「グラス家の群像」と言えば、サリンジャーのグラス家サーガに登場する七人兄妹のことですが、実際には「フラニー」、「ズーイ」、「大工らよ、屋根の梁を上げよ」、「シーモァ ― 序章」、「ハプワース16,一九二四」に関する著者の読みだけが書かれているので、中心人物のシーモァを除くと、これらの作品に登場するフラニー、ズーイ、バディに関しては部分的な人物像が書かれていますが、その他のブー=ブー、ウォルト、ウェイカーには触れていません。
以下の7つの章から構成されています。
1.1955年以降に書かれたサリンジャーの作品は、「フラニー」(1955年)、「ズーイ」(1957年)、「大工らよ、屋根の梁を上げよ」(1955年)、「シーモァ ― 序章」(1959年)、「ハプワース16,一九二四」(1965年)の五作だけで、すべてが「グラス家サーガ」です。以下の章で、著者はそれぞれの作品を再考しています。
2.「ズーイ」(前半部)と「フラニー」のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。その中で、バディやシーモァが、それぞれが偶然出会った幼い女の子たち(純粋な魂の原形質の象徴としています)との出会いによって、自分たちがそうしたものを失ってしまったことを告白している」との指摘は非常に重要です。
3.「ズーイ」の(後半部)のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。
4.「大工らよ、屋根の梁を上げよ」のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。その中で、結婚相手のミュリエルの少女時代が、シーモァの幼なじみの美少女シャーロット・メイヒューとうりふたつだったことを指摘しているのは重要です。
5.「シーモァ ― 序章」については、この作品がシーモァを中心とするそれまでのグラス家サーガに対する批判に対してのサリンジャーの弁明と、彼の文学宣言(世の中の風潮には関係なく、気ままに書いていく)と、シーモァに関する百科事典だとしています。
6.「ハプワース16,一九二四」については、いろいろな研究者による否定的な見解や同じような傾向を持った(仏教的なカルマと輪廻の法則に従った)三島由紀夫の「豊饒の海」を紹介しながら、「連作の構想を、六道輪廻の業と転生に求めたのは、作品の出来不出来は別にして現代文明のありように飽き足らなかったからではないだろうか」としています。
7.初期短編、「九つの物語」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、「グラス家サーガ」と作風が大きく変化していったが、サリンジャーの本質は「無私の愛であり、虚偽への憎しみである」と結論付けているのは、非常に優れた指摘です。最後の「ハプワース16,一九二四」においての超人かつ密教的修行者のシーモァでさえも、キャンプ場の大人たちの欺瞞への強い憎しみを持つだけでなく、家族や弱者たちへの優しいまなざしを向けていることを、その根拠としてあげていますが、全くその通りだと思います。また、そんなシーモァが、美人のハッピー夫人には性的な悩みを抱えていることを指摘しているのも重要です。
しかし、著者は、「神秘主義の装いの下に、また、主人公の自己矛盾にもかかわらず、サリンジャーの希求が相変わらず息づいている」と、考えつつも、「いつかまた、リング・ラードナー流のユーモアと、受け入れやすい優しさ、それに、マーク・トウェインばりの活力を、作品で表明してくれる日を期待したい」としています。
要は、「また「九つの物語」や「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のような作品を書いてね」ということなのでしょうが、こればかりはまったく書き手の気持ちを無視したない物ねだりにすぎません。
サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の異常な大ヒットで、業界や評論家や研究者やマスコミやファンと称する輩たちの嫌な所をいっぱい見てしまったのでしょう。
そんなところへ戻るくらいならば、「舌を噛み切って死にたい」気分(シーモァならばピストル自殺するかもしれませんが)なのは良くわかります。
一方で、残念ながら、サリンジャーはシーモァではありません(あこがれはあるかもしれませんが)。
バディのような年を取っていく肉体を持ち、しかも人一倍煩悩(ロリコンの傾向があって、美人にも弱い)も抱えています。
そうした弱い人間が生きていくために、できるだけ自分を理解しない人間たちからは遠ざかって、理解してくれる人間だけとだけと付き合って、穏やかに暮らしていくことが、そんなに悪いことなのでしょうか。
以下の7つの章から構成されています。
1.1955年以降に書かれたサリンジャーの作品は、「フラニー」(1955年)、「ズーイ」(1957年)、「大工らよ、屋根の梁を上げよ」(1955年)、「シーモァ ― 序章」(1959年)、「ハプワース16,一九二四」(1965年)の五作だけで、すべてが「グラス家サーガ」です。以下の章で、著者はそれぞれの作品を再考しています。
2.「ズーイ」(前半部)と「フラニー」のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。その中で、バディやシーモァが、それぞれが偶然出会った幼い女の子たち(純粋な魂の原形質の象徴としています)との出会いによって、自分たちがそうしたものを失ってしまったことを告白している」との指摘は非常に重要です。
3.「ズーイ」の(後半部)のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。
4.「大工らよ、屋根の梁を上げよ」のあらすじに沿って、著者の読みが紹介されています。その中で、結婚相手のミュリエルの少女時代が、シーモァの幼なじみの美少女シャーロット・メイヒューとうりふたつだったことを指摘しているのは重要です。
5.「シーモァ ― 序章」については、この作品がシーモァを中心とするそれまでのグラス家サーガに対する批判に対してのサリンジャーの弁明と、彼の文学宣言(世の中の風潮には関係なく、気ままに書いていく)と、シーモァに関する百科事典だとしています。
6.「ハプワース16,一九二四」については、いろいろな研究者による否定的な見解や同じような傾向を持った(仏教的なカルマと輪廻の法則に従った)三島由紀夫の「豊饒の海」を紹介しながら、「連作の構想を、六道輪廻の業と転生に求めたのは、作品の出来不出来は別にして現代文明のありように飽き足らなかったからではないだろうか」としています。
7.初期短編、「九つの物語」、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、「グラス家サーガ」と作風が大きく変化していったが、サリンジャーの本質は「無私の愛であり、虚偽への憎しみである」と結論付けているのは、非常に優れた指摘です。最後の「ハプワース16,一九二四」においての超人かつ密教的修行者のシーモァでさえも、キャンプ場の大人たちの欺瞞への強い憎しみを持つだけでなく、家族や弱者たちへの優しいまなざしを向けていることを、その根拠としてあげていますが、全くその通りだと思います。また、そんなシーモァが、美人のハッピー夫人には性的な悩みを抱えていることを指摘しているのも重要です。
しかし、著者は、「神秘主義の装いの下に、また、主人公の自己矛盾にもかかわらず、サリンジャーの希求が相変わらず息づいている」と、考えつつも、「いつかまた、リング・ラードナー流のユーモアと、受け入れやすい優しさ、それに、マーク・トウェインばりの活力を、作品で表明してくれる日を期待したい」としています。
要は、「また「九つの物語」や「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のような作品を書いてね」ということなのでしょうが、こればかりはまったく書き手の気持ちを無視したない物ねだりにすぎません。
サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の異常な大ヒットで、業界や評論家や研究者やマスコミやファンと称する輩たちの嫌な所をいっぱい見てしまったのでしょう。
そんなところへ戻るくらいならば、「舌を噛み切って死にたい」気分(シーモァならばピストル自殺するかもしれませんが)なのは良くわかります。
一方で、残念ながら、サリンジャーはシーモァではありません(あこがれはあるかもしれませんが)。
バディのような年を取っていく肉体を持ち、しかも人一倍煩悩(ロリコンの傾向があって、美人にも弱い)も抱えています。
そうした弱い人間が生きていくために、できるだけ自分を理解しない人間たちからは遠ざかって、理解してくれる人間だけとだけと付き合って、穏やかに暮らしていくことが、そんなに悪いことなのでしょうか。