現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

J・D・サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

2024-06-14 11:03:35 | 参考文献

 言わずと知れた青春文学の世界的ベストセラーです。
 特に、日本ではサリンジャーの母国のアメリカより有名なようです。
 四十年近く前に、アメリカにある会社の研究所に半導体の勉強をしに行っていた時、研究所で知り合ったアメリカ人の友だちにこの本のことを話したらまったく知りませんでした。
 もっとも、彼は博士号も持つガチガチの理系人間でしたが、この本は一部の州では悪書に指定されるなど迫害も受けていたようです(このあたりは、キンセラの「シューレス・ジョー」に詳しく書かれています。この本は日本でもヒットした映画「フィールド・オブ・ドリームス」の原作ですが、たぶんサリンジャーのOKが取れなかったのか、映画の中では六十年代の黒人作家テレンス・マンに代えてあります)。
 ネット上でも、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」についてはいろいろ書かれているでしょうから、改めてあらすじは述べません。
 ここでは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えた影響だけを考察したいと思います。
 その前に、なぜ「ライ麦畑でつかまえて」でなく、原題の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」としているかを説明したいと思います。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、1951年にアメリカで出版されたすぐ翌年に「危険な年齢」なんてすごい題名で日本語訳が出ましたが、一般的には1964年に出た野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」で日本でもベストセラーになりました。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は学生時代に原書でも読みましたが、野崎訳に大きな不満はありませんでした。
 ただ、題名だけはずっと違和感を持っていました。
 これでは、なんだか女の子が「ライ麦畑でつかまえて!」と男の子を誘っているような感じがしてしまいます。
 原題に忠実に訳せば「ライ麦畑の捕まえ手」とでもなるのでしょうが、日本語としての収まりはいまいちです。
 2003年に、村上春樹がこの作品の新訳を出して話題になりました。
 それを読んでも特に新しい感銘は受けなかったのですが、題名を「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にしたのには、なるほどこれだけ有名になった後ならばこの手があったかと思いました。
 なぜ私がこれだけ題名に固執しているかといいますと、この「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という題名にはこの作品の本質があらわされているからです。
 これについては、後で詳しく述べます。
 さて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えた影響として、大きなものはふたつあると思います。
 ひとつは、饒舌な若者言葉で書かれた文体です。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の直接的な影響を受けている日本の文学作品として有名なのは、1969年に発表されて芥川賞を取り、これもベストセラーになった庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」があげられます。
 「赤ずきんちゃん気をつけて」は、文体だけでなく、作品に出てくる少女の扱いなど、たくさんの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に似ている点が指摘されています。
 この本は、現在ならばヤングアダルトの範疇の本として出版されたかもしれないので、児童文学作品と言ってもいいかもしれませんません。
 まあこれは別として、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の文体を、初めて現代日本児童文学に適用したと思えるのは、1966年の講談社児童文学新人賞を取って、翌年に出版されて課題図書にもなった後藤竜二のデビュー作である「天使で大地はいっぱいだ」です。
 この作品で使われた子どもの話し言葉で書かれた文体は、発表時には児童文学界ではかなり高く評価されたようですが、先に「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んでいた私にはそれほど新鮮には感じられませんでした。
 その後も、饒舌な子どもの話し言葉で書かれた作品は、現代日本児童文学でよく見られるようになりました。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が現代日本児童文学に与えたもうひとつの大きな影響は、アイデンティティの喪失、生きていくリアリティの希薄化、社会への不適合などの若者の「現代的不幸」を鮮明に作品化したことです。
 この作品が出版されたころのアメリカは、「黄金の50年代」と呼ばれた繁栄の時代を迎えていました。
 貧困、飢餓、戦争(朝鮮戦争はありましたが遠い極東の事件でした)などの「近代的不幸」を克服したアメリカの中産階級の家庭の高校生、ホールデン・コールフィールドには、親の敷いた路線に従ってアイビーリーグの大学を卒業すれば、豊かな生活が保証されていました。
 しかし、ホールデンはそういった見かけだけの豊かさや大人の欺瞞に対して反発し、自分のアイデンティティを見失ってしまいます。
 この「現代的不幸」は、1960年代後半に入ってようやく豊かになった日本で、多くの若者が直面した問題でした。
 そのため、この作品が、そのころの日本でベストセラー(私の持っている本は1974年の第28刷です)になったのでしょう。
 それに対して、現代日本児童文学はこれら現代的不幸の問題に、すぐには対応できませんでした。
 その頃の日本の児童文学界は、階級闘争的な問題に力を入れていて、組合運動や学園闘争や市民運動などを無理やりに中学生や小学生を主人公にした作品に取り入れて、支配階級に対して労働者階級の団結や連帯で問題解決を図ろうとする作品が、後藤竜二や古田足日などを中心にして書かれていました。
「現代的不幸」を現代日本児童文学で描くようになったのは、70年安保の挫折とその後の混乱を経た1970年代後半になってからでした。
 その初期の代表的な作家は森忠明でしょう。
 森の初期作品、「きみはサヨナラ族か」や「花をくわえてどこへゆく」などには、「現代的不幸」に直面した日本の子どもたちの姿が描かれています。
 私自身も、この「現代的不幸」に直面した子どもたちを描くのをテーマにして作品を書き始めたのですが、それはさらに遅れて1980年代後半のことでした。
 今振り返ってみると、1970年代半ばの学生時代に自分自身がこの問題に直面し、実際に児童文学の創作を始める1980年代半ばまでの空白期間は、自分自身のアイデンティティの回復に必要な時間だったのかもしれません。
 さて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が日本で広く受け入れられた理由の一つに、彼の東洋的な思想への傾倒があります。
 この作品を初めて読んだ時に、私はすぐに宮沢賢治のデクノボーを主人公にした作品群、特に「虔十公園林」を思い浮かべました。
 サリンジャーは、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の最後の方で、ホールデンに自分がなりたいものについて、妹のフィービーに向かってこう語らせています。
 以下は野崎孝の訳によります。
「とにかくね。僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているところが目に見えてくるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない - 誰もって大人はだよ - 僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖の縁に立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。 - つまり子供たちは走ってるときにどこを通ってるなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して来て、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」
 もちろん、作品の題名は、このセリフからきています。
 そして、サリンジャーがこの作品で最も重要だと思ったメッセージはこの部分だと、私は考えています。
 それは、宮沢賢治が「虔十公園林」で描いた「顔を真っ赤にして、もずのように叫んで杉の列の間を歩いている」子どもらを、「杉のこっちにかくれながら、口を大きくあいて、はあはあ笑いながら」見ている虔十の姿にピタリと重なってきます。
 そして、学生時代の、また児童文学の創作を始めたころの私自身にとっても、「ライ麦畑のつかまえ役」や「杉林でかくれて子どもらを見ている虔十」は、「僕がほんとうになりたいもの」なのでした。
 今はもう成人した二人の息子たちがまだ幼かったころ、時々彼らを連れていく大きな公園がありました。
 そこには杉林(虔十公園林とは違って、十メートル以上にも大きく育っていました)の中に、たくさんのフィールドアスレチックの障害物があり、いつも多くの子どもたちが遊びまわっていました。
 そのはずれに立って、自分の息子たちだけでなく、たくさんの子どもたちが歓声をあげて走りまわっている姿をぼんやりながめていると、いつのまにか頭の奥の方がジーンとしびれていくような幸福感を感じていました。
 あるいは、その時には、「現代的不幸」をテーマに創作を続けていくことの自分自身のモチベーションは、すでに失われていたのかもしれません。

 

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