現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

尾崎英子「小さいおじさん」

2017-09-08 10:29:46 | 参考文献
 中二の時にクラスメートだった三人の女性が、クラス会をきっかけに再開した後の物語です。
 14歳だった中二のちょうど二倍の年齢である28歳の三人の女性の現在の姿が、それぞれの視点で章に分けて描かれています。
 美人で成績も一番いいが男にはずっと無関心だった女性は、建築関連の会社のキャリアウーマンになっていますが、同性愛をカミングアウトした兄とちょうどそれと同期して一人で酒を飲みに行って酔いつぶれるようになった母親への対応に悩んでいます。
 愛嬌があって男の子に人気があった女性は、職場の先輩と不倫をして会社を辞めざるを得なくなり、その相手が不慮の事故で亡くなったこともあって、実家でニートをしています。
 書いていて改めて気づきましたが、二人ともかなり強引な設定ですね。
 最後の中二のころは地味で成績も悪かった女性は、結婚して子どももできパートで働いていますが、友だちができないことが悩みです。
 対照的になるように狙っているのでしょうが、これはまた極端に地味な設定です。
 そして、これらの三人を結びつける存在が、地元の神社にいるという「小さいおじさん」という小人(妖精)です。
 それぞれの女性の描写はかなりうまく、職場や家庭の描き方もエンターテインメントとしてはリアリティがあります。
 また、スピリチュアルな題材は若い女性は大好きなので、対象としている読者にも受け入れやすいと思います。
 しかし、三人の人生の有機的な結びつきが弱いので、それぞれの視点で書かれた各章がバラバラな印象で、ひとつの小説としての完成度はあまり高くありません。
 また、三人の女性像も類型(中二のころは、優等生と人気者と地味でグループにも入れないその他大勢組、現在はキャリアウーマンと元不倫女性とパート主婦)を脱し切れていないので物足りません。
 そして、一番地味だった女性が平凡ながら幸せそうな現在を勝ち得ているように描く作者の姿勢も、読者(大半が中学時代はこの女性のような存在だったでしょう)に媚びているようで好感が持てませんでした。
 児童文学でも、複数の登場人物の視点で書かれた作品はありますが、よほど全体の構成を工夫しないと成功しないことが多いようです。

小さいおじさん
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文藝春秋
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グードルン・パウゼヴァング「追い込み猟」そこに僕らは居合わせた所収

2017-09-07 11:20:10 | 作品論
 十五歳の主人公は、村のナチス党最高幹部のおじに、追い込み猟に誘われます。
 しかし、追い込み猟の獲物は、雌のイノシシでも、雄のイノシシでも、熊でもなく、捕虜収容所から脱走したロシア兵だったのです。
 人を殺すことに逡巡した主人公は、おじに「「ヒトラーの子ども」だったら撃て」と強要されて、ついにロシア兵を撃ち殺してしまいます。
 主人公は、人を殺してしまったショックで雪の上に吐き、おじさんたちを残したままその場を立ち去ります。
 子どもたちにまで兵隊になって人を殺すように強要する当時の異常な状況を、過度に感傷的にならずに伝えています。
 ただ、その後の主人公の行動は留保されたままなので、あいまいな感じは残りました。
 こうした異様な状況は、過去の事でしょうか?
 いえ、今現在でも、アフリカや中東では、強制的に人を殺すことを命じられている少年兵たちがたくさんいるのです。
 また、遠い外国の話でしょうか?
 いえ、日本でも、アジア太平洋戦争では多くの少年たちが戦場に送られました。
 再びこのような状況に陥らないように、不断の努力をしなければなりません。
 

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶
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みすず書房
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宮川健郎「児童文学の中の「戦争」」現代児童文学の語るもの所収

2017-09-07 11:18:29 | 参考文献
 「「戦争児童文学」をこえて」という副題をもつこの論文は、いわゆる「戦争児童文学」の変遷をたどりながらその限界を論じています。
 ここでいう「戦争児童文学」は、日本児童文学学会の児童文学辞典によると、「反戦平和の願いを託した児童文学」ということで、主にアジア太平洋戦争を扱ったものです。
 「戦争児童文学」は、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)において重要な部分を占めていました。
 そこには、大きく分けて三つの理由があると思われます。
 まず、1950年代に「現代児童文学」がスタートした時の書き手は、すべてアジア太平洋戦争の体験者(実際に出征した者、空襲を経験した者、被爆した者、疎開を経験した者などの違いはあります)で、「戦争」が彼らにとって最も大きな児童文学のテーマであったことがあげられます。
 次に、「現代児童文学」が始まる前に書かれた代表的な「戦争児童文学」である壺井栄「二十四の瞳」、竹山道雄「ビルマの竪琴」は、文学的に優れベストセラーになって映画化もされましたが、「戦争の悲惨さを伝える」、「二度と戦争を起こさないようにうったえる」といった「反戦平和」の文学という面では弱いとされ、それを克服するような作品が求められていました。
 最後に、これはあまり表向きには語られないことですが、保守革新の対立状況であった1950年代後半から1970年代前半にかけては、「戦争児童文学」は比較的本になりやすかったこともあると思われます。
 著者は、まず父親の立場で戦争を語った例として、今西祐行「一つの花」(1953年)をあげて、自分自身の読書体験もふまえて、大人の視点で書かれている部分が多いので子どもが十分理解するのは難しいが、大人になって読み返すとその価値がわかる「二重底」になっているとし、そういった児童文学(子どもの時の理解は不十分でも、後になってより深く理解できる)も子どもに手渡すことは、大人の「愛」だとしています。
 しかし、そうした体験もさらに時代が進んで、周辺の大人も戦争を体験していない世代の子どもたち(1970年代後半以降に生まれた人たちでしょう)になると、戦争そのものがよくわからないために著者のような「二重底」の体験はできなくなるとしています。
 ここであげられた他の作品は、長崎源之助「あほうの星」(1964年)です。
 そうした状況で生まれてきた「戦争児童文学」が、虚構の中で「戦争」を描いて現代の子どもたちに出会わせる作品だとしています。
 先駆的な作品として、乙骨淑子「ぴいちゃあしゃん」(1964年)をあげて、他に松谷みよ子「二人のイーダ」(1969年)、三木卓「ほろびた国の旅」(1969年)、那須正幹「屋根裏の遠い旅」(1975年)、大石真「街の赤ずきんちゃんたち」(1977年)、わたりむつこ「はなはなみんみ物語」三部作(1980-1982年)、鶴見正夫「長い冬の物語」(1975年)、さねとうあきら「神がくしの八月」(1975年)、しかたしん「国境」三部作(1986ー1989年)をあげています。
 一方で、ベストセラーになった高木敏子「ガラスのうさぎ」(1977年)も、この時期の「自分史」(この作品の場合は空襲体験)的戦争児童文学の代表として紹介しています。
 しかし、このころに「反戦平和の願いを託した」戦争児童文学は臨界点に達したとし、「つちかってきた作品づくりの方法をどこかで踏襲している」「「戦争児童文学」という概念にしばられる」作品が多くなり、1980年代に入ってからは那須正幹「折り鶴の子どもたち ― 原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち」(1984年)や長谷川潮「死の海をゆく ― 第五福竜丸物語」(1984年)といったノンフィクション作品に「成果を見ることができる」としています。
 そして、著者は、「現代児童文学」が「戦争を書くこと」はやめないが、(反戦平和の願いを託した)「戦争児童文学」という枠組みは廃止しようと提案しています。
 一方で、長谷川潮などを中心に「戦争児童文学」の定義を見直し、好戦的な物も含めて、アジア太平洋戦争に限らない、広範に「戦争」を描いた作品に適用しようという動きもあります(その記事を参照してください)。
 著者は、いわゆる「戦争児童文学」ではないが、「きっちりと戦争が書かれていた作品」として、長崎源之助「向こう横丁のおいなりさん」(1975年)と安藤美紀夫「でんでんむしの競馬」(1972年)を紹介しています。
 また、戦争体験を伝承していくことを訴える作品として、後藤竜二「九月の口伝」(1991年)(その記事を参照してください)にもふれています。
 「戦争児童文学」の概要とその限界及び可能性についてうまくまとめられていて、おおむね著者の考えや提案には納得させられます。
 ただし、ここでも、対象は児童文学プロパーの作家の作品に限られていて、プロパーではないあるいは傍流の作家が書いた重要な作品(例えば、庄野英二「星の牧場」(1963年)、柏原兵三「長い道」(1969年)など)はまったく無視されています。


現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
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日本児童文学学会東京例会

2017-09-06 11:31:29 | 参考情報
 2012年7月14日に行われた日本児童文学学会の東京例会です。
 発表内容は、今回は二件ともに英米児童文学で私の研究分野とは違うのですが、それぞれ発表者の情熱が感じられて面白かったです。
 一件目は、エコクリティシズム(環境の観点から文学を批評する新しい方法)を用いてボストンとピアスの作品を再評価したもので、新しい評価法についての知見を得ることができ、おおいに刺激を受けました。
 二件目は、エイキンのダイドー・トワイトシリーズを中心にした音楽と児童文学についての研究す。
 音楽と児童文学の関係についてはそれほど突っ込んだ内容ではありませんでしたが、作品の細部にこだわった発表は、発表者がいかにこの作者の作品に情熱を持っているかが伝わってきて、好感が持てました。
 ただ、例会の進め方や発表の仕方については、改善の余地がかなりあると思いました。
 発表は、その場でワードで書かれた紙のレジュメが配られ、後は発表者が一方向で話し続けるという旧来の授業形式の方法でした。
 最後に質問の時間が若干とられているのですが、時間も短いし発表者と質問者の一対一の応答にとどまっていました。
 せっかくの発表なのでから。レジュメは学会のホームページに事前に掲載し、参加者が読んでから参加するようにしたらどうでしょうか。
 当日は、単なるオーラルコミュニケーションでなく、パワーポイントなどを使った資料をプロジェクターで映すなりしてビジュアルなプレゼンテーションにすれば、もっと参加者にアピールできると思います。
 また、参加者はレジュメをすでに読んでいることを前提に、もっとディスカッションする時間を設定すれば、参加者のみならず発表者にとっても、今後の研究にプラスになるのではないでしょうか。
 また、レジュメをホームページに記載すれば、当日参加できなかった他の学会員も読むことができます。
 さらに、費用や会場の制約はあるのですが、将来的にはネットミーティングや電話会議なども導入して地方在住の発表者と同じような研究をしている学会員もネットなどで参加できれば、議論はもっと活性化することでしょう。
 また当日の進め方ですが、司会者は単に進行係をするのではなく、記録をとりながら議論が活性化するように運営してもらいたいと思いました。
 例会というものは司会者の手腕によって面白くもつまらなくもなることを、長年の同人誌活動で体験してきました。
 また、発表の議事録を取っていないことも気になりました。
 学会活動の継続性や参加できなかった学会員のためにも、議事録は必ず作成してホームページに載せてもらいたいと思いました。
 これらを蓄積していけば、きっと貴重な資料になることでしょう。
 また、発表者は、英米児童文学研究者なので当たり前かもしれませんですが、作品の原書や未訳の作品も読めるわけですし、英語の発音の感じではおそらく留学経験もあるでしょうから、もっと現地の最新の研究状況を紹介してほしいと思いました。
 「日本」児童文学学会という閉じた世界でなく、もっとグローバルな研究の意義を意識してもらうと、発表の価値がもっと高まるのではないでしょうか。
 2017年の7月に、久しぶりに東京例会に参加してみました(内容についてはそれらの記事を参照してください)。
 発表者が若い研究者たちだったせいもあってか、プロジェクターもきちんと使われて、ビジュアルなプレゼンテーションはかなり進歩していました。
 しかし、会の進行方法などはあまり改善されていなくて、特に発表後の質問が私以外からはほとんど出ないのは相変わらずで、これではせっかく発表した研究者たちが気の毒です。

現代児童文学の可能性 (研究 日本の児童文学)
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森川成美「アサギをよぶ声」

2017-09-05 09:31:54 | 参考文献
 この作品を読んだ時に、二つのことが気になりました。
 ひとつは、大長編の出版方法です。
 この作品では一応のエンディングはあるのですが、続きの話があるような雰囲気もかなり濃厚に漂っています。
 今の出版状況では、分厚く高価な本(例えば、理論社の大長編シリーズのような)を出版することは難しくなっています。
 読書力のおちている現代の子どもたちは分厚く字数の多い本を敬遠しがちですし、高価な本は公共施設でも購入しずらいでしょう。
 しかし、分冊にして、一気にあるいは一定の期間をおいて、出版することは、出版社側のリスクが高いので、作者に全部の刊行をコミットできないかもしれません。
 そうした時には、まず一冊出して売れ行きを見るということが、よくなされます。
 売れた時は問題ない(幸いにこの本も続編が出版されました)のですが、売れ行きが芳しくない時は尻切れトンボに終わる危険があります。
 次に、古代を舞台にしたファンタジーの書き方の問題があります。
 この作品に限らず、作者たちから見れば、いろいろと制約の多い現代を舞台にしたリアリズム作品よりも、フリーハンドが得られるこういった作品の方が、のびのび書けるかもしれません。
 しかし、野放図にこのような世界を認めてしまうと、かつての無国籍童話のように根無し草の作品になってしまう恐れがあります。
 そういったことを防ぐためには、借りてきた舞台においてコモンセンスになっているような事象についてはきちんと押さえることは常識としても、創作している部分についてもあたかもそれが実在しているかのような(本の外側にもその世界が広がっているように感じられる)リアリティの保証が求められます。
 「子どもと文学」(その記事を参照してください)にも紹介されていますが、リリアン・スミス「児童文学論」で提示されているファンタジーの語源は、「「目に見えるようにすること」という意味のギリシア語」だそうです。
 ファンタジー作品の世界観を構築することは非常に魅力的ですが、大変な作業であることを作者たちは肝に銘じるべきでしょう。

アサギをよぶ声
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偕成社
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宮川健郎「「原風景」の考古学について」現代児童文学が語るもの所収

2017-09-05 09:20:17 | 参考文献
 いくつかの現代児童文学作品や戯曲などにあらわれる「原風景」について、著者の実体験(高島平団地周辺)を取り混ぜて、エッセイ風にまとめた文章で、この本に含まれている他の論文と同じように読もうとするとかなり違和感があります。
 紹介されているのは、
乙骨淑子「ピラミッド帽子よ、さようなら」
唐十郎「唐版犬狼都市」
奥野健男「文学における原風景」
大石真「街の赤ずきんちゃんたち」
いぬいとみこ「みどり川のぎんしょきしょき」
斉藤敦夫「グリックの冒険」「冒険者たち」「ガンバとカワウソの冒険」
わたりむつこ「よみがえる魔法の物語」
天沢退二郎「魔の沼」「光車よ、まわれ!」
などです。
 文学作品に作者の原風景が投影されているのは当然のことですし、著者に限らずほとんどすべての人たちに原風景は存在するでしょう。
 この文章ではそれらがたんに紹介されているだけで、その文学史や現代日本史における意味合いを読み解こうとしていないので、読んでも「だから、なに?」という感じです。
 まあ、「エッセイだから」と言われればそれまでですが、この本に収録するのが妥当だったかは疑問です。


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部活を辞めたくなった時に読む本

2017-09-04 09:41:15 | キンドル本
中学生や高校生の生活において大きな位置を占める部活動。そこには楽しいこともいっぱいありますが、時には忘れてしまいたいようなつらいことも起こります。そんな部活やその周辺で懸命に生きている子どもたちを描いた短編集です。

目次

6分30秒3
一人黙々と長距離走の練習に励む少年。
彼は中学最後の大会に臨みます。
彼の大会の出場には、人には言えない秘密がありました。
その秘密を克服するために、彼は激しい練習をして大会に挑みます。
いよいよスタート。
レースは思ってもみなかった展開になります。
はたしてその結果はどうだったでしょうか?
そして、レースに対するみんなの反応は?
長距離ランナーの孤独と、少年の日々の栄光と挫折を描きます。

世界一の長距離ランナ-
主人公は電車で幼稚園に通っていました。
そこで女の子と知り合います。
彼らは幼稚園の帰りに不忍池に寄り道するようになりました。
そこで中学生の長距離ランナー、山下先輩と知り合います。
区大会の選考会でベスト5に入って選手に選ばれるために特訓していたのです。
区大会の選考会に、二人は山下先輩を応援にしに行きます。
その選考会のレース結果は?
帰り道で、主人公は女の子のために世界一の長距離ランナーになろうと誓います。

無心の一射
主人公は、はじめて弓道の大会に出場します。
しかし、主人公が選手に選ばれたのには、人には言えない秘密がありました。
試合中に、そのことをひきずってしまう主人公は、いつもの弓射ができません。
ようやく無心になれた最後の一射の行方は?

ゴー、ウェスト!
主人公は中学の野球部で頑張っていました。
しかし、いい加減にやっている同学年のチームメイトに足を引っ張られて、大会では結果を出せませんでした。
不完全燃焼な気分の主人公は、他のクラスメイトのようには受験体制への移行ができませんでした。
主人公は、夏季講座のお金を持って、家出をします。
衝動的にバイクを盗んだ主人公は西へ向かいます。
彼を待ち受けていたことは?

再会
高校受験に向けての夏季講座。
主人公は授業に集中できなかった。
引退したバスケットボール部が懐かしかった。
幼稚園の時に一緒だった女の子?
はたして二人はうまく「再会」できるでしょうか?

キッカーズ
主人公たちは、中学校の校庭でゴムボールのサッカーをやっていました。
しかし、練習をしていた野球部ともめて、学校に禁止されてしまいます。
主人公は、部活ではない自分たちのサッカーチームを結成します。
荒川の河川敷のグラウンドで、自分たちだけで練習をしています。
初めての試合で、小学生のチームに完敗します。
それをきっかけに、チームの仲間たちはバラバラになってしまいます。
チーム消滅の危機を迎えた主人公たちの取った行動は?

定価99円(スマホやタブレット端末やパソコンでも読めます)。

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舟崎靖子「あんちゃん」

2017-09-04 09:33:28 | 作品論
 1985年に書かれた、小学六年生(はっきりとは書かれていませんが、時間関係からするとそのくらい年齢だと思われます)の男の子を主人公にした作品です。
 少年は、秘密の隠れ家にしていた古い空家に放火して、愛知県の救護院に収容されていました。
 ある日、そこを脱走した少年は、四年前までの約一年間、離婚した母と二人で暮らしていた長野県茅野市へ向かいます。
 そこには、「あんちゃん」がいるからです。
 あんちゃんは、母親の若い彼氏(当時二十二、三歳)で、少年をすごくかわいがってくれていました。
 彼は不良あがり(彼も救護院にいたことがあるようです。少年と出会ったころは牛乳配達をしていました)なので、遊び(つり、きのことり、手作りのコマ遊び、そり遊びなど)だけでなく、悪いこと(すり、万引き、輪ゴムで蝶を殺す方法、カエルのはりつけなど)も教えてくれました。
 そのころ(小学校に上がったばかり)の少年にとっては、あんちゃんは世界のすべてでした。
 しかし、あんちゃんに新しい若い恋人ができ、母親は少年を連れて茅野を去って、愛知県の春日井市へ引っ越します。
 そのあんちゃんに、四年ぶりに会いに行くのです。
 電車とバスを乗り継いで、やっとあんちゃんが働いていた商店にたどり着きます。
 しかし、あんちゃんは三年前に交通事故で死んでいました。
 少年は、あんちゃんとの秘密の場所で、スリーピングバッグの中で一夜を明かします。
 その晩見た夢には、あんちゃんとの想い出だけでなく、今の絶望的な暮らし(母親のネグレクト、母親の今の彼氏の中年男、万引き、放火、救護院など)も出てきます。
 しかし、夢の中で少年は、あんちゃんに「もうぬすまない」「もうころさない」と誓うのでした。
 そして、夜中に目を覚ました時に、明日救護院へ帰ることを決意して、今度はかすかにほほえみながら夢ひとつない安らかな眠りにつきます。
 いい意味でも、悪い意味でも非常に文学的な作品です。
 小説的な手法で、子どもの内面を描こうとした当時の作品の傾向を示す典型的な作品です。
 前述したあらすじは、時系列に整理したものですが、実際の作品は、実時間と回想と夢が入り混じっていて、時間もかなり前後しますので、子ども読者には読みにくかったかもしれません。
 ストーリーらしいストーリーがないので、今だったらとても児童書にはならなかったでしょう。
 しかし、この作品の魅力はストーリーとは違ったところにあります。
 圧倒的に美しい情景描写、繊細な少年の心の動きを浮かび上がらせる内面描写、あんちゃんの魅力(悪いところまで含めて少年の憧れの存在なのです)、そういったものをないまぜにしたがら、八方ふさがりの少年が変わる瞬間が鮮やかにとらえられています。
 そう意味では、一見すごく変種に見えますが、「現代児童文学」の一つの典型である成長物語なのです。
 あんちゃんを訪ねての少年の旅は、彼にとってはイニシエーション(通過儀礼)(あんちゃんと過ごした夢のような少年時代と決別する)だったのです。

あんちゃん (こども童話館 (12))
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日本児童文学者協会編「児童文学の魅力 いま読む100冊海外編」

2017-09-01 09:46:20 | 参考文献
 日本児童文学者協会が、1995年5月に出版した世界児童文学の読書ガイドです。
 巻頭の上野瞭の「児童文学への招待状 大人にとって子どもの本とは何か」という文章でも明らかなように、大人の読者を対象とした本です。
 編集委員(かっこ内の肩書はこの本の執筆者紹介における出版当時のもの)は、上野瞭(作家、評論家)、佐藤宗子(評論家、千葉大助教授)、清水真佐子(評論家、翻訳家、青山女子短大助教授)、砂田弘(作家)、宮川健郎(宮城教育大助教授)の五人です。
 清水(英米児童文学)を除くと、外国児童文学の専門家がいないのが気になります。
 おそらくほとんどの本は、原書ではなく翻訳をもとに選ばれたのでしょう。
 巻末の佐藤の「海外の100冊を選ぶにあたって」にも書かれているように、1979年12月15日に同じ日本児童文学者協会による「世界児童文学100選」という先行する同種の本があります。
 その時の編集委員は、安藤美紀夫、上野瞭、渋谷清視、神宮輝夫、砂田弘でした。
 安藤(南欧児童文学)、神宮(英米児童文学)といった外国児童文学の専門家が今回よりも多くいて、かなりバランスのとれたものになっています。
 また、巻頭に「児童文学の「現代」とは何か」という編集委員による座談会を設けて、選考過程や諸外国の児童文学の状況や選に漏れた作品の紹介も行われています。
 それと比較すると、16年後に出たこの本は、各編集委員にとっての「おもしろい本」とか「魅力」いうあいまいな概念で選ばれていて、選考基準がよくわかりません。
 また、「世界児童文学100選」は、現代児童文学を20世紀の作品と規定して、それ以外に「古典(19世紀)20選」も紹介しているのに対して、この本ではその時間規定もあいまいで、一番古いものは1825年のハウフの「隊商」まで含まれています。
 それに、「世界児童文学100選」の時には、それに先行する形で1977年8月15日に「世界の絵本100選」という本が発行されているので、どちらかというと高学年向きの作品(佐藤は「いわゆる児童文学史的な観点よりも、現代日本児童文学とどう切り結ぶかという点を先行させている」と指摘しています)に重点が置かれています。
 今回選ばれた百冊の中には、「世界児童文学100選」でも選ばれていた本が41冊、「古典(19世紀)20選」に選ばれている本が9冊と、実に半数を占めています。
 また、ケストナーやカニグズバーグのように、作品は違っても「世界児童文学100選」で選ばれた作家が18人もいます。
 つまり、新たに紹介された作家は、たった32人しかいません。
 しかも、「世界児童文学100選」が発行された以降に発表された本当に新しい作品となると、わずか8冊だけです。
 これでは、新たに「世界児童文学100選」と同様の本を出す意義はあまりなかったのではないでしょうか。
 これには、編集委員のうち上野と砂田が「世界児童文学100選」と重複することと、外国児童文学(特に英語圏以外)を原書で読める専門家が含まれていないことが原因と思われます。
 また、この本では、編集委員以外の目からも、多様に海外児童文学の作品を考えていく手がかりとすると称して、各界の著名人に海外児童文学のベスト5をあげてもらうアンケートを実施しています。
 しかし、200弱のアンケートの送付に対して29しか回答がなかったことと、回答者にも「なぜこの人に?」と首を傾げたくなるような人が含まれているので、編集委員が選んだ100冊を補完する働きをしていません。
 それならば、海外児童文学の研究者や翻訳家などに絞ってアンケートを実施した方がもっと成果が上がったでしょう。
 また、各作品の紹介文も「世界児童文学100選」ではほとんどが評論家や研究者によるもので、客観的で歴史的な背景も含めて分析的批評が多かったのですが、この本では紹介者に作家などのあまり論文を書いたことのない人がかなりいて、主観的な印象批評的なものが多く含まれています。
 中には、編集委員が選んだ評価に真っ向から反対する文章(例えば、川島誠は「パール街の少年たち」を、その作品が書かれた歴史的および社会的背景を全く無視して、現代人である川島の主観のみで切り捨てています)まで含まれていて、作品をまだ読んでない読者は混乱させられます。
 巻末の年表も、「世界児童文学100選」にはあった未翻訳な作品はぜんぜん含まれていないので不満です
 ただ、各作品につけられた作者の紹介文は「世界児童文学100選」にはないもので、読者の参考になります。
 最後に、こういった労力のかかる本の作成は、多忙な編集委員たちにすべてを任せるのではなく、プロの編集者のしっかりした仕事(編集委員の人選、選ばれた本の確保(翻訳本だけでなく原書も)、各作品の紹介文のある程度統一した書式の決定や適切な執筆者の人選、アンケートの書式の作成と対象者の適切な人選や回答の促進など)が必要だなと、痛切に感じました。
児童文学の魅力―いま読む100冊 日本編
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文溪堂
 


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