2012年の三島由紀夫賞を取った作品です。
あらすじは、……、 書けません。
主人公もプロットもない小説なのです。
カナダから来たブラジル系の留学生を受け入れた私立高校の1999年3月から6月(その後の簡単なまとめは10月まで)の様子が、平易な文書で淡々とつづられています。
この作品は、1999年に出版された「アンネの日記 海外留学生受け入れ日誌」という本を、フィクションとして改変、創作したものですが、いわゆる普通の小説ではありません。
視点がないわけではないのですが、完全な三人称、生徒、ホストファミリー、担任(しいて言えばこの担任の視点が一番多い)など次々と変化しますし、その視点のフォーカスも非常に弱くて、題名通りに「私」が排除されています。
女子高の二年生が舞台なので、恋愛とも受験とも無縁ですし、女性同士の葛藤も、また留学生による異文化との摩擦も書かれていません。
しいていえば、修学旅行がこの作品では日常に変化をつけていますが、それも克明ですが淡々と描かれています。
普通の小説では書かれない時間割や校則や修学旅行の注意事項などが、繰り返し詳細に書かれていきます。
女子高校生の風俗は詳しく描かれていますが、1999年当時のものなので、今読むとかなり古い感じです。
一般の小説では、読者に先を読ませよう、ページをめくらせようという工夫を、作者はするわけですが、この作品ではいっさいそういうことはなされません。
そのため、筋を追おうとするコモンリーダー(普通の読者)がこの本を読むことは、かなりの苦痛を伴うと思われます。
いわゆる前衛小説の難解さすら、この小説は持っていません。
あくまでも平易な言葉で、淡々と描かれていきます。
しいていえば、ところどころに書かれた生なコメントが作品のアクセントになっていますが、それが本文とどんな関係があるかも不明です。
読みやすいけれど、それがなんなのかかわからない。
そんな不思議な体験を、この作品はさせてくれます。
ともすれば、読者にわかりやすい本ばかりになっている現在の日本文学へのアンチテーゼに、この作品はなっているのでしょう。
実は、私自身も、この作品と同じように事実のみ(起床時間、就寝時間、体重、血圧、食べた物の詳細、その日やったことのリスト、出金、入金の明細など)を書いた日記を何年かつけたことがありましたが、それはこの作品のように人に読ませるためでなく、自分自身を言葉で解体するための作業でした。
児童文学の世界でも、この本のように教育実践などを下書きにして書かれた作品はかなりあります。
しかし、それらは、主人公(複数の視点で書かれることもありますが)やその心理を創作して、普通の物語になっています。
ようは、書き手が年をとってしまい、自分自身(あるいは自分の子どもたち)の体験が、現実の子どもたちと乖離してしまった時に、それを補うためになされているだけなのです。
はっきりいって、現在の児童文学の出版状況では、「私のいない高校」のような実験的な作品は本にはならないでしょう。
なぜなら、まったく売れそうにありませんから。
今の児童文学の出版社(児童文学に限らないとは思いますが)では、「いかに売れるか」かが至上命題なので、このような作品が生み出される余地はまったくありません。
しかし、同人誌などでは、時にはこのような実験的な作品が書かれてもいいのでないでしょうか。
どんな時代でも、いい意味でのアマチュア的な作品(需要に応じて書く職人的な作品をプロフェッショナルと呼ぶとすれば)が、新しい児童文学を創造していく可能性を持っているのだと思います。
あらすじは、……、 書けません。
主人公もプロットもない小説なのです。
カナダから来たブラジル系の留学生を受け入れた私立高校の1999年3月から6月(その後の簡単なまとめは10月まで)の様子が、平易な文書で淡々とつづられています。
この作品は、1999年に出版された「アンネの日記 海外留学生受け入れ日誌」という本を、フィクションとして改変、創作したものですが、いわゆる普通の小説ではありません。
視点がないわけではないのですが、完全な三人称、生徒、ホストファミリー、担任(しいて言えばこの担任の視点が一番多い)など次々と変化しますし、その視点のフォーカスも非常に弱くて、題名通りに「私」が排除されています。
女子高の二年生が舞台なので、恋愛とも受験とも無縁ですし、女性同士の葛藤も、また留学生による異文化との摩擦も書かれていません。
しいていえば、修学旅行がこの作品では日常に変化をつけていますが、それも克明ですが淡々と描かれています。
普通の小説では書かれない時間割や校則や修学旅行の注意事項などが、繰り返し詳細に書かれていきます。
女子高校生の風俗は詳しく描かれていますが、1999年当時のものなので、今読むとかなり古い感じです。
一般の小説では、読者に先を読ませよう、ページをめくらせようという工夫を、作者はするわけですが、この作品ではいっさいそういうことはなされません。
そのため、筋を追おうとするコモンリーダー(普通の読者)がこの本を読むことは、かなりの苦痛を伴うと思われます。
いわゆる前衛小説の難解さすら、この小説は持っていません。
あくまでも平易な言葉で、淡々と描かれていきます。
しいていえば、ところどころに書かれた生なコメントが作品のアクセントになっていますが、それが本文とどんな関係があるかも不明です。
読みやすいけれど、それがなんなのかかわからない。
そんな不思議な体験を、この作品はさせてくれます。
ともすれば、読者にわかりやすい本ばかりになっている現在の日本文学へのアンチテーゼに、この作品はなっているのでしょう。
実は、私自身も、この作品と同じように事実のみ(起床時間、就寝時間、体重、血圧、食べた物の詳細、その日やったことのリスト、出金、入金の明細など)を書いた日記を何年かつけたことがありましたが、それはこの作品のように人に読ませるためでなく、自分自身を言葉で解体するための作業でした。
児童文学の世界でも、この本のように教育実践などを下書きにして書かれた作品はかなりあります。
しかし、それらは、主人公(複数の視点で書かれることもありますが)やその心理を創作して、普通の物語になっています。
ようは、書き手が年をとってしまい、自分自身(あるいは自分の子どもたち)の体験が、現実の子どもたちと乖離してしまった時に、それを補うためになされているだけなのです。
はっきりいって、現在の児童文学の出版状況では、「私のいない高校」のような実験的な作品は本にはならないでしょう。
なぜなら、まったく売れそうにありませんから。
今の児童文学の出版社(児童文学に限らないとは思いますが)では、「いかに売れるか」かが至上命題なので、このような作品が生み出される余地はまったくありません。
しかし、同人誌などでは、時にはこのような実験的な作品が書かれてもいいのでないでしょうか。
どんな時代でも、いい意味でのアマチュア的な作品(需要に応じて書く職人的な作品をプロフェッショナルと呼ぶとすれば)が、新しい児童文学を創造していく可能性を持っているのだと思います。
私のいない高校 | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |
この作品は、すごいよく分からない。
記録や日誌を読んでるようだ、というのは納得しました。
そしてなにより、作家 青木淳悟さんに興味が出ちゃいましたね。
三島賞受賞もあって、さすがに話題の人だけに、
いろんなサイトで取り上げられてるけど、どうやら、
かなり変わった人だということらしい。
http://www.birthday-energy.co.jp/
勝負師だけど、本気も出せないなんて、もしホントなら、ちょっとカワイソウになってくる・・・。