ホールデン・コールフィールド(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)の主人公)が、初めてサリンジャーの短編に登場した記念碑的な作品です。
実際、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の第1章(成績不振で退学になった高校に一人で別れを告げるシーン)、第2章(彼に落第点を付けた歴史担当の老先生を訪ねるシーン)、第21章(家への帰着と妹との再会のシーン)、第22章(妹との会話のシーン)の下書きと言える内容です。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は全部で26章から構成されているのですが、「アイデンティティの喪失で学校から去り」、「妹との会話からそれを回復するきっかけをつかむ」というのがごく大ざっぱな流れなので、この短編はその始まりと終わりに関するアイデアが浮かんだ段階なのでしょう。
この短編が発表されてから、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が出版されるまでの6年の間に、ストーリーは肉付けされ、再構成され、洗練されていきました。
作者は、この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」第22章で、ホールデンに、自分がなりたいものについて、妹のフィービーに向かってこう語らせています。
以下は野崎孝の訳によります。
「とにかくね。僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているところが目に見えてくるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない - 誰もって大人はだよ - 僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖の縁に立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。 - つまり子供たちは走ってるときにどこを通ってるなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して来て、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」
この短編には、まだここの部分はありません。
このセリフをつかまえるために、6年をかけてストーリーを肉付けし再構成し洗練させたと言ってもいいかもしれません。
そして、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の記事にも書きましたが、私自身がなりたいものも「ライ麦畑のつかまえ役」のようなものだったのです。
今回、この短編を読み直してみて、ホールデンが別れを告げにいく老先生が60代(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では70代)と書かれているのを読んで、ある感慨を持たざるを得ませんでした。
初めてこのシーンを読んだときは、私はホールデンに近い年齢でしたので、完全にホールデンに同化して読んでいました。
今回は、私自身はもう老先生に近い年齢になっているのにもかかわらず、どうしてもホールデンと同化しようとしている(かなり無理がありますが)自分に気づいてしまったのです。
それは、今でも自分がなりたいものが(もう残された時間はあまりありませんが)、「ライ麦畑のつかまえ役」のようなものだからなのかもしれません。
サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉 | |
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