1998年に出版された「伝説の半生、謎の隠遁生活」の副題を持つ評論です。
惹句に惹かれて、新事実や新説を期待して読むと、拍子抜けします。
あとがきにも書かれているように、サリンジャーのほとんどの作品に言及し、先行文献にもよく目を通しているのはわかるのですが、作者自身の視点や意見には新味はありません。
また、作者はサリンジャー・ファンを自称していますが、その書き方にはあまり愛情は感じられず(他の記事にも書きましたが、欧米を中心にしたサリンジャーの研究者たちも同様で、そのあたりが宮沢賢治の研究者たちとは違う点です)、サリンジャー・ファンが読むと不快に感じる部分も多々あります。
また、文学理論に照らし合わせたり、英米の純文学系の大家たちと比較するような書き方も、サリンジャーのような平明さを命にしているような作品を批評する時には、あまりフェアとは言えません。
特に、サリンジャーがその作品の中で重要視しているイノセンス(無垢)な魂の持ち主を、未熟としてしか捕らえられない作者には、サリンジャー作品の本質は理解できないでしょう。
それなら、何故、ここまでの労力をかけて本を書いたのでしょうか。
それは、いみじくも文中で作者自身が他の研究者を揶揄しているように、サリンジャーについて書けば、「本になる」「お金になる」からでしょう。
アメリカで(そして日本でも)、もっとも読まれているアメリカ文学の書き手がサリンジャーなのです。
それでは、なぜ洋の東西を問わず、時代を超えて今でも、サリンジャーが若者に読まれているのでしょうか?
それを説き明かすには、この本のようなテキストにこだわった文学論的なアプローチではなく、社会学的なアプローチや発達心理学的なアプローチが必要でしょう。
また、他の記事にも書きましたが、児童文学論的なアプローチ(文学と子どもという二つの中心を持つ楕円形として作品を捕らえる)も有効かもしれません。
そうでなければ、サリンジャー作品のような現代的不幸(生きることのリアリティの希薄さ、アイデンティティの喪失、社会への不適合など)を抱えた人物を主人公にした作品は解読できません。