1969年に出版された、鈴木武樹訳の角川文庫版「フラニーとズーイ」(その記事を参照してください)に掲載された解説です。
同じ訳者の角川文庫版「九つの物語」(1969年)、「倒錯の森」(1970年)、「若者たち」(1971年)、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」(1972年)にも転載されています(なお、この出版順は、サリンジャーの作品の実際の発表順とは無関係です。詳しくは、それぞれの記事を参照してください)。
サリンジャーとその作品について、以下の観点でまとめています。
<私離れと私そのまま>
サリンジャーの作品を、どこまでが実体験(目撃や観察も含めて)であるかどうかについて論じていますが、結論としては彼の作品は簡単に私離れを起こさせる自由度を持ちつつ、その根っこの部分には自身の体験があると指摘しています。
そして、実体験に基づいた初期の短編から、作家として成熟するにつれて、私離れを自在に行えるようになっているとしています(まあ、私自身の乏しい実作体験から類推しても、ほとんどの作家が同様なのですが)。
<ユダヤの血>
ご存じのように、サリンジャー自身がユダヤ系アメリカ人ですし、彼の一番重要な作品であるグラス家サーガの七人兄妹もユダヤ系アメリカ人の父とアイルランド系アメリカ人の母の間に生まれています。
どんな作家も、自分自身に流れる血の影響は免れないものですが、アメリカ社会におけるユダヤ系のようなマイノリティの場合は特にその影響が強いでしょう。
また、そうした血脈の影響は親子などの垂直方向に働くことが通常は多いのですが、サリンジャーの場合にはグラス家兄弟のように水平方向に働いているとの著者の指摘は非常に重要です。
家族関係が希薄な現在では、これら水平関係も希薄になりつつあり、その結果として逆に「血」の結びつきが国家単位(「日本人」とか、「アメリカ人」とか、「中国人」とか、「韓国人」とか)に回帰する傾向さえあって、「血」の定義が非常にあいまい化されるとともに、「ポピュリズム」によって操られる可能性があるのではないかと危惧しています。
<青春彷徨と詩魂>
サリンジャーは、青年と大人の境界を彷徨う魂を吸い上げて、文学作品にまで昇華させる詩魂が大きかったとしていますが、全く同感です。
代表作の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)で、主人公のホールデン・コールフィールドを、退校させられた寄宿高校から家へたどり着くまで、文字通り彷徨させていますが、初期の短編にも多くの擬似ホールデンが登場します。
このことが、同様の現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きていることのリアリティの希薄さ、社会への不適合など)を抱えた多くの若い読者たちのハートを掴み、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」をベストセラーであるばかりでなく、現代にいたるまでのロングセラー(現代的不幸に直面する人たちの年代は、国や時代によって様々なのが長く読み続けられている主な理由です)にした要因でしょう。
<戦火の悲劇>
サリンジャー自身の戦争体験を反映した作品もありますし、それが原因の一つと考えられるシーモァの自殺はグラス家サーガに大きな影響を与えています。
私見を述べれば、悲惨な戦争体験に加えて、戦後のアメリカにおける空前の好景気による世俗主義に対する嫌悪が重なり合って、シーモァの死だけでなく、ホールデンの悲喜劇、フラニー(「フラニー」(その記事を参照してください)の主人公)の悲劇が生み出されたのではないでしょうか。
<マスコミとの双曲線>
著者は「サリンジャーは、マスコミ嫌い、人間嫌いとして有名である」と断じていますが、はたして本当にそうでしょうか?
著者も指摘しているように、サリンジャーが一般の読者に注目されるようになったのは、グラス家サーガの記念すべき第一作「バナナ魚のもってこいの日」(その記事を参照してください)が「ニューヨーカー」誌に掲載されてからです。
それ以前にも、「ニューヨーカー」に短編を掲載したことがありましたが、彼の人気はこの作品で決定的になり、「ニューヨーカー」と特約を結んで、以降の作品は、書き下ろし長編の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)を除いて、すべて「ニューヨーカー」に発表されています。
「ニューヨーカー」と言えば、専門家やマニア向けの純文学専門の雑誌ではなく、その名の通りハイソでおしゃれな文学系雑誌です(村上春樹の作品の翻訳がよく掲載されると言えば、雰囲気が分かってもらえるかもしれません)。
そこと特約を結ぶということは、少なくともその時点では、ある程度の商業的な成功も志向していたと思われます。
もともと短編を書き始めた10代のころは、作品をハリウッドへ売り込みたいと思っていたそうなので、そのころは普通に有名作家になる夢を持った文学少年だったのでしょう。
マスコミ嫌いになったのは、1950年に映画化を許した(少年の時の夢がかなった訳です)「コネチカットのグラグラカカ父さん」の出来があまりにも悪く、公開を拒否したことにあるでしょう。
その後は、ハリウッドに幻滅したサリンジャーはすべての作品の映画化を拒絶しています(「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の映画化の話(監督はエリア・カザン(ジェームス・ディーン主演の「エデンの東」などで有名)などは、巨額の原作料が提示されたことでしょう)。
さらに、1951年に発表した「キャッチャ・イン・ザ・ライ」が大ベストセラーになって以降のマスコミを中心とした馬鹿騒ぎに嫌気がさしたことが、「マスコミ嫌い」に拍車をかけたのでしょう。
「人間嫌い」については、私はそう考えていません。
確かに、交流のあった高校生たちに裏切られ事件(1953年)をきっかけに、外界をシャットアウトした生活を2010年に91歳で亡くなるまで続けましたが、その間結婚もして子どもたちも授かっているので、たんに「自分のことを理解しない(あるいはしようとしない)人間たちをの関係を断った」だけです。
それは、他人がとやかく言うべきではない一つの生き方なので、決して「人間嫌い」であったわけではないと思っています。
<グラス家年代記への執着><グラス家の系譜>
1948年に発表された「バナナ魚にもってこいの日」を皮切りに、同じ1948年の「コネチカットのグラグラカカ父さん」、1949年の「下のヨットのところで」、1955年の「フラニー」、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」、1957年の「ズーイ」、1959年の「シーモァ ― 序論」、1965年の「一九二四年、ハップワース十六日」に至るまで、グラス家七人兄妹(シーモァ、バディ、ブー・ブー、ウォルト、ウェイカー、ズーイ、フラニー」について断続的に書かれたグラス家サーガは、著者が言うように、それぞれが優れた短編や中編でありながら、全体が完成すれば、長男シーモァを中心にして物質文明の中での兄妹の精神史を描いた、一大叙事詩になる可能性を秘めていたと思われます。
技法的にも、オーソドックスな短編から、しだいにストーリー展開に頼らない前衛的な作品に深化していっています。
著者は、解説の最後に、期待を込めて以下のように述べています。
「サリンジャーは、一九六五年に「ニューヨーカー」誌に「一九二四年、ハップワース十六日」を公にして以来まるまる四年以上の沈黙を守っている。現代作家としては珍しい沈黙ぶりである。果たして、今後如何なる作品が公にされるかに期待がもたれるわけであるが、グラス家物語の完結以外にサリンジャーが他の問題に取り組むとは今のところどうしても思えない。次作の興味深く待たれるゆえんである。」
しかし、ご存じのように、その後新しい作品が発表されることはありませんでした。
本当に筆を折ってしまったのか、期待を込めた噂として囁かれている「実際には、発表されていないだけで「グラス家」サーガは密かに完成している」のかは、現在のところ謎のままです。