現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

森忠明「こんにちわ するめすぺしゃる」こんなひとはめったにいない所収

2017-10-17 10:31:32 | 作品論
 今度は、おばあちゃんにあてた手紙の形式を取った作品です。
 おばあちゃんの病気、近所の火事などがあまり脈絡なくずらずらと書かれていきます。
 こういう作品を、年少の読者に向けてなぜ出版したのでしょうか?
 こんな時、児童書の出版社の編集者の仕事に、大きな疑問を感じてしまいます。
 今でも、編集者という仕事は、文学部などの学生にかなり人気があるようです。
 その大きな理由が出版社の給与がいいことですが、これについてはかねてから私は大きな疑問を持っています。
 クリエイターである作者や画家は、特に純文学やエンターテインメント以外の児童文学に携わっている人たちは、私の知る限りでは信じられないほどの低収入に甘んじています。
 ところが、彼らと読者の間にいる出版社や取り次ぎや書店に努めている正社員の人たちは、そうじて作家たちよりはるかに高収入なのです。
 これでは、学生たちが作家でなく編集者になりたがるのも無理はないでしょう。
 どう考えても、本(特に児童書)の収益の分配の仕組みがおかしいとしか思えません。
 日本児童文学者協会や日本児童文芸家協会など関係団体が、もっと作家の立場を強くするために活動しなければいけないのではないでしょうか。
 どうもそれらの組織の代表者たちので実務能力が、出版社の経営者たちより劣っているとしか思えません。
 また、児童文学の世界では、生活がかかっていない大量の主婦作家の存在も、この問題の足を引っ張っているように思います。
 彼女たちは本を出すことが最終目的で、その出版が一方的に出版社側に有利な劣悪な契約条件でもぜんぜん平気なので、いつまでも状況は好転しないのです。
 早く書籍の電子化が進み、書き手と読者がダイレクトにつながるようになって、出版社などの中間搾取層が少なくなる(完全にはなくならないでしょうが現状よりは良くなるでしょう)日が来ることを祈るばかりです。


こんなひとはめったにいない (幼年創作シリーズ)
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童心社
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井辻 朱美「4人のジャパネスク・ネオ・ファンタジー女流作家たち ―小野不由美を中心に」日本児童文学の流れ所収

2017-10-17 10:28:56 | 参考文献
「現代日本の人気ネオ・ファンタジー作家といえる人たち、荻原規子、上橋菜穂子、梨木香歩、小野不由美らを取り上げ、どこが新しいのか、おもしろいのか、翻訳ファンタジーからの影響も含めて考えてみたいと思います。」と初めに掲げられています(湯本香樹実と森絵都にも少し触れています)。
 内容はその通りなのですが、大半が彼女たちの作品のあらすじを述べているので、すでに読んでいる人には退屈ですし、読んでいない人にはネタバレで迷惑だったでしょう。
 そこから、どこが講師にとって新しく面白かったのかを拾ってみると、以下のようになります。
1.作品の舞台がほとんどが現代の日本でではなく、外国だったり、過去だったり、創作した世界(といっても、本当はいくつかの国(アジアや中東のことが多い)を混ぜ合わせているだけなのですが)だったりする(読者にとっては、目新しさを生み出していると思われます)。
2.先行して翻訳された作品(特に英米児童文学や中国文学でしょう)の強い影響を受けている(1と反するようですが、どこか既視感があって安心して読み進められます)。 
3.死の世界、死後の世界が大きなテーマになっている(講師も述べているように、現代の子どもたちにとって「死」はなじみのないものになっているので、それゆえ恐怖対象であり、知りたいという欲求も強いでしょう)。
4.3とも関係するのですが、現実の閉塞した状況に対して、スピリチュアルな世界の論理で支配された世界を構築している(講師は触れていませんが、現代の若い女性の閉塞感は特に強いものと思われます。あるいは、講師も女性ですし聴衆も図書館関係者で女性が多いでしょうから、別に言わなくても暗黙の了解があるのかもしれませんが)。 
5.従来のファンタジーのように、第一世界(現実世界)と第二世界(空想世界)の「行きて帰りし」ファンタジーではなくて、第二世界(空想世界)へ「行ったきり」ファンタジーになっている。
6.第一世界(現実世界)に対する第二世界(空想世界)を設定し、そこに第三世界(霊界、天上界)がさらに接していて、純粋な第二世界のみのお話ではなく、第二世界にとっての異界である第三世界との交流と帰還を描いている(それによって、読者は第二世界と第三世界を等価に眺められ、スピリチュアルな第三世界をよりリアルに体験できるとしています)。
 以上はその通りなのですが、なぜこれらのような作品がその時期に生み出されるようになり、それが読者に非常に受け入れられるようになったかを、講師も少し触れているジェンダー観の変化をからめて考察してほしかったと思いました。
 なぜなら、取り上げられた六人の作家はすべて女性ですし、おそらく大半の読者も女性(児童文学のコアな読者である女の子たちだけでなく、初めは若い世代から今ではより広範な年代の女性たちになっているでしょう)だと思われます。
 それらを考察するためには、これらの作品が生み出された時代の社会背景(特に女性の社会進出や結婚観など)や児童書のマーケットの変化についてきちんと把握することが必要でしょう。

 
ファンタジーの魔法空間
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岩波書店
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安藤美紀夫「星にいった汽車」でんでんむしの競馬所収

2017-10-16 10:12:32 | 作品論
 この作品でも、現実と空想の世界は、ほんの紙一重のところに存在し合っています。
 小学校四年生のデベソとキンは、その日もいつものように遅い夕食を待ちくたびれて、腹をすかして線路下の土手に寝転んでいました。
 彼らに限らず露地の子どもたちは、そばの山陰線を通る汽車と話をすることができます。
 いつもは「連れて行って欲しい」という子どもたちの願いを、汽車はあっさり断って通り過ぎるだけです。
 しかし、その日に限って、貨物列車は露地の横に停車して、二人を一番星へ連れて行ってくれます。
 終点の星の世界には、露地と違って食べ物屋がたくさんあります。
 でも、一文無しの二人にはどうすることもできません。
 そのうちに、片腕の男にだまされて、無銭飲食の片棒を担がされて、交番に突き出されてしまいます。
 作者は、この作品でも、詩的な表現を多用して美しい星の世界を走る汽車を描いて見せます(宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の影響があるかもしれません)。
 その一方で、食べる物にも事欠く貧困、働くことに疲れ切って子どもたちの面倒を見ることができない親たち、戦争の傷跡(片腕の男は、戦争で右腕を失いました)、警察官による朝鮮人差別(キンはおそらく金で、朝鮮人の子どものようです)といった戦時中の現実も描いていて、その対比が鮮やかです。
 現在の子どもたちも、彼らと同様に、貧困やネグレクトの問題に再び直面しています。
 しかし、当時と違うのは、あの時代にあった子どもたちのコミュニティが、すでに崩壊していることです。
 キンは、小柄で非力なために貨車によじのぼれないデベソを、その強い腕で引き上げてやります。
 デベソは、自分には優しいのに朝鮮人のキンは差別する警察官の前で何もできない自分を、「なみだの目でキンを見ながら、きゅうに、じぶんが、この世の中でいちばんみじめな子どもになったような気がしました。」と、責めています。
 こんな友だちが一人でもいれば、今の子どもたちも、どんなつらい状況でも乗り越えることができるでしょう。


でんでんむしの競馬 (1980年) (講談社文庫)
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講談社
 
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宮川健郎「『童苑』学徒出陣号をめぐって ― 現代児童文学の遠いみなもと」現代児童文学が語るもの所収

2017-10-16 10:11:44 | 参考文献
 「童苑」というのは、かつての早大童話会の機関誌で、学徒出陣号というのは、戦中に発行された最後の童苑(戦後にも発刊され、「少年文学宣言」(正しくは「少年文学の旗の下に」(その記事を参照してください))以降は「少年文学」に誌名が変更されています。
 当時(戦後も1960年代までは)の早稲田大学は児童文学界の中心であり、この学徒出陣号にも、前川康男、竹崎有斐、今西祐行、など、その後児童文学界で活躍する人々が名を連ねています。
 この論文の前半はやや書誌学的で、この号の内容や成立について詳しく述べられています。
 後半は、その中の前川康男の「夜汽車の話」を取り上げ、戦後に書かれた前川の代表作である「ヤン」や「魔神の海」と結びつけて、「少年文学宣言」以降の「現代児童文学」の「遠いみなもと」をそこに見ようとしています。
 しかし、この論の進め方には、かなり無理があるように思います。
 むしろ、前川たちの早大童話会(その後少年文学会に名称が変更されました)の後輩である古田足日、鳥越信、神宮輝夫、山中恒たちによって発表された「少年文学宣言」は、それまでの早大童話会の活動を激しく批判することから始まったわけで、そのために彼らと袂を分かったそれより上の世代の早大童話会のメンバーは、その後しばらくしてから「現代児童文学」の流れに合流したと考える方が自然でしょう。
 私は彼らの末裔にあたる「早大児童文学研究会」で児童文学を学んだのですが、2011年に当時の現役部員たちがまとめた「早大児文サークル史」(その記事を参照してください)に、「少年文学宣言」後の少年文学会の様子が詳述されています。

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
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日本放送出版協会
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僕のワンダフルライフ

2017-10-15 18:24:31 | 映画
 主人公の犬が、何度も生まれ変わりながら、最初の飼い主に幸せをもたらすというハッピーストーリーの映画です。
 最初は産まれてすぐに野犬捕獲員に捕まって短い生涯を終えた主人公が、その後四度も生まれ変わって、最後には孤独な初老の男性だった最初の飼い主にめぐり合って、彼の高校時代の恋人(二人の孫がいますが、配偶者はすでに亡くなっています)と引き合わせて結婚させます。
 ストーリー自体は、ご都合主義やドタバタ劇の連続の他愛のないものです。
 見どころは、なんといっても犬の視点を生かした映像の美しさと、生まれ変わった犬がどれも特徴的で魅力的なことでしょう。
 最初の生まれ変わりはゴールデン・リトリバーで、賢く飼い主思いです。
 二番目はジャーマン・シェパードで、優秀な警察犬で、飼い主の身代わりになって殉職します。
 三番目はコーギーで、究極の癒し犬で、ここでも恋のキューピッドになって、飼い主に幸せな結婚や子どもたちをもたらします。
 四番目は雑種で、心無い飼い主に捨てられますが、ふとしたことから最初の飼い主に巡り合って、持ち前の飼い主思いの本領を発揮します。
 また、飼い主の方にも様々な人種を配していて、巧みにアメリカ社会を反映しています。
 最初の飼い主は白人の八歳の男の子で、成長してからは高校のアメリカン・フットボール・チームのクォーター・バックになって活躍しますが、妬みによる放火で怪我をして大学の奨学金も失い、恋人とも別れます(さらに、父親は酒で身を持ち崩して、離婚して家を出ます)。
 二番目はヒスパニックの優秀な警察犬担当の男性ですが、愛する人と別れていて孤独です。
 三番目は裕福な黒人の女子大学生ですが、人見知りで大学では孤独でした。
 四番目はいわゆるプアー・ホワイトのカップルで、生活には全く余裕がありません。
 時代背景も、1961年から現代までの長期間なので、その間のアメリカの世相の変化をさりげなく描いています。
 私は最初の飼い主とほぼ同世代なので、バックに流れる音楽やアメリカの風俗を懐かしい感じで味わえました。
 この映画は、犬の姿を借りた成長物語(何度も生まれ変わりますが、意識や記憶は引き継がれています)で典型的なハッピーエンドなので、妙な言い方になりますが非常に児童文学的な作品でした。
 

A Dog's Purpose (Blu-ray + DVD + Digital HD)
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Universal Studios Home Entertainment
 
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村上しいこ「図書室の日曜日」

2017-10-15 11:21:39 | 作品論
 日曜日でお休みの図書館で、本たちやその中の登場人物たちが動き出します。
 この手のお話は、アンデルセンの「なまりの兵隊」やアニメの「トイストーリー」など、すでにたくさんあって特に新味はありません。
 また、古今東西の本の登場人物や妖怪がたくさん出てくるのですが、対象と思われる幼年の読者には、予備知識がなくてあまり面白くないと思われます。
 児童文学者の宮川健郎は、「「声」をもとめて」という論文で、村上しいこの作品群を「ナンセンス文学」として以下のように述べています。
「ことばを連ねても意味が積みあがらないのがナンセンスの世界だ。ナンセンスは、ことばによって律儀に意味を積みあげ、その結果、主人公が成長するという枠組みの中で書かれることが多かった現代児童文学からの「自由」の獲得ともいえるだろう。子ども読者にとっては、ことばの秩序に縛られた日常からの解放につながるだろう。」
 しかし、この作品では、言葉や登場人物(?)が良く吟味されておらず、単なる思いつきのように感じられました。
 おそらく「村上しいこ」ブランドで、編集者も無批判に本にしているのでしょう。
 そんな単調な作品を、ここでも田中六大のレトロなタッチの挿絵がだいぶ救っています。
  
 
図書室の日曜日 (わくわくライブラリー)
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講談社
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宮川健郎「童話の系譜」日本児童文学の流れ所収

2017-10-15 11:19:31 | 参考文献
 講師は、散文・説明的なことばで書く現代児童文学に対して、詩的・象徴的なことばで心象風景を描くものを「童話」と定義しています。
 小川未明、宮沢賢治、立原えりか、安房直子、斎藤隆介、あまんきみこ、江国香織など、大正期にはじまり現代につづく、「童話」の系譜をたどって、その思想と方法について考えるとしています。
 最初に、講師が現代の代表的な童話作家(教科書に取り上げられている作品数が断トツに多いそうです)だとする、あまんきみこのデビュー作「車のいろは空のいろ」(1968年)を取り上げています。
 そして、現代児童文学を代表する論客である古田足日の評価(「現代のファンタジィを(1)」〈児童文学時評〉『学校図書館』1968年7月号初出/古田足日『児童文学の旗』理論社(1970年)所収)を紹介しています。
「あの本の作品はすべて長編の出だしだと思った」
「くましんしのイメージは新鮮だが、タクシーの運転手がそのくまと出あう、という創作方法はどうなのか。連続する人生の一部を切り取り、人生の一断面をのぞかせる、というこの方法は、過去の童話の方法であった。」
「くましんしに出あうのは物語の発端であり、そこから「何か事件がはじまるべき」なのである。そして、その物語の展開の中で、くましんしのイメージはより豊かに、よりあきらかになっていくはずだ。」
 ここには、あまんきみこの童話性と現代児童文学の思想の対立があると、講師は述べています。
 他の記事にも書きましたが、1950年代の「童話伝統批判」は、現代児童文学の成立に大きく寄与しました。
 その「童話伝統批判」は、古田足日も所属する早大童話会「『少年文学』の旗の下に!」(「少年文学」1953年9月)によって、口火が切られました。
 講師は、彼らの「童話伝統批判」をささえた問題意識は、詩的・象徴的なことばで心象風景を描く「近代童話」では子どもをめぐる状況(社会)を描くことができないので、散文的・説明的なことばで描く「現代児童文学」が必要になったとしています。
 一般的には、1959年に、佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」の、いずれも小人の登場する長篇ファンタジーが出版されてから、現代児童文学は成立したとされています。
 講師は、それらが「戦争体験が下じきになっている」と指摘して、当時の新しい書き手には、共通体験としての戦争があり、それを描くことが共通テーマだったとしています。
 それはその通りなのですが、そこから「戦争」を描くために、「現代児童文学」では散文性の獲得が必要だったとする講師の意見には、論理の飛躍があるように思われます。
 まず、講師自身が小川未明の例をあげているように、「戦争」を描く方法としては、必ずしも散文・説明的なことばで書く「現代児童文学」の長編だけではなく、詩的・象徴的なことばで描く「童話」の短編(今西祐行「ひとつの花」など)でも可能です。
 次に、「童話伝統批判」が行われたころの1950年代の社会状況(労働組合結成、労使対立、60年安保闘争など)を考えると、彼らが「現代児童文学」が描きたかったものは、「戦争」(実際には「反戦平和」と言った方が正しいでしょう)よりも、「階級闘争」の方が強かったのではなかったのではないかと思われます。
 なぜなら、講師自身が整理している「現代児童文学」の問題意識のひとつである「変革の意志」は、明確に「社会の変革につながる児童文学をめざす」としていて、その作品としての最初の結実は、前述の早大童話会のメンバーであった山中恒の「赤毛のポチ」(労働組合結成も描いてます)だったからです(関連する記事を参照してください)。
 しかし、この路線(社会主義的リアリズムと呼んでいます)は、その後の山中恒の離脱などもあって行き詰まり、「現代児童文学」が描く主な社会状況は、1960年代に入ってから講師が指摘するような反戦平和(「戦争児童文学」)などに変わっていったと思われます。
 ただし、詩的・象徴的なことばで描く「童話」が長編に向いていなくて、長編を書くためには散文・説明的なことばで書く「現代児童文学」が必要だったという講師の指摘はその通りだと思います。
 講師は、現代童文学のなかの童話の系譜として、ここでも古田足日の言葉を紹介しています。
「彼女たち三人(あまんきみこ、安房直子、立原えりか―講師註)は、ぼくの見方では小川未明の正統な後継者である。」(古田足日「あまんきみこメモ」(「国語の授業」1986年2月)。
 そして、講師は
「未明は古田さんが「さよなら未明」といった人なのですから、「正統な後継者」というのは古田さんにしてみればいささか複雑な思いで眺めた人たちではないかと思います。」
と、述べていますが、この意見には異論があります。
 他の記事にも書きましたが、この時点で古田足日はすでに優れた「童話」(小川未明も含めて)が「現代児童文学」ではカバーできない領域を補完するものであることを正しく認識しています。
 ただし、それは「童話」という形式そのものを全面的に認めたわけではなく、「童話的資質」(おそらく古田足日は自分にはない資質だと思っていたはずですし、もちろん私にもありません)に恵まれた人の作品には、「子ども(人間)の深層に通ずる何かを持っている」と考えていたのです。
 それが、あまんきみこ、安房直子、立原えりかを小川未明の正統な後継者として認めたり、今西祐行の作品を積極的に評価することにもつながっているのではないでしょうか。
 おそらくこれは、実際に「童話」や「現代児童文学」を創作したり、同人誌などでそれらが創造される現場に立ち会わないと、実感できないと思われます(三十年間以上たくさんの児童文学の書き手と交流してきましたが、「童話的資質」の持ち主はその中のほんの数人です)。
 講師は、その他の現代児童文学における「童話」の担い手として、斎藤隆介、江國香織をあげていますが、斉藤隆介はその通りだと思いますが、江國香織は典型的な現代の小説家だと思っているので、ピンときませんでした。
 ふたたび、あまんきみこに戻って、
「「車のいろは空のいろ」には、日常世界の秩序にダブって、「何かちがったもの」が顔をのぞかせる、めまいするような、〈もうすこしでハンドルをきりそこなう〉(「くましんし」)ような一瞬が切りとられている。『車のいろは空のいろ』は、「日常」という時が翳る、その瞬間をつかまえ
ようとした連作集ではないか。(宮川健郎「時の翳り―あまんきみこ『車のいろは空のいろ』再読」、宮川健郎「国語教育と現代児童文学のあいだ)所収)」
と、自身の論文を引用して、宮沢賢治の作品を連想するとしています。
 そして、佐藤さとるが宮沢賢治を否定的に評価していたこと(佐藤さとる「ファンタジーの世界」(1978年))を紹介して、同じ不思議な世界を描いた作品でも「童話」と「現代児童文学」では違うことを述べています。
 しかし、佐藤さとるは、ここでは、「童話」と「現代児童文学」というよりは、「メルヘン」と「ファンタジー」と言う形式の違い(詳しくは関連する記事を参照してください)を述べている(佐藤さとるはファンタジー側の人間なので、とうぜんそちらの視点で眺めています)にすぎないと思われます。
 最後に、講師は、「現代児童文学の成立と「声」のわかれ」という非常にロマンチックな呼び方で、石井桃子の「子どもから学ぶこと」(「母の友」1959年12月号)というエッセイ(出版されたばかりの佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」を、読み聞かせにむかないと批判しています)を紹介して、「近代童話」から「現代児童文学」へ移行する際に、読者の読み方が音読から黙読へ移行して、読者対象も幼い読者から十代の読者へ児童文学の読者層の中心が移動したと述べています。
 それは、講師も指摘しているように、日本の児童文学界評価する作品が高学年向けに偏重しているにすぎなくて、実際には夥しい数の幼年文学(幼年童話)は出版され続けています。

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
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日本放送出版協会
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丘修三「こおろぎ」ぼくのお姉さん所収

2017-10-14 18:08:28 | 作品論
 養護学級に通う知恵遅れ(現在ではこの言葉は差別的なので、代わりに「知的障害」という用語が使われていますが、この本が出版された1986年当時では、少なくとも子どもたちや一般の人たちには使われていたのでしょう)の少年と、近所に住む小学生の兄妹との交流を描いています。
 本当は妹が引き起こした空き地でのボヤ騒ぎが、コミュニケーションが取れないために知的障害の少年のせいにされてしまいます。
 その後、妹が告白して、少年の無実は証明されるのですが、その過程でいろいろな大人たちの論理や事情に振り回されて、少年と兄妹は苦い別れを経験させられます。
 大人の論理や事情によって、子どもたちが抑圧されている状況は今も変わりません。
 いえ、現在では少子化や格差社会によって、子どもたちを取り巻く状況はさらに悪くなっています。
 一例をあげると、子どもの貧困率は2012年には六人に一人を超えていて、戦争直後を除くと最悪です。
 児童文学研究者の宮川健郎による「現代児童文学」の三つの特長のひとつに、「子どもへの関心」があります(他の二つは「散文性の獲得」と「変革の意志」です」)。
 私自身も、児童文学を書くならば、「子どもの論理」、「子どもの立場」に立たなければならないと、一貫して固く信じています。
 そういった意味では、この作品は「大人の論理」や「大人の立場」のよって子どもたちが抑圧される姿はよく表されていると思われますが、その結末は情緒的すぎて、「子どもの論理」や「子どもの立場」を打ち出すところまではいっていないと思われます。
 80年代の「現代児童文学」としてはそれでも意義があったと思いますが、現時点で児童文学(それはポスト「現代児童文学」と呼べるかもしれません)を書くならば、「子どもの論理」で抑圧者である大人たちを撃つような作品が求められていると思います。

ぼくのお姉さん (偕成社文庫)
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偕成社
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村中李衣「色紙 ― 平田先生の場合の場合」小さいベット所収

2017-10-13 11:14:09 | 作品論
 他の作品と違って、小児科医一年生の平田先生の視点で書かれています。
 病室で一番小さいナオは、なかなか平田先生になつきません。
 子どもたちとやった「ショッピングごっこ」でも、ナオの作った色紙を丸めて作ったおだんごを買ってあげようとしますが、うまくいかずに大泣きされます。
 部長先生からは、「感情に流されないように」と注意を受けています。
 平田先生は色紙を使って、なんとかナオとの関係を良くしようとしますがうまくいきません。
 しかし、ようやく退院していったナオは、平田先生の誕生祝いに、取っておいた色紙を提供してくれていました。
 小児科病棟で苦闘する新米先生の姿がよく描かれていますが、他の作品と違って大人の視点で書かれたためか、子どもたちのとらえ方が表面的ですし、医師の姿がやや理想化されすぎているような気がしました。

小さいベッド (偕成社の創作(21))
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偕成社
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吉田 新一「十五年戦争期の絵本―My Choices」日本児童文学の流れ所収

2017-10-13 11:11:35 | 参考文献
 現在では、「アジア太平洋戦争」という呼び方が定着している戦争の、戦時中の絵本を紹介しています。
 決して、その当時を代表する絵本が網羅されているわけではなく、表題にもあるように講師の選択によって絵本が紹介されています。
 その選択とは、「満洲事変勃発から、アジア・太平洋戦争敗戦までの、いわゆる<十五年戦争期>に出版されて、時代の趨勢に流されることがなかった絵本を中心に、当時の模索する絵本の姿を追ってみることにします。」という趣旨によるものです。
 また、紹介の仕方も、聴衆(2005年に、国際子ども図書館で行われた、第二回児童文学連続講座のひとつです)とともに、絵本の実物を見ながら鑑賞するという形式だったようです。
 紹介された絵本及び作家や画家や出版社は、以下の通りです。

『ウタノヱホン:大東亞共榮唱歌集』朝日新聞東京本社 
 作詞・三好達治、西條八十、田中稔、古山省三、永倉直、砂川守一、
    百田宗治、與田凖一、池田嘉登
  絵・黒崎義介、横山隆一、耳野卯三郎、立野道正、清水良雄
『ニッポンノアシオト』百田宗治著/茂田井武畫 二葉書房 日本少国民文化協会作詞作曲
『ウミヘ』吉田一穂編/佐藤忠良畫 金井信生堂 
『ウシヲカフムラ』吉田一穗編/佐藤忠良畫 金井信生堂 
『ハナサキミノル』吉田一穂編/島田訥郎畫 金井信生堂 
『ウミノコドモ』大戸喜一郎詩/鈴木信太郎畫 大勝繪本杜 
『ヤマノムラ』國府貢一文/熊谷元一畫 教養杜 
『あの村この村』熊谷元一著 博文館 
『ヨイコノムラ』與田凖一詩/熊谷元一畫 農山漁村出版所 
『二ほんのかきのき』熊谷元一さく/え 福音館書店 
『たなばたまつり』 熊谷元一さく/え 福音館書店 (子どものとも 172号)
『かいこ』 熊谷元一ぶん/え 福音館書店 
『絵本信濃わらべうた』 熊谷元一絵・文  アリス館 
『ふるさとの昭和史―暮らしの変容』熊谷元一写真・文 岩波書店 
『山ノオモチヤ』瀧田要吉畫・謡 博文館 
『ムラノコドモ』渡邊哲夫文/佐藤今朝治畫 富士屋書店
『アフゲオホゾラ』徳永壽美子文/中尾彰装丁 正芽社 
  絵・長谷川毬子、川上四郎、林義雄、大石哲路、安井小弥太
<国民絵本>『海のこども』與田凖一詩/福與英夫、川島はるよ畫 博文館
<家庭絵本>『雪トコドモ』横井秋子詩 博文館 絵・広原長七郎、川上四郎、立野道正、金子茂二、川島はるよ、黒崎義介
『ペキンデミタコドモ』中尾彰畫と文 富永興文堂 『ジャワノヰナカ』小出正吾文/渡部菊二画 中央出版協會 
『フィリッピンの子供』石坂洋次郎文/鈴木榮二郎、野中勲夫、永井保画 岡本ノート出版部
『軍艦旗の行くところ:中南支海南島:童画報告』黒崎義介著 フタバ書院
『支那のこども』山本和夫作/高井貞二画 小學館 
『サルノアカチャン』近藤東文/彬全直畫 生活社 
『ブリアミ』藪田義雄文/安泰畫 中央出版協會 
『ツルノオンガヘシ』坪田讓治文/安泰画 中央出版協會 
『ハタラケハタラケ』サトウハチロー文/安泰畫 二葉書房
『たべるトンちゃん』初山滋作 金蘭社 
『ヒバリハソラニ』吉田一穗著/初山滋絵 帝國教育會出版部 
『店ノイロイロ』前島とも畫 博文館
『ムラノエウチヱン』西田稔文/川島はるよ画 正芽社
『童謠童画十五人選集』武井武雄編輯 鈴木仁成堂 
  詩・北原白秋、島木赤彦、百田宗治、浜田広介、サトウハチロー、水谷まさる、
    野口雨情、西條八十、巽聖歌、河井酔茗、多胡羊歯、サトウ・ヨシミ、
    葛原しげる、與田凖一、白鳥省吾
  絵・初山滋、鈴木信太郎、佐藤今朝治、黒崎義介、武井武雄、福與英夫、熊谷元一、
    川島はるよ、深沢省三、川上四郎、恩地孝四郎、小池巌、木俣武、
    村山知義、清水良雄
『ドウブツヱン』中山省三郎著/佐藤長生畫 帝國教育會出版部 
『カゼ』田崎春江文/秋吉秀彦画 綱島書店 
『コガモノタビ』奈街三郎文/藤澤龍雄畫 博文館 

 前述の趣旨にもありますように、「時代の趨勢に流されることがなかった絵本を中心に、当時の模索する絵本」が選ばれているので、戦時色のない(あるいは少ない)絵本が選ばれています(最初の絵本だけは、戦意高揚絵本の例として紹介されています)。
 戦時中にも、こうした芸術的であったり、生活記録として貴重だったりする良心的な絵本があったことを紹介しようとする講師の意図はよくわかるのですが、たまに出てくる戦時色の強い表現にも、作者たちの意図を好意的にとらえるフォローがいちいちなされていて、結果として当時の絵本作家たちの戦争協力に対して免罪しているようで、あまり好感が持てませんでした。
 また、冒頭で講師も触れているように、、当時は戦意高揚絵本が圧倒的に多かったわけですから、こうした「良心的」な絵本が、どういった位置づけで当時の子ども読者たちにとらえられていたかの説明が必要だった思われます。

絵本の魅力―ビュイックからセンダックまで
クリエーター情報なし
日本エディタースクール出版部
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村中李衣「ラッパ ― ようこの場合」小さいベット所収

2017-10-12 17:49:02 | 作品論
 小学校四年生のようこは、右ひざの手術で入院しています。
 おかあさんは妹が今年生まれ、おとうさんは九州に単身赴任中なので、なかなかお見舞いに来られません。
 同じ部屋の赤ちゃんのえみはよく泣きます。
 えみのベッドは、えみのママが毎日必ず新しいおもちゃを持ってくるので、おもちゃだらけです。
 ようこのベッドには、きりんの<ながなが>がいるだけです。
 看護婦たちの会話から、ようこは自分がもう歩けないものと思い込みます。
 しかし、太りすぎのために後から入院してきた順子ねえちゃんが、その誤解を解いてくれます。
 歩けないのは、ようこではなくえみだったのです。
 やけになったえみのママは、酒に酔って無断でえみを連れ出します。
 ようこは、順子ねえちゃんと一緒に病院を抜け出して、えみを探しに行きます。
 えみの好きなラッパを吹いて、なんとか二人を探し出して、無事に病院に連れ帰ります。
 こうして、三人の入院生活はまた始まりました。
 他者を理解することで、ようこは自分を見つめなおします。
 そのことで、今まで逃避していた自分の病気と向き合えるようになったのです。
 作者は、ある時は厳しく、ある時は暖かく子どもたちを見つめています。

 
小さいベッド (偕成社の創作(21))
クリエーター情報なし
偕成社
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神宮輝夫「子どもの文学の新周期 1945ー1960」日本児童文学の流れ所収

2017-10-12 17:47:26 | 参考文献
 2005年に、国際子ども図書館で行われた、第二回児童文学連続講座の講義録の冒頭の章です。
 講師は、1945年から1960年までを、日本の児童文学史の新しい周期として検討するよう提案しています。
 一般的に、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)は、講師も述べているように、1959年に佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」の二つの長編小人ファンタジーでスタートしたと言われています(講師は、リアリズム作品のスタートして、1960年の山中恒「赤毛のポチ」もあげています)。
 そのため、戦後の1945年から1959年までは、あたかも空白期のように取り扱わることが多いです(実際には、今も読まれている竹山道雄「ビルマの竪琴」、壺井栄「二十四の瞳」、石井桃子「ノンちゃん雲に乗る」(その記事を参照してください)といった大ベストセラーが三つもあるのですが、児童文学史上ではいずれも正当な扱いは受けていません。私のこのブログも、この時期は原則として対象外です)。
 講師は、この時期には、上記の三作品以外にも、優れた児童文学上の業績はたくさんあり、「現代児童文学」との関連も含めてもっと研究する必要があるとしています。
 講師が指摘している、この時期の主な業績は、以下の通りです。

1.翻訳の新しい風、
  新訳、古典翻訳の両方において、優れた業績(新しい作家の本が翻訳されたり、従来は英語やドイツ語からの翻訳が多かったのが母国語(例えば、アンデルセン童話はデンマーク語、「ピノッキオ」はイタリア語)からの翻訳がされたり、新しい研究による翻訳がされたりしました)がありました。

2.創作の新しい風
  推理、ユーモア、ナンセンス、ウィット、幼年ものなどの新しい面白さが追及されました。

3.長編と物語
  農山村の子どもたちの小説や童話、少年たちの冒険物語などをあげています。

4.ユーモア小説の開花
  戦中に下火になったユーモア小説が復活したとしています。

5.新しい時代に向かって
  「現代児童文学」への助走として、アンソロジーや同人誌に、従来の作家だけでなく、「現代児童文学」で活躍する新しい作家たち(前川康男、長崎源之助、大石真、いぬいとみこなど)が登場したとしています。

 以上により、講師は、「子どもの文学という形式を通じて自己を表現しよう」とする「現代児童文学」の流れだけでなく、「明治以来、書き続けられてきた子どもの文学は、基本的には、大人が、成長する子どもに向かって、成長に資するあらゆることを伝えようと努めた」とするこの時期までの児童文学の主流だった流れ、それに「ユーモア小説や少女小説など」などの流れを含めた複数の流れで、創作、研究、評論することを提案しています。
 講師の提案はしごくもっともなのですが、いくつか疑問もあります。
 講師は、このような断絶が起きた理由として、まず第一に「戦争直後でしたから紙不足は深刻で、ほとんどが仙花紙という非常に粗悪な紙で印刷もインクが上手く紙にのらない本がたくさん出ました。そういった作りの悪い本は、傷みがはやく、すぐにだめになってしまうおそれがあります。しばらくして、出版不況と戦後の熱狂が終わるとともに、あまり本が売れない状況が続く中で、自然に、戦後10年ほどの間に出た本は忘れられていきました。」という外的要因をあげています(これには全く異論はありません)。
 次に、「もう一つは、この文学観の変化にあります。子どもの文学という形式を通じて自己を表現しようとした作家たちにとって、在来の作品に見られる大人と子どものいる社会は、彼らには無縁だったのです。」としています。
 このことも事実ではありますが、意識してか無意識かわかりませんが、この文学観の変化に大きく寄与した二つの文学運動について全く触れていないのは納得がいきません。
 ひとつは講師自身も参加している早大童話会による「少年文学宣言」(1953年。正しくは、「少年文学の旗の下に」(その記事を参照してください))によって端を発した「童話伝統批判」の中で、この時期の児童文学の主流である「メルヘン」、「生活童話」、「無国籍童話」、「少年少女読物」のそれぞれの利点を認めつつもその限界を述べて、新しい児童文学(「現代児童文学」といっていいでしょう)の必要性が主張されました。
 もうひとつは、「子どもの本はおもしろく、はっきりわかりやすく」が、世界的な児童文学の基準だと主張とした「子どもと文学」(1960年。その記事を参照してください)ですが、そこではこの時期の児童文学作品は歯牙にもかけられていなくまったく無視されています。
 こうした二つの文学運動が互いに批判したり混じり合ったりして、「現代児童文学」の流れは出来上がっています。
 少なくとも、講師が提案されている二番目の流れ(「明治以来、書き続けられてきた子どもの文学は、基本的には、大人が、成長する子どもに向かって、成長に資するあらゆることを伝えようと努めた」)については、講師なりの「童話伝統批判」に対する総括がないと、素直には受け入れられません。
 三番目の流れは、現在の言葉で言えば「エンターテインメント」児童文学の流れと言うことになり、講師が提案するようにその流れを整理することは必要です。
 しかし、この流れに属するエンターテインメント作品は、ほとんどが消費財として扱われているので、時間とともに散逸していて、研究することは労多くして成果が少ないようで、研究する人がほとんどいないのが現状です。


世界児童文学案内 (1963年) (児童文学セミナー)
クリエーター情報なし
理論社

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記事の参照方法について

2017-10-11 14:11:00 | お知らせ
 記事がたくさんになるにつれて、それぞれの記事の中に、(XXの記事を参照してください)という記述がだんだん増えてしまいました。
 それは、同じ内容のことを繰り返して書くことを防ぐ(それでもかなり繰り返してしまっていますが)ためと、記事が必要以上に長くなることを防ぐために、記述しています。
 慣れていない方の参考までに、記事の参照方法を書いておきます。
 「現代児童文学」のページの右上に、「検索」という欄がありますので、そこへ、例えば、「現代児童文学」とか、著者名とか、本や論文の題名とかを記入して、その横の欄で必ず「このブログ内で」を選択してから、「虫眼鏡マーク」をクリックしてください。
 そうすれば、関連する記事がリストアップされますので、その中から必要な記事をお読みください。
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石田千「きなりの雲」

2017-10-11 13:56:12 | 参考文献
 エッセイストである著者の初めての長編で、芥川賞の候補になった作品です。
 主人公は四十すぎの独身女性で、恋人に振られて半年間食事もままにならないぐらいに落ち込んで体調を崩します。
 この作品では、主人公が周囲に癒されながら立ち直っていく姿を、丹念に綴っていきます。
 古いアパートの老人や赤ちゃんも含めた隣人たち、編み物教室の生徒たち、舞い戻ってくる元恋人、その元恋人が始めるレコードショップ、主人公の会社の先輩で個人商店をやっている夫婦、その妻の方の恋人で羊毛を作っている青年などの周辺の人物との触れ合いが、繊細なタッチで描かれています。
 この作品に漂うレトロな手作り感覚は、現代の高度資本主義社会のアンチテーゼとして機能して、そういった生活に疲れた読者たちに癒しを与えるのでしょう。
 しかし、登場人物(特に主人公と元恋人)の未成熟さは、その年齢を考えるとあまりにひ弱い感じがします。
 作者の作り上げた世界で庇護されている範囲では生きていけるかもしれませんが、これでは実社会ではとても成り立ちません。
 元恋人の開いたレコードショップはすぐに行き詰りそうですし(演歌も取り扱うことを匂わせていますが、この難しい商売への取り組み方は、別の記事で取り上げた「東京右半分」に出てくるこういったショップの人たちの苦労に比べてあまりに安易です)、主人公の危ういその日暮らしも長続きは難しいでしょう。
 それを典型的に表しているのが、小さなエピソードですが主人公と同じアパートにしばらく存在していた裏社会の人間たち(銃器などの密輸団と思われます)に対する主人公の考え方です。
 その人たちが礼儀正しかった(引っ越しのあいさつの品を持ってきた、盛り塩をしていた、きちんと挨拶をした、周りの清掃をきちんとしていたなど)というだけで、反社会的な勢力の人間たちに好意をもつというのは、四十過ぎの人間としてはあまりにも未熟で、その点だけでもこの作者の思想(懐古調で反動的)が透けて見えてしまいます。
 また、自分をふった元恋人との関係をずるずると復活させる作品の終わり方には、最近の未婚女性に現れているジェンダー観の揺り戻し(自立するよりも男性に寄りかかりたい)が感じられて好感が持てませんでした。

きなりの雲
クリエーター情報なし
講談社
 
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安藤美紀夫「手品師の庭」でんでんむしの競馬所収

2017-10-11 13:52:41 | 作品論
 作者の代表作(1972年に刊行されて、翌年の児童文学関連の賞を総なめにしました)である「でんでんむしの競馬」の巻頭作です。
「露地には、ときどき表通りにはおこらない、ふしぎなことがおこります。いまも昔も、ちょっと昔も、それは、すこしもかわりません。」
 冒頭のこの文章で、京都市内の山陰線の土手の北側にある露地を舞台にして、不思議なことが起こるお話であることが告げられ、この作品だけではなく、連作短編集全体の作品世界の性格付けがなされます。
 この作品世界には、作者が「でんでんむしの競馬」を出版する前の1968年に翻訳した、イタリアの作家イタロ・カルヴィーノ「マルコヴァルドさんの四季」の影響が色濃く感じられます。
 「マルコヴァルドさんの四季」のような作品世界は、ファンタジーア・レアルタ(イタリア語で空想・現実を意味して両者が混在した世界)と呼ばれていて、この作品はまさにそうした不思議な世界を、アジア太平洋戦争中(文庫版の解説(その記事を参照してください)を書いている長谷川潮によると1938年から1940年の間頃)の京都市内の露地において描いています。 
 露地の住人の女の子チョコと男の子ハゲは、いつも閉ざされている手品師の家(その路地では群を抜いて大きな家です)の庭に、かんぬきがかかていなかったために入り込みます。
 そこでは、光の手品師となのる若い男が見せるファンタージアの世界(春の日差しの中で無数のチョウが飛び回ったり、二人のポケットからとのさまがえるや金魚が出てきたり、男のシルクハットからたまご(当時はめったにお目にかかれない貴重品でした)やチョコレートやキャラメルやドロップスなどが出てきたりします)と、レアルタの世界(知らず知らずのうちに、前にそ手品師の家の住み込みだった若い男が空き巣をするのを手伝わされたために、二人の母親たちは警察に連れていかれます。夕方になってようやく放免された母親たちによって、二人は夕食ぬきで家からほうりだされます)が交錯する世界が、詩的な表現を多用した美しい文章で語られています。
 「散文性の獲得」による長編を目指した「現代児童文学」の運動の中で中心的な役割を果たしていた作者が、このような詩的な短編(限りなく童話の世界に近いでしょう)を書いたのは、非常にロジカルな「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)論者が、実は児童文学者の古田足日いうところの「童話的資質」(関連する記事を参照してください)に非常に恵まれていたことの証拠ではないかと思われます。

でんでんむしの競馬 (1980年) (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社
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