ。
 しかし、何かが違う。まるでモデルルームか何かのように、どこか不自然な感じがするのだ。
 タツヤの家では、ぜんぜんふんいきが違っている。家の中に、仮にその時そこにはいなくても、家族のにおいが充満しているのだ。
 それは、食堂の椅子の背に、無造作にかけてあるかあさんのエプロン。ふたがあけたままになっている妹のピアノ。そして、玄関に置きっぱなしのとうさんのゴルフバッグなんかかもしれない。
 それから、居間に置かれた去年の夏の家族旅行でのスナップ写真。タツヤが修学旅行で買ってきた日光のペナントなどでもある。
 そういったむだな物、雑然とした物が、トオルの家には全くなかったのだ。
 特に、台所は、ほとんど使ったことがないかのように整然としていた。タツヤの家なら、使いかけの調味料や洗う前の食器、それにいろいろな食べ物まで、あちこちに置かれている。
 タツヤは、思いきってトオルに聞いてみた。
「トオル。おまえんち、おかあさんいないのか?」
「いや、いるよ。ちょっと出かけているんだ」
 トオルは、あわてたように早口でいった。そして、何かを恐れるかのようにして、急いでタツヤを自分の部屋へ連れていった。
 トオルの部屋に入ってみると、そこもみょうにちぐはぐな感じだった。六畳ぐらいの大きさの洋室だったが、ベッドがない。
(床に直接ふとんをしいて、寝ているのだろうか?)
 窓ぎわには、タツヤの部屋と同じように机が置かれている。恥ずかしながらタツヤの勉強机は、アニメのキャラクターの絵がついている装備満載の『学習机』だ。
 ところが、トオルのはぜんぜん違っている。灰色で片そで、がっしりしていて飾りがいっさいない。
 そう、テレビドラマに出てくる会社に置いてあるような、古ぼけた事務机って感じなのだ。その上にはノートパソコンとプリンターが載っている。
 部屋のすみには、他とはふつりあいな新品のブルーレイレコーダーと大型有機ELテレビが置かれている。
 机の上にのっている写真立てには、トオルと大きな犬が一緒に写っている写真が入っていた。その犬は、大きなピンク色の舌を出してトオルのほっぺたをなめ、トオルはくすぐったそうに笑っている。
「でっかい犬だなあ」
 タツヤは、写真立てを手に取った。
「前の家で飼っていたグレートデンなんだ」
 トオルはそういいながら、タツヤの手から写真立てを取り返した。
「へーっ、今はどうしてるんだ?」
 タツヤは思わずそう聞いて、すぐにしまったと思った。トオルが、黙って写真立てを机の上にふせたからだ。

 玄関の方で、かぎをガチャガチャさせる音がした。トオルは、すぐに立ち上がった。
「おかあさんか?」
「ああ」
「あいさつした方がいいよな?」
 タツヤも、そういいながら立ち上がった。
「えっ。ああ、いいよ。別にしなくても」
 トオルは、ひとりで部屋を出ていった。
 すぐに部屋に戻ってきたトオルは、ブルーレイディスクに録画してあった去年の日本シリーズの試合を、タツヤに見せてくれた。有機ELテレビで見るプレーは、映像も音響も、タツヤの家のテレビよりずっと迫力があった。
 三十分ほどして、コンコンとドアがやさしくノックされた。
「トオルさん」
 外から声がすると、トオルはあわててドアの所へ飛んでいった。ドアを開けると、お寿司をのせたおぼんを持って、トオルのおかあさんが入ってきた。
「いらっしゃい」
「あっ、どうも。はじめまして、藤田タツヤっていいます」
 タツヤは、てれながらあいさつした。
 トオルのおかあさんは、びっくりするぐらいきれいな人だった。髪はきちんとセットされているし、化粧もくっきりとしている。それに、タツヤのかあさんと比べると、十才以上も若く見える。
「そこに置いてってよ」
 トオルは、少しじゃけんな声を出していた。
「はい、はい。それじゃ、ごゆっくり」
 トオルのおかあさんはお寿司を机の上に置いて、タツヤに向かってニッコリとほほえんでから、部屋を出ていった。
 タツヤは、その笑顔が今日の映画に出ていた主人公を誘惑する年上の女性とダブッて、思わずドギマギしてしまった。
 お寿司は上等だった。いや、子どもたちだけで食べるには、上等すぎていたかもしれない。
 ウニ、イクラ、トロ、アワビ、それに大きな活きエビ。
「おまえ、いつもこんなの食ってるのか?」
 タツヤは、イクラの寿司をほおばりながらいった。
「えっ、ああ」
「ふーん。おまえんち、けっこう金持ちなんだなあ」
「いや、違うよ」
 タツヤがうらやましそうにいうと、トオルはいやにはっきりと否定した。

 その後も、トオルはセントオルリーグに熱中していた。授業中に、例のシャーッというかすかな音が、うしろから聞こえなかったことはほとんどない。初めは気になったその音も、慣れてしまったのか、しだいに意識しなくなっていた。
「おい、これを見てみろよ」
 ある朝、トオルが何かがプリントアウトされている紙を、タツヤに差し出した。
「なんだよ」
 手にとってみると、どうやらパソコンで作った新聞のようだった。
 名づけて、「トオルスポーツ」。
 A4サイズ四ページ。一試合一ページずつで三試合分のっているから、それで三ページ。残りの一ページには、チームや選手の記録までがのっていた。
「広島、ヤクルトをひとのみ」
「坂本、二試合連続の四号スリーラン」
「藤波、完封で三勝目」
 各ページには、赤や青のスポーツ新聞風のはでな見出しがついていた。ここでも、カットや見出しの飾りに、トオルのイラストの腕がいかんなく発揮されている。
「すげえなあ」
 タツヤは感心して、「トオルスポーツ」を読んでいった。

 「トオルスポーツ」は、ほぼ二日に一回の割合で発行されるようになった。
 タツヤは、その新聞のたった一人の熱心な読者になった。
「こんな凝ったイラストを描くんじゃ、けっこう時間がかかるだろう」
「いや、絵を描くのは好きだからそれはなんてことないんだけど、見出しや記事を書くのがけっこう難しいんだ。なかなかいい文章が思い浮かばなくて、すごく時間がかかっちゃう」
「ふーん、そんなものかな」
「本物の新聞社では、記事はそれを書く人が何人もいて、見出しは見出しで専門の人が考えているらしいよ」
「へー、すげえなあ」
「特に、スポーツ新聞の一面の見出しは、売り上げにすごく影響するんだって」
「トオル、おまえはどうやって見出しや記事を書いているんだよ」
「スポーツ新聞を参考にしたり、インターネットのニュースを調べてたりしてるけどな」
「けっこう大変なんだな」
 学校にいる時は、試合を消化するだけでせいいっぱいなので、文章や見出しを考える暇はない。たったひとりの読者であるタツヤと自分自身のために、トオルはトオルスポーツを家で一からパソコンで作っているのに違いない。あのガランとした部屋で、たった一人で作業をしているトオルの姿が頭に浮かんできた。
どうやらトオルは、学校でも家でも、ほとんどすべての自分の時間を、セントオルリーグにささげているようだった。
 それ以来、授業中には、トオルがセントオルリーグの試合をやっている間、タツヤも授業をさぼって「トオルスポーツ」を読みふけるようになった。

 七月の始めの月曜日だった。
 その朝、タツヤが登校すると、めずらしくトオルが先に来ていなかった。いつも遅刻ギリギリのタツヤと違って、トオルは十五分前には登校している。
 始業のベルが鳴り、クラスのみんなが席についても、トオルは現れなかった。今までに、一度も遅刻も欠席もしたことがなかっただけに、タツヤはちょっと気になった。
(風邪でもひいたかな?)
 金曜日に別れた時には元気そうだったから、週末に体調を崩したのかもしれない。
 その日一日、タツヤはうしろの席からあのシャーという音が聞こえないので、何だか少し物足りない気分だった。
 けっきょく、トオルはその日は学校には来なかった。
 学校が終わると、タツヤは、
(トオルの家へお見舞いに行ってみようかな)
と思った。
 でも、一日だけの欠席でそれも大げさなように思われた。
(明日まで待ってみよう)
と、その日はそのまま自分の家に帰った。

 トオルは、翌日も登校しなかった。そして、朝のホームルームの時に、担任の青井先生がその理由を明らかにしたのだった。
「急なことですが、このクラスの福井くんが、おとうさんの仕事の都合で転校することになりました」
 突然のことに、クラスのみんなはザワザワし始めた。
 タツヤは、思わず席を立っていた。
「先生、いつからですか?」
「それが、昨日からなんだ」
 先生も、当惑した表情をしていた。
「うそーっ!」
「えーっ?」
 他の生徒たちも、びっくりしてさわいでいる。
「どこへ行ったんですか?」
 タツヤが、またたずねた。
「タツヤーっ。大事なカレシなのに、知らないのかあ?」
 誰かがやじったので、クラスの人たちはドッと笑った。
「うん。それは、先生にはちょっと……」
 青井先生は、口ごもってしまった。生徒の個人情報は漏らすことはできないのだろう。

 その日一日中、タツヤは学校中をまわって、トオルの転校の理由を聞いてまわった。
 まずクラスの情報通たちに、話を聞いてみた。
 でも、トオルがいなくなった事情を知っている者はいなかった。ただ、それを探るためのいい情報は得られた。別のクラスに、トオルと同じマンションに住んでいる生徒がいるというのだ。
 休み時間に、タツヤはその生徒の教室にいってみた。
 タツヤは、入口の所にいた男子生徒に、その生徒を呼んでもらった。
 その子は、おしゃべりそうな女子生徒だった。
「あの、福井くんのことなんだけど、……」
 タツヤがそう切り出すと、なんだかうれしそうに自分から話し出した。どうも話したくてうずうずしていたみたいなのだ。
「おとといの日曜日に、急にトラックが来て、マンションを出ていったのよ」
 女の子は、そう話を切り出した。
「福井くんのおとうさんの仕事がいきづまっちゃって、前に住んでいた家も手放したらしいよ。暴力団みたいな人たちが時々来て、部屋の前で大声で怒鳴っていたみたい」
(なんでそんなことまで知っているんだよ)
って、気がしたけれど、タツヤはだまっていた。
「福井くんの両親って、去年離婚しちゃったんだって。一緒に住んでた女の人は、おとうさんの愛人なんだってさ」
 女の子は、そんな聞いてないことまでしゃべっていた。
 タツヤには、その話のどこまでが本当で、どこからがデマなのか、はっきりしなかった。
ただ、青井先生に確認したところ、トオルの父親から、昨日、学校へ電話で連絡があり、転校届も今日になって速達で送られてきたことだけは事実のようだった。

 その日の授業が終わるとすぐに、タツヤはトオルのマンションへ行ってみた。
 エレベーターに乗って、トオルの家のある七階までまっすぐにあがった。
 家の前まで行くと、「福井」の表札はまだドアの上の壁についたままになっていた。
 タツヤは、ドアのノブに手をかけてみた。
 動く。かぎがかかっていなかったのだ。
 タツヤは、そっと中に入ってみた。
 家の中は、めちゃくちゃに散らかっている。冷蔵庫、テレビなどのめぼしいものはほとんどなくなって、ガランとしていた。
 でも、食器類や本などは、部屋のすみに残されたままになっている。よほど急いで出ていったのに違いない。
 タツヤは、トオルの部屋にも入ってみた。
 トオルと一緒に見た大型液晶テレビもブルーレイレコーダーもノートパソコンもプリンターも、もちろん今はない。例の灰色の事務机だけが、ポツンと残されていた。
 タツヤが近づいてみると、机の上に写真立てがふせたまま置かれていた。
 手にとってみると、トオルは相変わらず犬に顔をなめられてくすぐったそうに笑っている。
 タツヤは写真立てを持ったまま、部屋を出ていった。
 小便くさいらくがきだらけのエレベーターで下へ降りながら、
(タツヤはなぜあの犬との写真を置いていったのだろうか)
と、考えていた。
 古ぼけたエレベーターは、一階でガタンととまった。

 トオルが引っ越ししてから、二週間がたった。
 その日、タツヤは、トオルからの初めての手紙を受け取った。
 住所は書いてない。消印は大阪になっていた。
『やあ、タツヤ。元気か。
 おれも元気だ。こっちに着いてから、もう一週間になる。関西は、ダサイやつらばかりでつまらん。
 でも、「セントオルリーグ」では、相変わらず熱戦が続いている。ようやく各チームとも半分の七十試合ずつが終了した。いぜんとしてヤクルトがトップだ。もう興味ないかもしれないけど、「トオルスポーツ」の最新号を同封した。
 それじゃ、また。
    『セントオルリーグ』のコミッショナーにして、
    『トオルスポーツ』の敏腕記者、
                    トオルより』
 封筒には、小さく折りたたんだ「トオルスポーツ」のコピーが入っていた。
『根尾、連発。大野、巨人を二安打完封』
 相変わらず、いせいのいい文字がおどっている。
「あいつ、なんてやつなんだ。『セントオルリーグ』なんか、まだやってやがって、……。」
 タツヤは、「トオルスポーツ」をにぎりしめながら、そうつぶやいた。

       

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