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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

宮沢賢治「双子の星」校本宮澤賢治全集第七巻所収

2021-11-20 13:53:41 | 作品論

 初期作品の中では、非常に美的な世界を美しい文章で描いた作品です。

 しかし、耽美な世界と強い倫理観が共存しているところに、賢治の作品世界の特徴があります。

 後の作品ほどの賢治独特の世界はありませんが、主役の双子の星が、彗星にだまされて海中に沈み、それが竜巻で再び天上に戻るなど、賢治ならではのダイナミックな展開もあります。

 また、星座や海の動物に対する博識ぶりも発揮されていて、賢治の多面性も物語っています。

 

 

 

 

 

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安東みきえ「メンドリと赤いてぶくろ」

2021-11-17 17:07:59 | 作品論

 カラフルな絵(村尾 亘)がたくさんついている絵本です。

 いばりんぼうの手袋(右手)が、洗濯物干しから風に飛ばされて、いろいろな体験をするお話です。

 時を告げたいメンドリのトサカ(オスのように)になったり、雪で凍ってしまったりして、最後には本当に大切なものを知ることになります。

 大人の鑑賞にもたえる深い内容を秘めていますが、美しい文章と巧みな言葉遊びで、幼い読者でも楽しめる作りになっています。

 

 

 

 

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佐藤さとる「だれも知らない小さな国」

2021-10-27 17:29:29 | 作品論

 児童文学の世界では、言わずと知れた「現代日本児童文学」のスタートを飾ったされる二作品のうちのひとつです。
 同じ1959年に出版されたもうひとつの作品はいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」で、くしくもふたつとも小人が登場するファンタジーの長編です。
 もちの木を探しに山に出かけた「ぼく」は、泉のあるきれいな小山を見つけます。
 「ぼく」は、その場所を自分だけの秘密にします。
 昔、その小山に「こぼしさま」という小人が住んでいたと聞いてから、ぼくの心の中には「小人」が住むようになります。
 そして、実際に小人の姿も一度だけ見かけます。
 しかし、その後は小人に出会わないまま「ぼく」は大きくなっていき、だんだん小山のことは考えないようになります。
 やがて、戦争が始まり「ぼく」も大人になって、小人のことは忘れていきます。
 しかし、戦後、「ぼく」は久しぶりに小山に行き、その場所が子どものころと全く変わっていないことを喜び、何とか自分のものにしようと思います。
 その後、小人たちと再会し、彼らをスクナヒコノミコトやコロボックルの末裔だと思います。
 「ぼく」は、小人たちや幼いころにこの小山で出会っていて戦後再開した女性と協力して、小山を手に入れてコロボックルの国を築いていこうと誓います。
 1973年4月に大学の児童文学研究会に入会して最初の一年目には、内外の現代児童文学を集中して百冊以上読みましたが、この作品は山中恒の「赤毛のポチ」、「ぼくがぼくであること」、斉藤惇夫の「冒険者たち」などと並んで、もっとも印象に残った日本の作品でした。
 19歳の時に書いた「佐藤さとるの作品においての考察」(ビ-ドロ創刊号所収、その記事を参照してください)という文章の中でも、「「だれも知らない小さな国」は、おそろしく緻密な文章でかかれている。実際、それだけでも僕は打ちのめされてしまう。技巧だのなんだのと、いってはいられない。ストーリーの無理のなさ、その構成、心理や行動の描写の確実さには、圧倒されてしまう。ついに、日本にも、英米のファンタジー作品にも比肩しうる作品が生まれたといえる。」と、興奮気味に述べています。
 四十年ぶりにこの作品を読んでみても、この評価はほとんど変わりません。
 この作品は、時代の淘汰に耐えた現代児童文学の古典だといえるでしょう。
 佐藤さとる氏は、2017年2月にお亡くなりになりました、謹んでご冥福をお祈りいたします。

コロボックル物語(1) だれも知らない小さな国 (児童文学創作シリーズ―コロボックル物語)
クリエーター情報なし
講談社
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古田足日「ロボット・カミイ」

2021-10-01 17:03:48 | 作品論

 1970年に出版された幼年文学の古典です。
 カミイは、仲良しの幼稚園児(ももぐみさんです)のたけしとようこが、ダンボールで作ったロボット(紙で作ったのでカミイという名前も、ベタな子どもらしいネーミングです)です。
 鋼鉄製(本人はそう思っている)のロボットのカミイは、力持ちで世界一強いはずなのですが、実は紙でできているので水に弱い(泣き虫なので自分の涙にも弱い)のです。
 カミイはわがままでいばりんぼなので、二人と一緒に行った幼稚園でも問題ばかりおこします。
 幼稚園児にとっての、自分よりもわがままで困った存在、そう、カミイはみんなの弟のようなものなのです。
 カミイとの行動を通して、お話の中の子どもたち(男の子と女の子のダブル主役なので、男の子読者も女の子読者も自分を主役にできます)も、そして読者の子どもたちも、自分の成長(おにいさんやおねえさんになったような気持ちになれます)を確認できることが、この作品の一番の魅力でしょう。
 それに、園内の小さな世界にとどまらず、みんなを助けるためにダンプカーにひかれて死んだカミイが、たけしとようこが破れたりしたところを補修するだけであっさりと復活して、最後はみんながダンボールで作ったチビゾウに乗ってロボットの国へ帰るというダイナミックなストーリーも備えています。
 作者は、実際に幼稚園に取材をしたり、教育実践を参考にしたりして、作品の幼稚園生活(書かれてから約五十年がたち、さすがに現在の幼稚園の実態にそぐわない個所もありますし、作品のジェンダー観(男の子と女の子の役割の固定化など)も古くなっていますが)にリアリティを持たせ、実際の園児たちの反応を確かめながら作品を膨らませています。
 作者の評論(特に初期のもの)は抽象的で難解なことが多く、高学年向きの作品には理が勝っている作品(「宿題引受け株式会社」(その記事を参照してください)など)もあるのですが、むしろ幼年文学(「おしいれのぼうけん」(その記事を参照してください)など)の方に生き生きとした優れた作品が多いように感じます。

ロボット・カミイ (福音館創作童話シリーズ)
クリエーター情報なし
福音館書店
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ばんひろこ「もっかい」あける32号所収

2021-09-16 17:51:44 | 作品論

 小学校一年生ぐらいの男の子と、その弟を描いています。

「もっかい」というのは、「もう一回」がうまく言えない弟の口癖です。

 何か気に入ったことがあると、「もっかい」と言って、せがむのです。

 そんな弟をうっとうしくも思いながら、絵本(「三匹のやぎのがらがらどん」です)を読んでやったり、おかしな顔をしたりして、主人公は可愛がっています。

 幼い兄弟の愛情が、自然な形で描かれています。

 途中に挿入されているファンタジックなクモとの交流も、効果的に使われています。

 

 

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ドクター・ドリトル

2021-06-03 15:22:14 | 作品論

 

 

 2020年公開のアメリカ映画です。

 ヒュー・ロフティングの児童文学の古典、「ドリトル先生」シリーズを原作としていますが、実際は「動物の言葉が話せる」ことと、主な登場人物(主役である助手の少年、オウムのポリー、がちょうのダブダブなど)の設定を借りたオリジナルのストーリーです。

 ドリトル先生の愛読者の方々が原作のストーリーを期待して見ると、がっかりするかもしれません。

 CGの発達によって、トールキンの指輪物語を初めとして、数々のファンタジーが映画化されるようになりましたが、できるだけ原作に忠実に作った方が成功することが多いようです。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「コネチカットのグラグラカカ父さん」九つの物語所収

2021-05-22 13:57:15 | 作品論

 主人公の若い女性(裕福な男性(女中もいます)と結婚して、小さな娘もいます)と、家に尋ねてきた女子大学の寄宿舎で同室(アメリカの名門大学は寄宿制なので、そこで同室だった友人とは固いきずなで結ばれていることが多いようです)だった女性(独身で働いているようです)の、酒を飲みながらの会話によって構成されています。
 酔いが深まるにつれて、主人公は第二次世界大戦後に日本で事故死したかつての恋人(例のグラス家(詳しくは他の記事を参照してください)の四男)の想い出に浸っていきます。
 彼はユーモアのセンスに富んだ(題名のグググラカカ父さんというのは、かつて彼女がかかとを痛めた時に、彼が彼女のことを「グラグラ(かかと)うさん」と呼んだことに起因しています。英語では、ankle(かかと)とuncle(おじさん)の掛け言葉になっています)知的で魅力な人物で、今の結婚相手ではそういった点が全然満たされていないことを、彼女は告白します。
 さらに、自分の娘が空想上の恋人を持ち、さらにその空想上の恋人が主人公の恋人と同様に事故死(もちろんこれも空想上ですが)しても、すぐに次の空想上の恋人が出現したことを知って、激しく嫉妬します。
 最後に、女子大に入るころの自分に戻りたいと思っていることを、主人公は強く自覚します。
 三人の女性の外見的な描写はほとんどない(娘は強度の近視でメガネをかけているようです)のですが、心理描写は恐ろしいほど的確で、経済的には恵まれているものの精神的に満たされていない若い女性を、冷徹なまでに描き切っています。
 サリンジャー作品で唯一、ハリウッドで映画化されています。
 角川文庫の武田勝彦作成の年譜(その記事を参照してください)によると、サリンジャーは「下見したが不満足でプリントを許可しなかった」となっていますが、フレンチの「サリンジャー研究」では封切りされたことになっています。
 どちらにしろ、内容は当時の人気女優を使ったメロドラマで、脚本ではサリンジャーの原作は見るも無残に改変されているようで、その後にすべての作品の映画化(その中には、「理由なき反抗」のエリア・カザンによる「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も含まれています)をすべて断ったのは無理もない話です。
 

 

 

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J.D.サリンジャー「ド・ドミエ=スミスの青の時代」九つの物語所収

2021-05-22 13:53:46 | 作品論

 裕福な義父(母は亡くなっていて、主人公と義父は彼女を今でも深く愛しています)と、ニューヨークの高級ホテル(リッツ)に無期限で暮らす十九歳の美術学校生が主人公です。
 美術学校の夏休みに、名前(ド・ドミエ=スミス、フランス育ちでフランス語が達者なのでフランス人を装っています)や年齢や経歴を偽って、カナダのモントリオール(ケベック州なのでフランス語圏です)にある通信制の美術学校の夏学期の講師として採用されます。
 その学校は、他には東洋人(名前は日本人っぽくないですが、少なくとも夫は日本人。当時の裕福な白人のご多分に漏れず、東洋人に対する偏見が書かれています)の夫妻だけが指導している、学校というよりは私塾という感じのスケールです。
 そこで、添削指導(たいがいは全く絵の才能がない生徒です)をしているうちに、絵の才能にあふれる尼僧の生徒に出くわし、年齢欄が空欄だったこともあって、若者らしいとんでもない妄想(彼女は十七歳の美少女で、まだ尼僧になる正式の誓いを立てておらず、直接会えば自分と恋愛関係に陥るだろう)を抱きますが、当然そんな空想は儚く破綻(彼が添削と共に送ったラブレターが修道院長の目に触れて彼女は退学し、さらには美術学校自体が正式に認可を受けていなかったので閉鎖されてしまいます)して、主人公はニューヨークに戻って元のように周囲にいる女の子たちを漁って、夏休みの残りを過ごします。
 若者特有の自意識過剰とたぐいまれな妄想力がいかんなく発揮されていて、軽薄で鼻持ちならないながらもどこか憎めない、若者の一つの典型を描き出しています。
 題名にある「青の時代」は、もちろん作品にも出てくる(主人公が友人だと吹聴しています)パブロ・ピカソにちなんでいます。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「美しき口に、緑なりわが目は」九つの物語所収

2021-05-22 13:51:10 | 作品論

 独身で年配の弁護士の男が、後輩の若い弁護士の妻と自宅で浮気をしているところに、「妻が家へ帰ってこない」と取り乱している夫(夫は、妻がいつも他の男と浮気をしているのではと心配しています)から、相談の電話がかかってくる(夫は、先輩弁護士のことをいつも頼りにしています)という非常に皮肉なシチュエーションのお話です。
 この電話で、夫から妻の悪口(浮気、自意識過剰、わがままなど)と恋愛時代の想い出(夫は妻に詩(タイトルの「美しき口に、緑なりわが目は」はその一節です。ただし妻の目はすみれ色に近い青です)を捧げたり、妻は夫にスーツを買ってくれたりしました)を聞かされてうんざり(夫とおそらく妻の両方にです)したものの、相談しに彼の家へ来ようとする夫に、妻はもうすぐ帰ってくるから自宅で待っていろと言いくるめます。
 いったん電話が終わって何とか切り抜けたと思った(横で聞いていた妻の方はかえって盛り上がっていますが、男の方はかなりさめています)のもつかの間、夫からまた電話がかかってきます。
 妻が帰ってきたとの虚言と、それをきっかけにもう一度妻とやり直す(誘惑の多いニューヨークに住んでいるのがいけないので、郊外に一軒家を買って引っ越せばうまくいくかもしれないと思っています)ことを話し合うと言っています。
 これにとどめを刺されて、男は妻と浮気を続ける気が完全に削がれてしまいます。
 
 

 

 

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J.D.サリンジャー「下のヨットのところで」九つの物語所収

2021-05-22 13:49:01 | 作品論

 1949年に書かれたグラス家サーガ(他の記事を参照してください)の一篇です。
 ここでは、第三子で長女のブー=ブー(7人いるグラス家の兄弟姉妹の中で、一番変わった呼び名です)が主人公です。
 彼女は、海軍に勤めた後で裕福なユダヤ人と結婚しています。
 グラス家兄妹も、サリンジャー自身も、ユダヤ人の血を引き継いでいます。
 ユダヤ人の作家は多いのですが、児童文学の世界で一番有名なのは、「クローディアの秘密」などのカニグズバーグでしょう。
 「ベーグル・チームの作戦」のように、ユダヤ人の子どもたちの通過儀礼を題材にした作品もあります。 
 この作品でも、ユダヤ人に対する差別(使用人たちが、父親のことを陰で「ユダ公」と蔑称で呼んでいるのを子どもが聞いてしまいます)や、差別されている民族ゆえの家族愛の強さが描かれています。
 といっても、サリンジャーは話を深刻に描かずに、風変わりな母親(ブー=ブーのことで、自分を海軍中将だと子どもに主張しています)とこれまた風変わりな息子(四歳ぐらいですが、家を抜け出して放浪する癖(この時は湖に浮かべた父親のヨットにいました)があります)との、一風変わった、しかし、次第に心を通わせて行く過程を丹念に描いています。
 結局、子どもらしい聞き違い(カイク(ユダ公)とカイト(凧))によって、ユダヤ人の差別問題(母親が言い聞かせなくても、将来本人が嫌っというほど直面します)については上手に先送りされます。
 子どもの繊細な心の動きとそれを優しく見つめる大人、これは本来児童文学者が描かなければならない世界(ケストナーやカニグズバーグの世界にも通じるものがあります)ですが、残念ながら今の日本の児童文学の世界では優れた書き手が見当たりません(「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の時代には梨木香歩の「西の魔女が死んだ」や森忠明の「花をくわえてどこへ行く」などの優れた作品もありました(それらの記事を参照してください))。
 また、多数派(マジョリティ)の人々による少数派(マイノリティ)の人々に対する差別の問題も、本来は児童文学の大きなテーマだと思います。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「エスキモーとの戦争の直前に」九つの物語所収

2021-05-22 13:45:27 | 作品論

 主人公の15歳の女の子は、同級生でテニス仲間の女の子の家に、最初の一回を除いて半分出そうとしないタクシー代を取り立てに行きます。
 家には女中もいて、テニスをしに行くのにコートまでタクシーで行くほど裕福な家の子なのですが、あまりお小遣いをもらっていないらしくて結構せこいのです(ただし、その代りに、毎回罐に入った新品のテニスボールを家から持ってきています)。
 友達がおかあさんにお金をもらいに行っている間に、主人公は二人の典型的な若い男性に出合います。
 一人はルックスも身なりも悪いし言葉遣いも悪いが率直で飾り気のない友だちの兄で、もう一人は彼の友だちでルックスも身なりもいいが恰好ばかり付けている男です。
 主人公は友だちに対して腹を立てていましたが、ラストでは気分を直してボールを持ってきてくれていることを理由に、お金を受け取ることを断ります。
 明らかに、主人公には、二人の男たちとの会話を通して、物事の本質を見極める力があることを示しています。
 そして、そうした能力が、戦争を引き起こすようなずるい大人たちの本質を見極めることにつながることを示唆しています。
 なお、タイトルは、全く意味のないこと(アメリカがエスキモーと戦争する)を示していて、第二次世界大戦へのアメリカの参戦に対する批判(年寄りの権力者たちが自分の利益のために戦争を起こして、罪のない若い人たち(当時は男性)が血を流している)が込められています。
 しかし、サリンジャーの願いもむなしく、その後のアメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争などの多くの戦争の当事者になり、多くの若者たちが犠牲になりました。
 第二次世界大戦では、それでも裕福な家の若者も、貧乏な家庭の若者も、表向きは等しく戦争に参加させられていました(当然、当時からズルしている権力者の子弟はいましたが)。
 しかし、次第に戦争で犠牲になるのは、貧しい家庭の若者たち(教育を受けられる機会が限られていて、軍隊に入る以外にあまり仕事もない)に限定されるようになってきています(今のアメリカの軍隊は、徴兵制ではなく志願制なので)。
 これと同じことが、日本でも近い将来起きないとは言えないのが、悔しくてなりません。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「ある少女の思い出」角川文庫版「倒錯の森」所収

2021-05-22 13:37:19 | 作品論

 1948年、サリンジャーが29歳の時に発表された短編です。
 放蕩を重ねて大学を退学になった裕福な家庭の男性(長身痩せ型のハンサムな青年なので、ほぼサリンジャー自身の分身と思われます)が、父親の命令で彼の会社で働くのに必要な語学(ドイツ語とフランス語のようです)を習得するために、ヨーロッパへ送られます(そこでも遊んでいるのですが)。
 前半は、ウィーンに滞在中に下宿していた彼の部屋の真下に住んでいたユダヤ人(御存じのようにサリンジャー自身もユダヤ系です)の16歳の美少女と知り合った時の思い出が書かれています。
 この部分は、ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール的な作品のパターン(二人の関係は極めてプラトニックで淡く、彼女にいいなづけ(死語ですね)がいて失恋に終わります)を超えていないのですが、しいて言えば、お互いにセカンド・ランゲージ(主人公はドイツ語、彼女は英語)を使って意思疎通を図ろうとするおかしみにサリンジャーの才筆が感じられます。
 後半はガラリと雰囲気が変わって、第二次世界大戦を経て駐留アメリカ軍の一員として再びウィーンを訪れた主人公が、近所の人たちから彼女が収容所で虐殺されたことを聞かされ、かつて住んでいた部屋に苦労して(高級将校用の宿泊施設になっていたので、下級将校の彼は本当ならば入れません)入って、窓から下のかつて少女が立っていたバルコニーを、一瞬見下ろします(もちろん下のバルコニーには少女の姿はありません)。
 他の記事にも書いたように、1943年から1946年にかけて従軍していた(特にヨーロッパでの、有名なノルマンジー上陸作戦への参加やその後の駐留)体験は、様々な形でサリンジャーの作品に影響を与えています。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「エズメのために ― 愛と背徳をこめて」九つの物語所収

2021-05-22 13:33:57 | 作品論

 1950年に書かれた短編で、ファンの多い作品の一つです。
 主要な部分は、ノルマンジー上陸作戦を挟んで、前半と後半に分かれています。
 前半では、イギリスで実戦前の訓練を受けているアメリカ兵の一人である主人公の青年(駆け出しの小説家=サリンジャー本人)が、ふとしたことから聖歌隊に属する貴族の血をひく13歳ぐらいの美少女エズメ(歌声も、他のメンバーより群を抜いて優れています)と知り合う場面が、まるで初恋の人と出会ったかのように描かれています。
 後半では、戦後のドイツで、戦闘を通して重度の精神疾患にかかってしまったと思われる主人公(初めは登場する兵士の中の誰が主人公かわからないような書き方がされていますが、最後には判明します)が、エズメからの手紙と腕時計(戦死した彼女の父親の遺品)を受け取って、立ち直りのきっかけが得られたことを感じさせる終わり方をしています。
 イノセンスな魂が傷ついた魂を救済するのは、サリンジャーの作品で繰り返されている重要なテーマの一つです。
 ただし、この作品でのエズメは、かなりアイドル(偶像)かミューズ(芸術の女神)のように官能的に描かれているので、それを補完するために風変わりなエズメの5歳ぐらいの弟チャールズをイノセンスな魂の象徴として登場させています。
 作品の構成はおしゃれにひねった二重構造になっていて、前述した主要な部分は、あの時にエズメと約束した「彼女だけのためのお話」を、六年後に彼女が結婚する際(主人公も結婚式に呼ばれていますが、出席できません)に、彼女へ送った手紙の形で実現させたものです。
 ですから、タイトルの「エズメのために」には、そういった意味が込められています。
 また、副題の「愛と背徳をこめて」は、あの時エズメに「背徳」の話を求められたことであるとともに、この期に及んで間接的にエズメへの愛を告白して彼女の結婚と自分の結婚(妻への不満(平凡であることがその理由なのですが、当然それはエズメとの対比も意識されています)も冒頭に書かれています)に波風を立てる背徳的行為であることも意味します。
 さらに、この話には、サリンジャー自身が、過酷な戦闘体験とそれによる精神の不安定さを乗りこえて、文学的才能を維持することへの自己確認の意味も込められています。

 

 

 

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J.D.サリンジャー「エディに会いに行けよ」若者たち所収

2021-05-22 13:26:42 | 作品論

 いろいろな男たちと浮名(不倫も含めて)を流し続けている妹(歌手か女優志望でかなりの美人のようです)を心配して忠告しに来た兄(やはり芸能界に関係しているらしい)との会話と兄妹げんかだけで構成されています。
 直接は関係ないのですが、サリンジャーがグラス家年代記の作品群に登場する有名な七人兄妹(シーモア、バディー、ブーブー、ウォルト、ウェイカー、ズーイ、フラニー)で描いた兄妹の絆の原型がここにあります。
 また、アメリカの戦後の繁栄期(黄金の五十年代と言われています)の典型的な中流家庭(といっても女中がいます)の子弟の暮らしぶりも描かれています。
 そういえば、サリンジャーの代表作の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)を模倣したと言われる庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」の主人公の家にも女中がいますので、高度成長期前の日本の中流家庭でも同様だったようです(高度成長期に賃金が急上昇し、中流家庭からは女中は姿を消しました)。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
クリエーター情報なし
荒地出版社
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J.D.サリンジャー「当事者双方」若者たち所収

2021-05-22 13:18:16 | 作品論

 若い夫婦の破たんと絶望を描いています。
 妻は、ハイスクールを飛び級で15歳で卒業するほどの才女で、医者志望でした。
 夫は、ハイスクールのバスケットボールチームのスター選手でした。
 こうしたスポーツのヒーローは、当時のアメリカのハイスクールでは、日本では信じられないほど人気があり、女子生徒のあこがれの存在です。
 妻が17歳の時に20歳の夫と結婚し、二人には赤ちゃんがいます(おそらく妊娠したために、妻が大学への進学をあきらめて結婚したのでしょう)。
 このカップルは、地元ではあこがれのカップルとして知られていて、二人がダンスフロアに出ると、妻が大好きだった曲が自動的に演奏されるほどです(そのころのアメリカのこういう店には、生バンドが入っていました)。
 夫は、ハイスクール卒業後、地元の航空機メーカーに職工として勤め、今でも若い頃の暮らし(夜にきれいな女の子を連れまわして、友だちと酒を飲む)のままで、父親としての自覚はほとんどありません。
 そんな夫との暮らしに絶望し、妻は赤ちゃんと家出して実家へ戻ります。
 しかし、そこにも自分の居場所はもうないのだと悟った妻は、赤ちゃんのために絶望したまま夫の元へ戻ります。
 そんな妻を夫は全く理解できないのですが、妻は完全に心を閉ざしてしまっています。
 この作品を書いた時サリンジャーはまだ25歳でしたが、すでに周囲の同世代の男女を恐ろしく冷めた目で見ていたことがよくわかります。
 それは、彼の代表作である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)につながるものがあります。
 また、若者言葉の一人称の文体や、夫が妻のいない家でやる一人芝居(映画カサブランカ(その記事を参照してください)での、ハンフリー・ボガードの酒場でのセリフのまね)なども、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」創作の下地になっていると思われます。

 

 

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